2月9日 第33回アメリカスカップ第1レース 延期

2010年02月09日 | 風の旅人日乗
スペイン時間で、2月8日午前6時。
商業港にあるBMWオラクルレーシングの仮設キャンプ。
挑戦艇〈USA〉のドックアウトを見る。

少しでも艇を軽くしたいスキッパーのジェイムズ・スピットヒルからお願いされて、
レースには乗れなくなったチーム・オーナーのラリー・エリソンも、
クルー全員にハイタッチで挨拶して、インフレータブル・ボートに乗って、〈USA〉へ。

そう、ウイングマストを立てた〈USA〉は、常に風に立てておかなければならないため桟橋には係留できず、少し沖にアンカリング中。



それにしても〈USA〉のウイングマストの威容には、度肝を抜かれる。
ヨットも、ついにここまで来たか、という印象だ。

今日の、第33回アメリカスカップ第1レースの予告信号は、午前10時予定。
風速15ノット以下、波高1メートル以下でなければレースを行なわないという、防衛者側が一方的に定めたコンディション規定はジュリーから認められず、
レースを行なうか否かは、レース委員長のハロルド・ベネットが判断を下す。

第1レースのレースコースは、往復40マイルの上下一周のコースで行なわれる。

一辺20マイルもの広大なレースエリア、45ノットものスピードでマニューバリングする2隻のモンスターヨット…。
スタートから風上マークまで20マイルという距離は、例えば相模湾の東西方向の距離にほぼ匹敵する。
〈アリンギ〉のコーチ、エド・ベアードは、
「もし両者が望んで、スタート前のサークリングが始まるとしたら、スタートラインから1マイルか、それ以上離れた場所で起こるだろう」、と語る。

リーチングで40ノットで走る2隻が、1マイルの距離を走るのに要する時間は僅か1分30秒。
つまり、通常のマッチレースのタイミングでサークリングを解いてスタートラインにアプローチを開始するためには、
必然的にサークリングの場所はラインから1マイルは離れてなければいけなくなるのだ。

さて、今、現地時間2月9日朝6時。
軽い酔いが残っている。理由は後述。

第1レースの結果はいかに!

残念だが、第1レースは延期されました。風向が定まらない、との理由。

ぼくが乗ったメディアボートは上マークで待機していたが、8ノットから10ノットの、南西のいい風が吹いていた。
ところがそこから20マイル離れた沖合いのスタート海面では、
風向が不安定で、風速も弱かったらしい。

再び、この距離感を相模湾になぞらえてみると、
上マークがある初島ではすごくいい風が吹いているのに、
スタートラインがある葉山沖の風が弱く、スタートできなかった、ということになる。
20マイルも離れるとVHFも届かず、
レース・コミッティーはこれからも大変な苦労をすることになるのだろう。

因みに、上マークにいるメディアボートからは、
防衛艇と挑戦艇のどちらの姿もまったく見ることができなかった。
よく考えてみれば、いくらマストの高さが60メートルあるヨットだとは言え、
葉山にいるそれを初島から見える訳がないのだった。

興味深い話をひとつ。
本日のレース延期が決まった後、メディアボートに映されている2隻の航跡を示すバーチャル・アイのデータを見ていると、
2隻がしばらく走り合わせをしていた。
どれほど本気モードの走り合わせかは疑わしいが、挑戦艇の〈USA〉が15ノット強のスピードだったのに対し、
防衛艇の〈アリンギ5〉のスピードは常にそれより2ノット近く下回っていた。ま、ただの話題に過ぎませんが・・・。

で、夜、バレンシア在住のプロセーラー福ちゃんと、葉山在住のモスセーラーのG君に会って、バルでセルベッサ(ビール)とビノティント(赤ワイン)を飲みながら情報収集。
2人は、スウェーデンのビクトリー・チームのインフレータブルに乗ってスタート海面に出張っていた。

