プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

●老いの意識

2005-04-25 11:27:47 | 日記・エッセイ・コラム
 2005年4月20日。大腸がんで入院した友人を見舞った。さいわい、術後の経過は順調で、2週間もすれば退院出来るとのことだが、3年前に乳がんを手術した奥様が漏らした言葉に考えさせられた。「ここ2,3年色々なことが続きますが、こうやって歳を重ねて老いて行くんでしょうかね」と。

 「老い」を感じる瞬間は、人それぞれだが、ある期間を経て、次のステージに上っていく気がする。老いは万人に訪れるが、その感じ方は千差万別だ。肉体的な衰えは体力測定等で測り知ることが出来るので、同年代の人と比較して自分が劣っているのか優れているのか判断がつく。厄介なのは精神的な衰えだ。肉体の老化は年齢に正比例しても、精神的老化はそうはいかない。ともすると、反比例する傾向さえある。知的好奇心は時間的余裕がふえるだけに「老いてますます盛ん」になるからだ。

 それは個人レベルであれば結構なのだが、社会活動においては悪影響を及ぼす場合がある。先輩が後輩に過去の成功体験を披露したり、押し付けたりする場合だ。環境の変化を無視して、過去の事例に当てはめる所作は愚に等しいと心得るべきだろう。

 人間の一生は限りある以上、先人の知恵を謙虚に受け止め、自分の価値観形成に役立たせることが出来れば、その人の人生は二倍にも三倍にも大きくなる理屈なのだが、何かが悪さをしてしまう。肉体的老化と知的老化が同期をとって進行してくれれば有難いと思うのだが。