元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」

2013-06-15 06:52:08 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Lock, Stock & Two Smoking Barrels)98年作品。今ではハリウッド大作も任せられるようになった、イギリス出身のガイ・リッチー監督の第一作にして最良作。その年の東京国際映画祭での最優秀監督賞受賞作でもある。

 大博打に挑んで、反対に50万ポンドの借金を負うことになった若造四人組。そのうちの一人が、隣人がクスリの売人を襲撃する計画を練っていることを知り、カネを横取りしようとする。ところがその売人がマフィアのボスと懇意にしていたことから、四人組は命を狙われるハメに。一方、古銃集めが趣味のハリーが仕事を依頼した男は、くだんの四人組と関わってしまう。かくして事態は紛糾し、組んずほぐれつのバトルが展開する。



 ガイ・リッチーはビデオ・クリップやCF出身だが、そのキッチュな持ち味が良く出た快作だと言える。序盤は少々人物関係がよくつかめないのだが、それを乗り切ればこっちのもの。立て板に水のようなテンポのいい台詞とゴキゲンな音楽をバックに、ラストまでイッキに見せてしまう。

 ご都合主義をコミカルな味付けで帳消しにして、あとは濃過ぎるキャラクターたちの入り組んだ行動様式を巧みに配置し、結局収まるところに収めてしまう、その脚本・プロットの申し分のなさ。ムダな登場人物がおらず、それぞれ見せ場を作るというスタンスはとてもテビュー作とは思えない。

 あと、訛りがひどすぎる場面では、イギリス人同士が英語で会話をしているのに英語の字幕が出るのには大笑い。ロンドンの裏町の雰囲気も捨てがたい。ジェイソン・フレミング、デクスター・フレッチャーをはじめとするキャストは好調で、ジェイソン・ステイサムが軽妙な役に専念しているのも面白い。必見の映画だと思う。
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「オブリビオン」

2013-06-14 06:29:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:OBLIVION)映画の序盤に、トム・クルーズ扮する主人公のモノローグで“任務に入る前に記憶を消されている”ということが語られるが、この時点で早々にネタが割れてしまう。あとはその“バレてしまったネタ”をトレースするような冴えない話が延々と続くのみ。つまらん映画だ。

 2077年、地球はエイリアンの攻撃を受け、何とか撃退したものの地上の大半は汚染されて住めなくなってしまう。人類は土星の衛星タイタンへの移住を決め、その前段階として巨大な宇宙ステーションに“仮住まい”をしている。しかし地球上にはエイリアンの残党がおり、各種施設を守るためにジャックはパートナーのヴィクトリアと共に地球に残り、監視業務をこなしていた。

 ある日、ジャックは地上に墜落した宇宙船を確認。ジュリアという若い女を救助するが、彼女はなぜかジャックを知っていた。しかも、ジュリアは毎夜彼の夢の中に出てくる女性だったのだ。やがてジャックは正体不明の一味によって捕らえられ、そこで意外な事実を知ることになる。

 中盤、ジャックがわざわざ“汚染地区”に出向く場面がある。何をしに行くのかと思っていたら、そこには“汚染”とは縁のない森林に囲まれた山小屋があり、彼はそこで気分をリフレッシュするのだという(大笑)。いったい何のための“立入禁止地区”なのか。

 このエリアにこういう快適な環境の場所があること自体、自分の任務に対する疑問が湧いてきてもおかしくないのだが、彼は全く気に留めないようだ。ひょっとしたら“そこは脳天気なトムくんだから”というエクスキューズが通用するとでも思ったのだろうか(爆)。

 墜落した宇宙船をめぐる“時差”の問題についてもノータッチだし、エイリアンの正体と真の目的は明らかにされず、謎の一味の行動規範もまるで要領を得ない。荒れ果てた地球の造形も、メカのデザインも、アクションシーンの段取りも、すべてヨソの映画からパクってきたような芸のなさ。ラストなんか、すべて解決したようでいて全然そうではない。

 ジョセフ・コシンスキーの演出は凡庸そのもので、メリハリに欠けテンポも鈍い。トムくんの演技は“相変わらず”で、特筆すべきものなし。一味の首魁を演じるモーガン・フリーマン御大も手持ちぶさたの様子。全体として、何をどう観客にアピールしたいのか、さっぱり分からないシャシンである。

