元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「心と体と」

2018-07-14 06:16:21 | 映画の感想(か行)
 (英題:ON BODY AND SOUL)設定こそ突飛だが、スムーズで考え抜かれた演出と見事なキャラクターの造型により、見応えのある映画に仕上がった。変化球を駆使した“ボーイ・ミーツ・ガールもの”といった案配で、しかも余韻が深い。2017年のベルリン国際映画祭で金熊賞を獲得したのも納得だ。

ブダペストの食肉工場に、臨時の若い検査官マーリアが赴任してくる。彼女は几帳面な性格だが、他人とのコミュニケーションが極端に苦手だ。職場では誰にも話しかけず、誰もマーリアと関わろうとしない。そんな中、財務部長を務める初老の男エンドレは、彼女を気に掛けていた。彼は(おそらくは脳梗塞の後遺症により)片腕が不自由で、離婚歴のある一人暮らし。人生に対して後ろ向きになりがちな境遇だが、思い切ってマーリアの話し相手になろうとする。



 ある日、職場で起こった盗難事件をきっかけに社員を対象にメンタル検査が実施されるが、何とマーリアとエンドレは毎晩同じ夢を見ていることが判明する。それを契機に2人の距離は縮まるかに見えたが、事態は一筋縄ではいかなかった。

 冒頭、雪山の中に佇む2頭の鹿が映し出されるが、この情景こそが主人公達が同時に見ている夢の中身である。次に画面に現れるのが、工場で“処理”を待つばかりの牛の群れだ。つまり、人間関係に及び腰になって窒息しそうになっている彼らの現実が後者、対して広々とした空間で相手だけを見つめていたいという彼らの願望が前者のメタファーである。

 考えてみれば図式的な仕掛けだが、モチーフ自体が観る側が予想出来ないという意味では、インパクトが実に大きい。夢の中で鹿になった2人は次第に距離を縮めていくのだが、現実のプロセスは山あり谷ありで、決してスムーズにはいかない。そもそも彼らの屈折ぶりは、単に“孤独である”という次元を超えている。言動がとにかくユニークすぎるのだ。



 容赦なく迫る老いに対して捨て鉢になるエンドレも痛々しいが、マーリアが強度の思い込みにより常軌を逸した振る舞いを行うあたりは、かなりシビアである。序盤の、直射日光を避けるしぐさを見せる場面では、“ひょっとして彼女はヴァンパイアなのでは?”と思ったほどだ(笑)。

 斯様な変わった2人のアバンチュールだが、観た印象はとてもロマンティックである。夢の中ならば寄り添えるのに、現実ではすれ違う。そんな甘酸っぱさが画面を横溢し、観ていて引き込まれる。イルディコー・エニェディの演出は多分にイレギュラーだが、本筋はラブロマンスの王道であり、アピール度が高い。

 エンドレ役のゲーザ・モルチャーニの劣等感満載のくたびれたオッサンぶりも面白いが、圧巻はヒロインに扮するアレクサンドラ・ボルベーイだろう。見掛けはまあ美人と言える部類なのだが、何やらこの世のものとは思えない神秘的なオーラを放ち、その存在感は凄まじい。劇中及びエンドロールで流れるローラ・マーリングの“ホワット・ヒー・ロート”も効果的で、鑑賞後の満足度はかなりのものだ。
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「殺しのアーティスト」

2018-07-13 06:12:21 | 映画の感想(か行)
 (原題:HIGH ART)91年アメリカ=ブラジル合作。少予算で、拡大公開もされなかったシャシンだが、実際観てみるとキレの良いタッチで引き込まれるアクション編である。ラテンアメリカの映画も捨て難いと思ったものだ。

 アメリカ人写真家のピーターは、新たに出版する写真集のためリオデジャネイロで仕事を続けていた。ある日、彼のモデルを勤めた娼婦ジゼラがナイフで殺害され、恋人も何者かに襲われてしまう。ピーターは警察に捜査を依頼するが、彼が外国人であるせいか、まったく相手にしてもらえない。自分で動かなければ埒があかないと決心した彼は、プロのナイフ使いであるヘルメスに“弟子入り”する。殺人ナイフの奥儀を極めようとするピーターは、やがて決定的な事件の手掛かりを掴む。ブラジルの作家ルーベン・フォンテカの小説の映画化だ。

 話自体に面白みは無く、あっさりと真犯人の目星も付くのだが、本作はストーリーの捻り具合を楽しむ映画ではない。主人公が“プロの技”を習得するうちに、人格が変貌してゆくという、ニューロティックな趣向を堪能する作品なのだ。

