♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして8年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄 2017年3月号

2017-02-20 10:48:08 | 随想
慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
  2017(平成29)年3月号

           (NO・40) 了雲寺 釈幸華



お内仏と言う装置

 私事ながら、母が往生して丸八年がたちました。遺言で、いとこ会を年に数回、季節のお花に合わせてもっているのですが、先日は天満宮の梅にかこつけて5人が顔を合わせました。冷たい風に観梅もそこそこ、車で家に乗り付けお茶タイム。コーヒーを用意している間にメンバーの姿があったりなかったりするので、そう広い家ではないのにトイレ以外にどこに行ってたの?と聞くと、口々に「お内仏にお参りしてた。」
ああ、これなんだ、母が私に残してくれたのは、と思いました。席に着く前に、もうこの世の人ではない存在に、私と同じように手を合わしてくれている。そうして続くおしゃべりの中で亡くなった人々が繰り返し登場し、遠い記憶に慰められ安心に包まれる。

2月10日、北御堂の公開シンポジウムのテーマは「儀礼空間の必要性とはたらき」でした。さすが売れっ子揃い、堂内は満杯。内田樹(たつる)さん(思想家)は、合気道の道場を運営する中で気づいた空間の「指南力」を、中沢新一さんは、人類学の知見から葬送儀礼の意味を、釋撤宗さん(お馴染み、浄土真宗の僧侶、宗教学者)は、東日本大震災で浮上した死者儀礼の重要性を語ってくれました。
私が一番興味深く聞いたのは、中沢さん。チラシに曰く「死者と生者の間に適切な距離を創設するのが、葬送儀礼です。死者は危険な存在として遠ざけなければならない。かといって遠ざけすぎると死者の恨みを買って災禍がもたらされかねない。生者の世界から遠からず近からずの距離に、死者はおさまっていてほしい。」
           
先ず中沢さんは、儀礼は「遊び」の一形式だと定義します。学生時代に読んだ、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」が引用されました。(懐かしい!、遊びこそ人を人にする。山岳部員必読の書)
死の概念は、見えないもの。だから象徴とか記号があり、厳格なルールのもとに同じ行為を繰り返す儀礼がある。ここでフロイト(1850~1936)の「fort(フォルト)/da(ダー)」遊びの話。1歳半の孫が、糸巻きを放り投げては手繰り寄せて繰り返し遊んでいる。決まってお母さんが留守にしているとき。放り投げるときは「オーオーオー(あっち、いない)」、手繰り寄せるときは「ダー(いた)」と声を発して。フロイトは、孫のこの遊びを母親不在のストレスを解消し、馴れ、克服することを試みたと解釈しました。
そして縄文時代。生産過剰を生み出さない社会は、死者と生者はきわめて近接した場所に「暮らし」、祭儀の空間の中で一体となる。つまり、村の中心(広場)に死者を葬り、夜には足を踏み鳴らし死者と共に踊る。
次に弥生時代。余剰生産物を生む社会に調和的な死者と生者の関係ができる。つまり、生者の暮す空間から適切な距離に墓地ができる。と、ここまではいいんだけど、デカルトを持ち出してきて「死を思う、ゆえに生あり」とか何とか、急に「算術」なんかになって、適切な距離「黄金比率」が0.62とか言われたひには・・どうすれば??

さて、現代は弥生時代の続きでしょうか?直葬やゼロ葬などと聞いたら、退行しているような気がします。そこで、いとこ会を代表して言わせてもらいますが、家の中心・座敷のお内仏の前で、常に死者と向き合う(しかも、仏となって仏恩報謝・・釋先生)って、人類の最先端行ってません?!



*3/15 2時~お寺カフェ  4/5 ビハーラお花まつり7時半~ 桂三金さん     合掌
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 慶聞抄 2月号 | トップ | 慶聞抄 2017年4月号 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

随想」カテゴリの最新記事