 救いといえば、オルガ・キュリレンコとアンドレア・ライズボローの女優二人がとてもキレイである点だ。逆に言えば、彼女たちが出ていなかったら観る価値はまったくない映画だろう。
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「ナチュラル・ボーン・キラーズ」

2013-06-11 06:13:15 | 映画の感想(な行)

 (原題:Natural Born Killers)94年作品。オリヴァー・ストーン監督のフィルモグラフィの中でも怪作に数えられる。陽気な殺人犯二人組ミッキー(ウディ・ハレルソン)とマロリー(ジュリエット・ルイス)のコンビと、彼らを追う狂ったニュースキャスター(ロバート・ダウニー・ジュニア)と、頭の中がキレた刑務所長(トミー・リー・ジョーンズ)らが織りなすコメディ編だ。

 普段のストーンだと主人公を殺人犯コンビを追う刑事か、あるいは彼らを裁く判事なんかに設定して、現代アメリカの狂った世相をヒステリックに告発する、というのがパターンなのだが、今回はそういう“良識”のかけらも見られない。かといって、スタイリッシュな映像とセリフの絶妙のマッチングもない。

 要するにこれは、ストーンがクエンティン・タランティーノによる原案を口実にして、考えられる限りの悪ノリをやってのけたという、それだけの映画だと思う。

 実に能天気にストレス解消をやってる作品なので、「ありふれた事件」(92年)だとか「ヘンリー」(89年)みたいなシリアスな殺人狂の映画と違って、観たあとは見事に何も残らない。J・ルイスもトミー・リーおじさんも、肩の力がスカーと抜けたように、実に楽しそうに演技している。

 32ミリ、16ミリ、8ミリ、ビデオ画像、CG、アニメーション、ロングショット、クローズアップ、歪んだアングルetc.こういったやりたい放題の映像ギミックは、ハッキリ言って目が疲れる。まあそれでも、ヒロインの不幸な生い立ちを往年のTVドラマ「ルーシー・ショー」(「アイ・ラブ・ルーシー」)をパロった「アイ・ラブ・マロリー」のタイトルで展開していく場面は面白かったけどね。

 なぜか94年ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞しているが、当時ここまでやったストーンは、これ以降どんなマジメなものを作っても、個人的にはイマイチ信用できない作家になってしまった(笑)。
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ROTELのアンプを試聴してみた。

2013-06-10 06:28:12 | プア・オーディオへの招待
 このROTELというブランド名はあまり聞かないが、古くからある日本のメーカーである(設立は61年)。私がオーディオに本格的に興味を持ち始めたのが70年代後半だが、その頃には専門誌にこの会社の広告が載っていたように思う。ところが80年代以降はまったく見かけなくなった。会社を畳んだのか、あるいはオーディオから手を引いたのかと思っていたが、販売拠点を海外に移してかなりの実績をあげているらしい。

 製品そのものはコンスタントに日本でも流通していたらしいが、実機に触れるのは初めてだ。まず聴いてみたのはプリアンプのRC-1580とメインアンプのRB-1582の組み合わせである。CDプレーヤーは米国PS AUDIO社の製品、スピーカーはデンマークのDYNAUDIO社のConfidence C1 Signatureという100万円強のものを繋いでいた。

 その時はSOULNOTEのセパレートアンプと聴き比べた形になるが、とても聴きやすい音だと感じた。フラットな特性で、解像度は十分に確保されている。暖色系のサウンドで、押しつけがましいところや余計なケレンはない。Confidence C1 Signatureは決して鳴らしやすいスピーカーではないのだが、中低域が腰砕けになることも無く、堂々とドライヴしていたのには驚いた。

 言い忘れたが、SOULNOTEのセパレートアンプというのは同社がFANDAMENTALブランドで売り出している高額品だ。対してROTELはプリとメイン合わせて定価36万円。実売価格は30万円を切る。この値段で十分な駆動力を保持しているのは立派だと思う。

 次に試聴したのがプリメインアンプのRA-1520である。定価は12万8千円で、同社の中堅モデルだ。CDプレーヤーは同じROTELのRCD-1520、スピーカーが英国B&W社の805Dというラインナップで聴いてみた。

 前述のセパレート型アンプと同様、フラット指向の聴感上の特性と、温かみのある音色が印象的だ。805Dも実力を発揮させるのは難しいスピーカーで、非力なアンプを繋げると高域のクセばかり目立って聴き辛い音になる。しかしこのRA-1520はアラを出さずに粛々とサウンドを送り出していて、その堅実さは特筆されよう。