 訓練の場面は実に興味深い。鏡に“*”印を付けて、その線に合わせてナイフを何千回と振り回す場面や、疑似的な組み合いのシーンなど、私も習いたいと思ったほどだ(笑)。そもそも、それに銃ではなくナイフを選んだところに、主人公の屈折した心理がよく表現されている。

 クライマックスの敵の首魁とのナイフ同士の一騎打ちは、短いシーンながら強烈だ。金のかかったハデな場面を繰り出せばアクションになると思ったら大間違いであり、段取りとキャラクター設定を追い込めば、いくらでもインパクトのある画面を創造できるのである。

 ドキュメンタリー出身のウォルター・セールス・Jr.の演出はストイックかつ丁寧で、弛緩したところはない。なお、彼はこの後に「セントラル・ステーション」(98年)や「ダーク・ウォーター」(2005年)といった注目作を手掛けることになる。

 主役のピーター・コヨーテは好演だが、何より強烈なのはヘルメスに扮したチェッキー・カリョだ。雰囲気は「ニキータ」でヒロインを殺し屋として鍛え上げた“掃除屋”そのもので、まさに適役である。ホセ・ロベルト・エリーザーのカメラによるブラジルの自然の風景も素晴らしく、観て損のない好編と言える。
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「ビューティフル・デイ」

2018-07-09 06:16:27 | 映画の感想(は行)

 (原題:YOU WERE NEVER REALLY HERE)上映時間は1時間半と短いが、密度はとても高い。鑑賞後に内容に関して深く考えたり、誰かに感想を述べたりせずにはいられない求心力を有している。主要アワードを獲得したことが作品の質に直結するわけではないが、第70回カンヌ国際映画祭において脚本賞と男優賞を受賞したことも頷けるほどの出来だと思う。

 行方不明者の捜索を請け負い、実績を積んでいるスペシャリストのジョーは、かつて軍や捜査当局に身を置いていた頃の凄惨な体験を忘れることは無かった。また、子供時分の父親からの虐待も、彼のメンタルに大いに影響していた。ある日、ニューヨーク州選出の上院議員アルバート・ヴォットから、裏社会の売春組織にさらわれたローティーンの娘ニーナを救い出してほしいという依頼を受ける。

 早速ジョーは悪者どものアジトを突き止めてニーナを救出するが、その間にヴォット議員は謎の死を遂げ、さらに組織の手の者がジョーを急襲。ニーナは連れ去られてしまう。またジョーの身の回りの者たちが次々と消される事態に及び、彼は背後に大きな陰謀が存在していることを察知する。

 設定だけ見れば、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」(76年)及びリュック・ベッソン監督の「レオン」(94年)との類似性を指摘できるところだが、主人公の内面の屈折ぶりは上記2作の比ではない。

 小さい頃から虐待にさらされ、長じては職務上で悲劇的な場面ばかりに遭遇。そのためか中年になっても配偶者どころか交際相手さえおらず、年老いた母親と一緒に暮らすしかない。そもそも本作は主人公が自殺未遂をするシーンから始まるのだ。特に母親に対する複雑な感情の描写は出色で、それが終盤の大きな伏線になっているあたりは上手い。

 ニーナの抱える屈託も相当なもので、父親の政争の道具にされたトラウマから逃れられずに身もだえする。そんな2人が出会い、いわば“道行き”とも言える展開を示す。この道程は、観ていて胸が締め付けられる。脚本も手掛けたリン・ラムジーの演出は巧みで、直接的な暴力描写は避けられているが、その前後の状態を即物的に写し撮ることにより、暴力自体の凄惨性を強調することに成功。

 主演のホアキン・フェニックスのパフォーマンスは素晴らしく、寡黙ながらその痛めつけられた肉体ですべてを語ろうとするスタンスは、目覚ましいものがある。ニーナに扮するエカテリーナ・サムソーノフの存在感も印象的で、かつてのジョディ・フォスターやナタリー・ポートマンに匹敵するカリスマ性を持ち合わせている。

 ジョニー・グリーンウッドの音楽は「ファントム・スレッド」における仕事よりも数段優れている。トーマス・タウンエンドのカメラによる寒色系の画調も見逃せない。なお、邦題は原題とはかけ離れているが、そのタイトルの意味が判明するラストシーンには泣けてきた。本年度の外国語映画の、収穫の一本になる作品だ。
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「バット★21」

