「夫婦の定年」について、考えたことはありますか。
「馬鹿言ってんじゃないよ!そんなの、偕老同穴。死ぬまでと決まってるだろ!!」と、ひんしゅくを買うかも知れない。考えること自体、不謹慎だと。しかしながら、私は真面目に考えるべきだと思います。
人間の定年は死であることに異を唱える人はいませんが、同じ人間でも男と女とでは異なります。定年を寿命と捉えるなら、日本人男性は76歳、女性は84歳ほどですから、男女でじつに8年もの差があることになります。さらに結婚年齢は、一般的に男性の方が年上です。もちろん、逆の場合もありますし一概に決めることは慎むべきですが。
そうなると、夫婦としての生活期間と死別した後の生活設計まで展望しておくことが極めて大切なことになります。
人間の一生は、誕生から死ぬまでですが、夫婦の一生は歴然として違うのです。どれだけ仲が良い夫婦でも死ぬ時は一人ぼっちです。結婚し、子供が誕生すれば、しつけ教育・就職・結婚で一応親としての義務は果たします。子供が巣立った時、再び夫婦二人だけの生活に戻るのですが、心の支柱ともいうべき子供が居なくなると空虚さを感じます。その後の生活を一番充実させなければいけないのに、大抵は人生に疲れた風情に陥ってしまいます。
書店には、「老後の生き方」とか「年金で豊かに暮らすには」、或いは、「定年後を豊かに生きる方法」、「定年に備えて」等々、数多くのハウツーものが並んでいます。いずれの本にも共通しているのは、定年=60歳を前提としていることです。最近、65歳定年延長案などと愚かな政策まで出てきています。言うまでも無く、年金財源逼迫の窮余の一策として「定年延長」を実施しようとするものです。無能このうえない政策です。人生は一体何のためにあるのかと問いたくなります。働き続けて死んでいくのではなく、余生を楽しく充実させなくては無意味です。そして、その時間は長いほど、良いはずです。
ライフステージを展望するとき、男女で定年(=寿命)に差がある以上、夫婦としての定年をベースにしないと惨めな末路を迎える気がしてならないのです。そう考えた時、私は58歳で退職し、時間を超越した生活(勝手に時悠人と称した)を選択しました。
「馬鹿言ってんじゃないよ!そんなの、偕老同穴。死ぬまでと決まってるだろ!!」と、ひんしゅくを買うかも知れない。考えること自体、不謹慎だと。しかしながら、私は真面目に考えるべきだと思います。
人間の定年は死であることに異を唱える人はいませんが、同じ人間でも男と女とでは異なります。定年を寿命と捉えるなら、日本人男性は76歳、女性は84歳ほどですから、男女でじつに8年もの差があることになります。さらに結婚年齢は、一般的に男性の方が年上です。もちろん、逆の場合もありますし一概に決めることは慎むべきですが。
そうなると、夫婦としての生活期間と死別した後の生活設計まで展望しておくことが極めて大切なことになります。
人間の一生は、誕生から死ぬまでですが、夫婦の一生は歴然として違うのです。どれだけ仲が良い夫婦でも死ぬ時は一人ぼっちです。結婚し、子供が誕生すれば、しつけ教育・就職・結婚で一応親としての義務は果たします。子供が巣立った時、再び夫婦二人だけの生活に戻るのですが、心の支柱ともいうべき子供が居なくなると空虚さを感じます。その後の生活を一番充実させなければいけないのに、大抵は人生に疲れた風情に陥ってしまいます。
書店には、「老後の生き方」とか「年金で豊かに暮らすには」、或いは、「定年後を豊かに生きる方法」、「定年に備えて」等々、数多くのハウツーものが並んでいます。いずれの本にも共通しているのは、定年=60歳を前提としていることです。最近、65歳定年延長案などと愚かな政策まで出てきています。言うまでも無く、年金財源逼迫の窮余の一策として「定年延長」を実施しようとするものです。無能このうえない政策です。人生は一体何のためにあるのかと問いたくなります。働き続けて死んでいくのではなく、余生を楽しく充実させなくては無意味です。そして、その時間は長いほど、良いはずです。
ライフステージを展望するとき、男女で定年(=寿命)に差がある以上、夫婦としての定年をベースにしないと惨めな末路を迎える気がしてならないのです。そう考えた時、私は58歳で退職し、時間を超越した生活(勝手に時悠人と称した)を選択しました。