 比較する意味で、同じ店にあったMARANTZのプリメインアンプPM-15S2(定価15万円強)に805Dを接続して聴いてみた。結果は一目瞭然ならぬ一聴瞭然である。RA-1520の圧勝だ。PM-15S2は店頭効果を高めるためか、中高域に余計なケレンが付与されている。805Dのようなアンプ類の素性をストレートに出すスピーカーだと、その“下心”が丸分かりだ。チャラチャラとした不快な音しか出てこない。

 10万円台のプリメインアンプではSOULNOTEのsa3.0とNmodeのX-PMF2がクォリティの面では“双璧”であるが、RA-1520はそれに続くものだろう。しかもsa3.0とX-PMF2はヴォリュームと入力切替しか付いていないスパルタンなモデル。対してRA-1520はトーンコントロールやヘッドフォン端子など、一通りのものは装備されている。一般的に広く奨められる製品だ。

 正直言って、ROTELの製品は“見栄え”の面ではさほどのアドバンテージは期待出来ない。MARANTZのようなシャンペンゴールド仕上げや、DENONのPMA-2000REのようなデカくて重い製品の方が良いというユーザーは、ハナから相手にしないだろう。しかし、中身や使い勝手を優先したいという実用本位の選び方をするリスナーにとっては、十分に購入候補になり得る。扱っている店は限られるが、聴けるショップに足を運べるオーディオファンは、是非とも実機に触れることをお奨めしたい。
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「百年の時計」

2013-06-09 07:13:16 | 映画の感想(は行)

 ひょっとすると、金子修介監督の代表作の一つになるかもしれない。「ことでん」の愛称でも知られる香川県の高松琴平電気鉄道の路線開通100周年を記念して作られた映画。オール香川ロケで、香川県知事や高松市長も顔を出すという、地方発自治体全面協力の作品だが、思いがけない“作家性”が横溢しており、すこぶる興味深い。

 高松市美術館が長年企画していた地元出身の芸術家・安藤行人の回顧展が、やっと実現の運びとなった。学芸員の涼香は数十年ぶりに故郷の土を踏む安藤に新作を依頼するが、創作意欲が減退した彼からは色好い返事がもらえない。落胆する涼香に、安藤は古い懐中時計を見せる。これは若き日に高松を後にする彼が、琴平鉄道の車中で見知らぬ女性から譲り受けたものらしい。

 彼の今回の帰郷はその女性を見つけるという目的があり、消息が分かれば新たな作品のインスピレーションになるかもしれないという。そんな安藤のために、涼香は人探しを始める。

 前半はいかにも“ご当地映画”らしい微温的な展開に終始する。例えて言うならば、NHK教育テレビでの番組内での“寸劇”(?)だ。しかし、この毒にも薬にもならないやりとりを我慢して見続けていると、中盤以降の思い切った“仕掛け”に驚くことになる。

 くだんの女性と安藤との関係やがて明らかになるのだが、その真相はかなりドラマティックだ。しかも、それと同時に時制が交錯したトリッキィなシークエンスの組み立て方が目立ってくる。極めつけは安藤の“新作”が大々的にフィーチャーされる終盤近くの作劇だろう。鉄道会社が主催して作られた映画にふさわしく、クライマックスは電車が重要なモチーフとなる。

 過去・現在・未来を列車の運行に見立て、主要登場人物だけではなく小さな役しか与えられていなかったキャラクター達の“想い”までも乗せて線路を走らせるというアイデアは秀逸だ。もっとも、その段取りの中には若干気恥ずかしいネタも混じってはいるが(笑)、思いがけない電車の“終着駅”と、そこで待つ人々の感動的な情景を見せつけられると、許してしまいたくなる。

 涼香に扮する木南晴夏は狂言回し的な役どころなので、正直言って出番が多い割にはさほど印象に残らない(ルックスも地味だし ^^;)。それよりも、安藤役のミッキー・カーチスの飄々とした食えない芸術家ぶりと、彼の若い頃に親交のあった女性を演じた中村ゆりの美しさには感服した。岩田さゆりや井上順などの脇の面子も悪くない。金子監督とたびたびコンビを組む釘宮慎治のカメラによる、明るく澄んだ映像のとらえ方も見逃せないところだ。