2018-07-08 06:25:20 | 映画の感想(は行)
 (原題:Bat 21)88年作品。特段優れている映画ではないが、観ている間は引き込まれるほどの勢いがある。ヴェトナム戦争をネタにしたシャシンの中では着眼点が良く、また実録物としての重みもある。接して損をすることはない作品だ。

 72年3月。任務遂行中であった米軍戦略空軍のダグラスE8-66は、北ヴェトナム軍の地対空ミサイルによって撃ち落とされとしまう。乗組員の中で生き残ったのは、“バット21”というコードネームを持つハンブルトン中佐だけであった。敵陣の真っただ中に取り残された彼を助けるべく、米空軍戦闘救難チームは早速出撃するが、無線は敵に傍受され妨害される。しかも、翌日になればこの地域一帯では米軍による大規模な爆撃が始まるのだ。



 タイムリミットが迫る中、前線航空統制官のクラーク大尉は無線でハンブルトンとコンタクトを取ることに成功。小型偵察機に乗り上空から敵の動きを探り、逐一ハンブルトンに無線連絡する。ウィリアム・C・アンダーソンによるノンフィクションの映画化だ。

 実話をハンブルトンは無線機に慣れていないにも関わらず、外部と連絡を取れるのが無線しかないために悪戦苦闘する。その設定が面白い。クラークによる上空からの映像と、ハンブルトンが直面する地上戦の実態とのコントラストが見事だ。その2つが互いに交錯し、サスペンスを盛り上げるあたりが上手い。

 それまで互いにコールサインで呼び合っていた2人が、やがて本名を名乗り合うようになるくだりも、観ていて気持ちがいい。

 しかも、米軍将校を主人公にした戦意高揚路線(?)を取っていないことも高ポイントで、食料を拝借した現地住民への謝罪や、ハンブルトンを案内するヴェトナム人少年との交流など、ヒューマニズム的視点を押さえているあたりは好感が持てる。そしてヴェトナム兵を見つめる終盤のハンブルトンの表情など、しっかりと戦争の理不尽さが強調されているのも見上げたものだ。

 ピーター・マークルの演出は、派手さはないが堅実だ。ハンブルトンに扮するジーン・ハックマン、クラークを演じるダニー・グローヴァー、共に良い仕事をしている。クリストファー・ヤングの音楽も悪くない。
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「四月の永い夢」

2018-07-07 06:10:55 | 映画の感想(さ行)

 製作意図が全然分からない作品だ。この映画の中では何も描かれていないし、作者は何も描こうとしていない。すべてが空疎で、冴えない映像だけがダラダラと流れてゆく。1時間半ほどの上映時間ながら、とてつもなく長く感じられた。

 主人公の初海は3年前の春に恋人を亡くし、それをきっかけに中学校の音楽教師を辞め、現在は近所のそば屋でアルバイトをしながら暮らしている。ある日、彼女のもとにかつての恋人の母親から、彼が彼女に向けて書き遺した手紙が届く。開封する勇気が持てないまま時間が過ぎるが、やがて勤務先のそば屋が店を畳むことになり、彼女は就職活動をする必要性に迫られる。すると、自分の世界に引き籠っていたそれまでの日常から、かつての教え子や友人、そして想いを寄せてくれる青年など、多彩な人間関係の中に身を置くことになる。

 とにかく参ったのは、ヒロインとかつての恋人との関係が何も示されていないことだ。後半に初海が相手の実家がある富山県まで足を運び、そこで家族に歓待されるところを見ればどうやら婚約者あるいはそれに近い間柄だったことが窺えるが、具体的なことは一切描かれない。

 彼がなぜ世を去ったのか、件の手紙の中身が開示される終盤に至ってもハッキリと分からないばかりか、どうして初海が教師を辞めなければならなかったのか判然としない。さらに言えば、それらを観客に想像させようとする仕掛けさえ存在しないのだ。

 主人公を取り巻く人物たちは、誰一人としてキャラクターに血が通っていない。特に初海にモーションをかけてくる藤太郎およびその仲間の描写は、いったい何十年前の映画なのだろうかと思うほど古臭い。

 さらに致命的なことは、主人公が音楽教師だったにも関わらず、劇中では何ら音楽が重要なモチーフになっていないことだ。主人公が歌ったり演奏するシーンはもちろん、初海がいつも聴いているラジオから印象的なナンバーが流れることもない。かと思えば場違い的に挿入される“赤い靴”とかいう曲がセンスの欠片もない低調なもので、作者の素養のなさに脱力してしまう。

 映像も白茶けたように密度が低く、舞台になる国立市の街並みも、創作手拭いの職人である藤太郎の工房も、富山県の片田舎の風景も、すべてが薄っぺらで深みが無い。監督と脚本は中川龍太郎なる20代の若手だが、まだ力量が備わっていないと思われる。