レース延期決定後の2隻の走り合わせは、〈アリンギ5〉のほうはジブを揚げていなかったとのこと。それじゃあ、ああいうスピード差になるわな…。
G君によると、防衛艇に比べて〈USA〉のスケール感は圧倒的で、
それを見て
「オラクルが勝つんじゃないか、ってこちらに来て考え直しました」とのこと。

福ちゃんからはヨーロッパのヨット事情を、
オタク的なねちっこい目で2隻を至近距離で観察してきたG君からは2隻の詳細を、
それぞれ事情聴取。
時間が経つのも忘れ、ワイン片手に話し込む。
しかも、最年少のG君にバルの勘定をおごらせてしまう。
最年長者として非常に恥ずかしい…。今度、このお礼は葉山でね。

シャワーを浴びて、ベッドに入る前に時計を見たら、午前2時を回っていた。

わざわざこちらに来ていながら、2隻のセーリングをまだ自分の目で見ていない。
レース中に近寄ることは、本日の経験から『無理』と判断し、
いろいろな伝に連絡を取って、レース日以外に2隻のセーリングを視察に行こうと、
手を尽くしているところ。
乞うご期待。


BMWオラクルレーシングのコンパウンドでは、
メディアやスポンサー・ゲストに優雅な朝食が振舞われていた。
早朝なのに、シャンパン、ワイン、ビールも並べられておりました。さすが、ヨーロッパ。
「御来賓の皆様のプライバシーを守るために、写真撮影はご遠慮下さい」
と、この写真を撮ったあとで素敵なスペイン美女から叱られた。


メディアボートの1隻でレース解説を担当するのは、オリンピック金メダル3つのヨハン・シューマン氏。

2月8日 バレンシア

2010年02月08日 | 風の旅人日乗
現在、スペイン時間で午前3時過ぎ。
もうしばらくしたらBMWオラクルレーシングのコンパウンドに行き、商業港にあるオラクルの仮設キャンプに連れて行ってもらって、挑戦艇〈USA〉のドックアウトを見に行く。

今日の、第33回アメリカスカップ第1レースのスタートは、午前10時6分予定。
風速15ノット以下でしかレースを行なわないというアリンギ側の主張は通らず、
レースを行なうか否かの判断は、レース委員長のハロルド・ベネットにすべて委ねられることになった。

ロイヤル・ニュージーランド・ヨットスコードロンで、長くジュニアとユースのプログラムのコーチ・監督を務めてきたハロルドにとって、
挑戦チームを率いるラッセル・クーツも、防衛チームを率いるブラッド・バタワースも可愛い教え子だ。

ラッセルが最初のユース・ワールド遠征で、ほとんど手にしていた優勝を、
無実の「マークタッチ」で取り落としたときも、ハロルドはラッセルの横にいた。
そして2人でその悔しさを乗り越え、翌年のユース・ワールドでチャンピオンに輝いたのだった。

教え子2人の、アメリカスカップという大舞台での対決を、
その試合の運営責任者としての立場で見ることになったハロルド。
彼自身にとっても、極度の緊張に包まれる予告信号になることだろう。



第1レースのレースコースの運営について説明するコース・マーシャル。
一辺20マイルもの広大なレースエリア、45ノットものスピードでマニューバリングする2隻のモンスターヨット…。
第32回アメリカスカップで見事なレース運営を見せたベテランのコース・マーシャルも、
「正直なところ、明日一体どんなことが起きるのか、イメージできないで困っている」と言う。
〈アリンギ〉のコーチを務めるエド・ベアードは、
「スタート前にもしサークリングが始まるとしたら、恐らくそれはスタートラインから1マイル以上離れた場所で起こるだろう」、と語っている。



第1レースのエントリーサイドを選ぶコイントスを見守る群衆。
第1レース、スターボードからエントリーするのは挑戦者〈USA〉に決まった。


次にこのブログに書き込むことができるのは、第1レース終了後。
どんな結果を書くことになるのだろう?