 過去にはいろいろな苦難があり、今でも屈託が多く、これからもどんな逆境に置かれるか分からない。しかし、それでも我々は出来ることをやっていくしかないのではないか・・・・というポジティヴな視点が心地良い作品だ。“ご当地映画”も侮れない。
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アントニオ・ロペス展

2013-06-08 07:15:20 | その他
 渋谷の「ザ・ミュージアム」で開催されていたスペイン美術界の巨匠、アントニオ・ロペスの展覧会に行ってきた。ロペスといえばまず思い出すのはビクトル・エリセ監督の映画「マルメロの陽光」(92年)である。あの作品の中で絵筆をふるって果敢に題材に肉迫していた画家が彼だ。私はロペスの絵を直接観るのは、これが初めてである。



 “現代スペイン・リアリズム”の代表選手と評価されているらしいが、実際にその絵に接してみると、写実主義よりもシュールレアリズムに近いことが分かる。ダリやマグリットの絵のような“現実にはあり得ない、奇態なモチーフの組み合わせ”は見られず、あくまで対象をリアルに描くことを基本にしているようだが、出来上がった作品はこの世のものではないような異様なオーラをまとっている。

 何気ない町の風景、マドリードの遠景、室内調度品の数々、そういうものがロペスの筆にかかると“異世界への入り口”に早変わりする。たとえば代表作とされる「グラン・ビア」は街角の風景を切り取ったものだが、精緻な細部と微妙に歪んだ構図により、中央に描かれた通りがどこに続いていくのか分からなくなるような錯覚を観る者に与える。



 「トイレと窓」という作品はタイトル通りの題材を扱ったものだが、時間が止まったような別次元の空間がそこに現出している。「マルメロの陽光」の中で作成していた絵も展示されていたが、未完成のまま途中で終わっているのが面白い。とにかく、いずれの作品も一度目にしたら忘れられないほどの存在感を持っており、観ることが出来て本当に良かったと思う。
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FALのスピーカーを試聴した。

2013-06-07 06:33:18 | プア・オーディオへの招待
 先日は久々に秋葉原に行ってみたが、そこで是非とも足を運びたい店があった。それはFALの試聴室である。FALというのは世界でも珍しい平面振動板ユニットをフィーチャーしたスピーカーのブランドである。主宰者は70年代から平面スピーカーの研究を続けていたという人物。製品の評価は高く、海外にも輸出されているという。

 スピーカーシステムを作って売っているガレージメーカーは数あるが、ユニットの製作まで手掛けるところはそう多くはないだろう。まさに、設計から組み立てまで一人のエンジニアのプロデュースによる製品展開である。

 最初に聴いたのはパッシブラジエーターを前後面に搭載したSupreme C90EXWである。ペアで150万円もする高額機だが、同ブランドにはもっと高いものもある。なお、アンプは同社のステレオパワーアンプS.I.T.-7000で、それにCDプレーヤーを直結しての駆動だ。



 一聴して、これはかなり優れたサウンドであることが分かる。横方向の音場の広がりが、とてつもなく大きい。さらにリスニングルームのどこで聴いても、十分な音場が確保されている。私が使っているKEFのスピーカーも“点音源”によるリスニングポイントの広さが印象的だが、このFALのモデルはもっと凄い。

 ワイドな音場に対し、音像はクリアに定位する。オーディオ用語で言うところの“位相が揃う”というのはこういう状態を言うのかと思うほど、低域から高域までが寸分の乱れも無くバランス良く耳に飛び込んでくる。しかも、国産スピーカーとしては珍しく、音色が明るく暖かい。そのためか、いくら聴いても疲れない。

 次に聴いたのが、FALとしてはローエンドのトールボーイ型であるSupreme S C60である(価格は約30万円)。小さな平面ユニットが一個だけのモデルだが、朗々とした低音が出る。もちろん解像度やレンジ感は上位機種ほどではないが、驚異的な音場の広さはこの機種でも十分堪能出来る。



 正直、危うく衝動買いしそうになったが、Supreme S C60は高音はあまり伸びていない(14KHzまでだ)。もちろん、普通の音楽ソースならば過不足無く鳴らせるが、アナログレコードの優秀録音盤の再生では不安が残る。とはいっても、本機に別売りの高域ユニットを付けると値段が跳ね上がり、買うのはキツくなることから(その場は)ひとまず諦めた。