 主演の朝倉あきは熱演ながら、映画の中身が斯くの如しなので“ご苦労さん”と言うしかない。三浦貴大や川崎ゆり子、高橋由美子、志賀廣太郎、高橋惠子といった脇のキャストも精彩を欠く。聞けば第39回モスクワ国際映画祭でいくつか賞を獲得したらしいが、この映画祭のレベルが認識できない以上、その件についてのコメントは差し控えたい。
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「シンガポールスリング」

2018-07-06 06:17:16 | 映画の感想(さ行)
 93年作品。若松孝二という監督は作品数が多く、その中には傑作も何本かあるのだが、一方では箸にも棒にもかからないシャシンもある。つまりは出来不出来が激しい作家で、本作はどうかというと、正直言って下から数えた方が早いだろう。気になるのがこれは若松自身や映画会社の企画ではなく、歌手の徳永英明の原案によるということだ。門外漢が関わると良い結果に繋がらないという、典型例ではないだろうか。

 加藤雅也と秋吉満ちるが扮する若夫婦が、オーストラリアで事件に巻き込まれてヒドイ目に会うという話。だいたいがこの二人、不幸に見舞われようが、くたばろうが、全然どうでもいいようなキャラクターである。



 英語が全然しゃべれないくせに外国をウロウロする加藤。英語はしゃべれて母親が外国人らしいのに地元の文化・習慣にまったく無頓着な秋吉。カメラ片手に所かまわずパチパチ写していると、うっかり暗黒街の顔役をとらえてしまい(そもそも、暗黒街のボスが観光客の面前にホイホイ出てくるという設定も疑問だが)、それで窮地に陥っていく・・・・などという設定は、まさに自業自得。同情の余地はない。

 ワナにはめられ、刑務所送りになった加藤を救うべく、地元のアボリジニの解放運動に参加している奇特な日本人(原田芳雄)のグループが刑務所を襲撃。あとは警察をも抱き込んだマフィア一味と主人公たちとのドンパチが展開するが・・・・いったいこの緊張感のカケラもない活劇シーンは何? ただ撃ちまくればアクションになるとでも思っているのだろうか。全体的に演出のキレは悪く、ラストの大ボケまで、気合いの入らない“活劇ごっこ”が延々垂れ流されていく。

 どう見たって評価以前の出来だが、公開当時は褒めている評論家がいるのには呆れたものだ。“素晴らしい出来映え”とか“若松孝二監督は自らの到達水準を更新した”とか、どこをどうすればそんな論評が出てくるのか、理解不能だ。ひょっとして原住民の解放闘争に参画する原田のキャラクターに、全共闘世代へのオマージュとやらを感じていたりして・・・・。言うまでもなく、そんなの私には関係ない。

 なお、音楽も徳永が担当しているが、サウンドがほとんど画面に合っておらず、大いに盛り下がる。
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「デッドプール2」

2018-07-02 06:21:28 | 映画の感想(た行)
 (原題:DEADPOOL 2)前作よりも面白い。もっとも、パート1があまりにも低調だったので、それに比べれば随分とマシに見えるのかもしれないが(笑)、とにかく最後まで退屈せずスクリーンに向き合えたことは確かだ。

 エイジャックスとの戦いから2年後、デッドプールことウェイド・ウィルソンは、犯罪組織を壊滅させるなどの“ヒーロー的活躍”の傍ら、恋人ヴァネッサとお気楽な日々を過ごしていた。そんな時、マッチョな機械人間ケーブルが未来からタイムスリップしてくる。ケーブルは14歳のミュータントの孤児であるラッセルを狙うのだが、彼によればラッセルは未来において世界崩壊の引き金を引く存在になるらしい。



 ヴァネッサの希望もあり、取りあえずはラッセルを守ることにしたデッドプールは、強大な力を持つケーブルに立ち向かうため、仲間を集め“エックス・フォース”を結成する。一方、ラッセルが収容されていた孤児院がミュータントを対象とした施設であったため、若い超能力者の支援を行っているX-MENも事態に介入してくる。

 ウェイドがデッドプールになった経緯はインモラル極まりないのだが、それは前回ですべて紹介されていたため、今回はそのあたりを気にする必要はない。だから、このお調子者ヒーローもどきの破天荒な言動を気軽に楽しむことができる。

 タイムトラベルによって過去を変えるというモチーフは、以前のX-MENのシリーズでも取り上げられており目新しさはない。しかし、その使い古されたネタも主人公をはじめ登場する面々の度を越したおふざけによって、巧みにカバーされている。



