♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして9年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄2022年6月号

2022-05-20 20:39:27 | 随想
慶聞抄(きょうもんしょう)


    修復された阿弥陀堂のお内陣(報道写真より)

願生浄土

5月12・13日、3年ぶりの石川南組念仏奉仕団にOさんと参加しました。と言っても、その朝大型バスに乗り込んだのは、係の住職さんたちや寺族を入れても20人足らず。何の制限もないゴールデンウィークの直後とあっては、参加したくても家族が心配して反対にあったのではと推測しました。おかげで2シート独占して荷物も置き放題の贅沢さ。

奉仕団の集会場、安穏殿3階の畳のお部屋も、いつもならびっしり人で埋まるところですが、うちを入れてこじんまりと4団体。この4月から奉仕団再開したところですと、前に立ったのは、前のガンちゃんの後継者・としちゃんでした。

2017年から行われていた阿弥陀堂内陣修復が3月末に完了したばかり。お浄土もかくやあらんと、まばゆい金箔の輝きに見とれました。(座るときは、ディスタンシングを取って一畳に一人。)畳や廊下の拭き掃除の後、対面所でのお菓子とお茶のお接待もゆったり。時折、音を立てて降る雨も、記念すべきこの期のご奉仕ぞと喜んでいてくれるように感じました。

「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養浄土(あんにょうじょうど)はこひしからず候ふ」『歎異抄』第9条

・・永遠の昔から今まで過ごしてきたなかでの苦しみや悩みはどうしても捨てることができず、まだ生まれたことのない安らぎの世界であるお浄土を恋しいとは思えません・・
 
現代では「浄土」よりは「天国」がよく聞かれます。キリスト教の影響でしょうか。お空のもっと上のイメージとか。地獄や極楽とか言っても「そんなものが本当にあるのなら見せてください」などと言われそうです。何でも「エビデンス(証拠・根拠)」を要求される風潮ですから。でも「ある」とか「ない」とか、そういう話ではないのです。
 
「浄土とは、完全に浄化された感性が感受した世界です。それは『水』なら『水』に無限の豊かさを感ずることのできる心の描く世です。それとは対照的に経済的価値としてのみ感ずる感性の描き出す状況を餓鬼といいます。さらに、本来恵まれた『もの』に憎悪をいだくならば、それを地獄とあらわします。地獄は最も悲しい感受の世界です。それは感謝も恩恵も愛をも感ずることのない、憎悪と孤独が描きだした現実の世界なのです。  実は、浄土を知る事によって、自身の現実世界が穢土(えど)であることを知らされます。穢土を知るとは、自己の感性の劣悪さを知らされることです。・・穢土を自覚し、浄土を目的として生きることを願生浄土(がんしょうじょうど)といいます。苦悩の旧里(穢土)といわれても捨てがたく、浄土が恋しくないとは、この浄土のはたらきに触れたからこそ、欲望の現実に身を沈めている自身を深く反省した言葉といえるでしょう」*本願寺出版社「65歳からの仏教」より

 本堂でのご法話のご講師を見てびっくり。何とうちの去年の報恩講に来ていただいた長谷川先生でした❣ ご挨拶にOさんと一緒に駆け寄ると、話を短くするように言われるので難儀やと吐露されていました。スミマセン!その節も私、そう言いました!また、7月にも組の仏婦でお世話になります、短めに宜しくお願いします‼      合掌

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