 FALのスピーカーは余計なケレンもない音の出方で、また能率も高いことから、繋ぐアンプを選ばないと言えそうだ。店主の話だと、安いアンプでもガンガン鳴るという。高いアンプ、それも相性が合致した一部の製品じゃないと上手く鳴らせないスピーカーというのは、商品としては失格なのかもしれない。

 とにかくこのブランドは、高級スピーカーを求めているユーザーならばチェックする価値は大いにあると思うし、たとえ買えなくても(笑)一度聴いてみると良い経験になるだろう。こんなメーカーが日本にあると考えただけでも楽しい。
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「雪国」

2013-06-06 06:33:31 | 映画の感想(や行)
 この前上京した際、時間が空いたので映画でも観ようかと思ったのだが、東京もミニシアターの閉館が相次いでいるせいか、上映している作品は福岡でも封切られているものが多い。仕方なく神保町シアターで古い日本映画を観ることにした。それが昭和40年に松竹が製作したこの映画だ。

 有名な川端康成の小説の映像作品としては昭和32年に豊田四郎監督が手掛けた東宝版(私は未見)がよく知られているが、それに対してこの大庭秀雄監督による映画はイマイチ地味な評価であるらしい。実際作品に接してみると、その理由がよく分かるような、何ともパッとしない出来であった。



 東京に住む翻訳家の島村が雪深い温泉町で出会った駒子と、ゆきずりの恋を交わす・・・・という話は誰でも知っているので粗筋は省略するが、本作ではどう見ても、映画が“身勝手な男と幸薄い女とのアバンチュール”といった下世話な次元に留め置かれていて、燃え立つような情念も屈折した欲望も描けていない。観ていて全然ワクワクしないのだ。

 単に“脚本通りやりました”といった感じでストーリーを平板に追うのみである。島村の過剰なモノローグも鼻につき、中盤以降はどうでもよくなってくる。撮影に成島東一郎、音楽は山本直純という大御所を起用しているにもかかわらず、ほとんど印象に残らない。

 演出が冴えないせいか、主役の木村功がとてつもなく大根に見えてしまうのも痛い。ただ、駒子役の岩下志麻と葉子に扮した加賀まりこは実に魅力的だ。彼女達のプロモーション・フィルムとして観れば、そこそこ楽しめるのかもしれない。置屋のお内儀を演じた清川虹子も絶妙のコメディ・リリーフだ。

 そういえば昔、片岡義男による「雪国」のパロディで「新・雪国」というのを読んだことがあるが、今映画化するとしたらそっちの方が面白くなるかもしれない(笑)。
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東京スカイツリーに行ってみた。

2013-06-05 06:29:11 | その他
 先日、昔なじみの悪友連中と会うために東京へ行ってきた。出張ではなくプライベートでの上京。しかも今回は“嫁御抜き”ということもあり、大いに羽を伸ばすことが出来た(爆)。

 とはいえ、個人的には約8年ぶりの東京であり、その間にいろいろとお江戸も様変わりをしているようだ。20年ほど前には東京に少し住んだことがあるとはいえ、こっちはほとんど“お上りさん”状態である(笑)。いつの間にか東京駅の赤レンガ駅舎はリニューアルされ、秋葉原には巨大なヨドバシカメラが建ち、そして墨田区には東京スカイツリーとかいうものが鎮座している。



 東京在住の悪友どもにもスカイツリーに行ったことがない奴がけっこういたので、良い機会だから早速足を運んでみた。東京スカイツリーには天望デッキが2カ所ある。まず地上350m付近の第1展望台に上ってみた。夜の時間帯であったが、眺めは本当に素晴らしい。宝石を散りばめたような東京の夜景は、間違いなく一見の価値がある。

 調子に乗って別料金を払い、450m付近の第2展望台にまで足を伸ばしてみたが・・・・残念ながら雲が掛かっていて地上はほとんど見えない(爆)。事前にチェックすべきであった。



 週末だったせいもあり凄い人出で、移動するにも長い時間を要した。一躍東京の新名所になったこの電波塔だが、周囲は下町の雰囲気が色濃く残る低層の住宅地だ。そこに見物客が大挙して押し寄せているものだから、環境の悪化が懸念されているという。そのあたりが今後の課題だろう。

 昔、東京タワーが建てられてからそこを舞台・題材にした多くの映像作品が作られてきたが、この東京スカイツリーに関しても、これから頻繁に映画のモチーフになるのだろう。どんな作品が出てくるか、楽しみでもある。
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