 扱われているギャグはMARVELシリーズに精通していなければ分からないものをはじめ、一般の映画ファンだったら理解できるもの、そして誰でも分かる平易なもの等、各種取り揃えられており、しかもそれらが矢継ぎ早に繰り出されるために突っ込むヒマを与えない。各キャラクターも十分に“立って”おり、主人公の悪友どもや個性的すぎる“エックス・フォース”のメンバーなど、それぞれに見せ場が設定されている。

 デイヴィッド・リーチの演出はテンポが良く、戦闘シーンも難なくこなす(特に街中でのカーアクション場面は出色だ)。X-MENからは前作に引き続いてコロッサスとネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド(およびその“恋人”)が参加するが、彼らがX-MENの中では二線級キャラであることを強調するくだりには笑った。

 主演のライアン・レイノルズは絶好調。鬱陶しさを感じる一歩手前の時点での怪演が光る。ジョシュ・ブローリンやモリーナ・バッカリン、ザジー・ビーツ、ブリアナ・ヒルデブランド、忽那汐里などの脇の面子も悪くない。たぶんパート3も作られると思うが、果たしてこの主人公がX-MENあるいはアベンジャーズといった“本流”とどう絡んでいくのか<、少し興味がある。
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「ションベン・ライダー」

2018-07-01 06:41:52 | 映画の感想(さ行)
 83年作品。通常、映画の質は主に脚本(筋書き)で決まり、次に重視されるのがキャストのパフォーマンス、そして演出という順位である。監督の個性、ましてや作家性という名のケレンなんかは、下位に置かれても仕方がない。しかし、ごく一部に作家性だけで映画自体を成立させてしまう“荒業”がサマになっている演出家が存在する。本作の監督である相米慎二はその最右翼であり、この映画は彼のフィルモグラフィの中では最も先鋭的なものだ。その意味では大いに存在感のあるシャシンだ。

 ジョジョ、辞書、ブルースの3人の中学生はクラスのボスであるデブナガにいつも痛い目に遭わされていた。我慢も限界に達し、今日こそリベンジを果たそうと決心したその時、3人の目の前でデブナガは誘拐されてしまう。実はデブナガの父はシャブの売人をやっており、自らのシノギを横取りされそうになった横浜のヤクザ極龍会の山と政が犯行に及んだものである。



 だが、事件が大々的に報道されるに及び、組はこの一件を収めるべく、中年のヤクザ・厳兵に山と政を連れ戻すように依頼。くだんの3人組と知り合った厳兵は、協力してデブナガを救出すべく山と政のアジトがあると思われる熱海に向かう。さらに当地でちょうど教員研修に来ていた担任のアラレ先生も巻き込み、事件は思わぬ方向に転がり出す。

 冒頭の“360度長回し”をはじめ、この監督の特徴であるワンシーン・ワンカット技法が大々的にフィーチャーされているが、今回はそれだけではなく、技巧を先行するあまりストーリーが解体していくという、倒錯した構図が展開している。

 クローズアップが極端に少なく、各キャラクターの顔かたちさえ認識することが出来ない。だが、登場人物の見分けが付かなくなる事態には、決してならないのだ。ではどうやって出てくる連中を判別するかというと、それは“アクション”に尽きる。

 スリムな体格の中学生3人組は、もっぱら縦方向の動きに終始する。対してのっそりとした厳兵は、横方向にしか動かない。デブナガに至っては、アクション自体に乏しいのだ。これら縦横の移動が交錯して目を見張るスペクタクルが現出するのが、運河に浮かぶ木の上でのチェイスシーンである。もはや誰が誰を追いかけているのか分からず、画面コンテンツが不規則運動している現象を延々と見せられる。光と影と対象物、それらをフィルムに残すだけという、映画の原初的な“機能”をトレースしているといえよう。

 ならば無機的な映画なのかというと、そうではない。この“アクション”が思春期の只中にいる主人公3人の“生理”と見事にシンクロし、甘酸っぱい青春ものとしてのスタイルを確立している。

 3人組に扮するのは、永瀬正敏と河合美智子、そして坂上忍である。たぶん監督からシゴかれて死物狂いで“アクション”に徹しているのだと思うが、この体験が後年の彼らの“財産”になったことは論を待たない。厳兵役の藤竜也、アラレ先生を演じる原日出子、そして桑名将大や木之元亮、財津一郎、村上弘明、寺田農、倍賞美津子などキャストは実に多彩で見応えがある。
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