ホクレア 2010年1月25日~2月1日

2010年02月08日 | 風の旅人日乗
【ラナイ島沖】


キャプテン・マイク・テイラーの元で参加してきた、1月25日から2月1日までの、
ホクレアによる8日間のディープシー・トレーニングについては、
いつか時間をかけて、きちんと航海の様子と自分自身の復習をまとめなければいけないのだけど、
ちょっと今は仕事でバタついているので、まずは写真だけで見返しておくことにする。




今回のディープシー・プログラムでは、
ぼくはキャプテンから『セーリング・マスター』というポジションを与えられて乗艇した。

今回の航海を通じて、ホクレアでのセーリングの実際について、
自分自身で学びつつ、若いクルーたちにもある程度のことを伝えることができたかもしれない、と思っている。
でも、まだまだ英語力も含め、自分の力不足を感じ、もどかしい気持ちも強い。




3枚のセールのトリムや大きさをバランスさせることで、
ホクレア自身が自分で定められた方向に走っていくように工夫した。
ステアをいかに安定させて、安全とスピードを両立させるかを、常に考えた。
ホクレアというセーリングカヌーについて、少しだけ理解を進めることができたかもしれない。




ナイノア・トンプソンと彼が教育中の若いナビゲーターたちを乗せるために、
ある日の夜明け、一旦オアフ島に戻る。
ダイヤモンドヘッド沖から朝日が昇る。

この時期、貿易風が安定せず、ハワイ島の方向からオアフ島に向かって風が吹いていたため、
ハワイ島の火山の噴煙がオアフに運ばれてきて、霧が掛かっているようになる。
ヴォルケーノからの霧だから、
「フォグ」と呼ばずに「ヴォグ」と呼ぶのだと教えられた。
ヴォグが濃いときには、朝日は濃いピンク色になるという。




ナイノアの秘書を永く務めたステラさんが、若くして癌で亡くなった。
彼女の追悼セレモニーのために、
ステラさんが幼少の時代を過ごしたカウアイ島のワイメアに向かい、夜明け前に着いた。
曇り空の下をオアフ島からカウアイ島までホクレアをナヴィゲートしたのは、
ナイノアの一番弟子の若いナヴィゲーターだ。
素晴らしいセーリングだった。

夜明け。西の方向のニイハウ島の上に月が掛かる。

タイガー・エスペリの弟のルイさんによるセレモニーの間中、
1頭のイルカがホクレアの周りを泳ぎ続けた。
その横でナイノアが海に潜り、ステラさんの遺骨を海に戻した。



2月7日 バレンシア

2010年02月07日 | 風の旅人日乗
バレンシアの夜明け。太陽が昇る前の東の空に月が掛かる。
どこに行ってもお月さんは付いて来るんだなあ、と、こどものようなことを今更ながらに思う。
ちょうど1週間前、あの月はハワイ諸島カウアイ島の、ワイメアの浜の沖で、ホクレアから見たんだったなあ。

朝、
アリンギのコンパウンドの隣の建物の中に設営されたメディアセンターに行き、
メディア登録と、明日予定されている第33回アメリカズカップ第1レース観戦のために、メディアボート乗艇を予約する。

アリンギのコンパウンドでは、防衛艇〈アリンギ5〉のマストを立て、セールをセットして、出艇の準備が進められている。ファーリングしたマストヘッドジェネカーを揚げるために、船尾に搭載されているエンジンがうなりを上げている。



BMWオラクルレーシングのコンパウンドには、挑戦艇〈USA〉の姿はない。
〈USA〉は、ポート・アメリカスカップではなく、
バレンシアの商業港のほうに仮設で設営されたコンパウンドに係留されていて、
朝早くドックアウトして、すでに沖でセーリングを始めているという。

本日の午後1時過ぎ、スタートのエントリーサイドを決めるコイン・トスが行なわれた。
レース委員長のハロルド・ベネットが投げ上げるコインの裏表を先に言い当てる権利を与えられた防衛ヨットクラブ会長だったが、
緊張のためか、ヘッズかテイルを答えなければならないのに、
「スターボードが欲しい」、と言ってしまった。
ハロルド・ベネットが、「いや、そうではなくて…」と訂正を促したが、
会長さん、数千人もの目の前で、恥ずかしかっただろうな。
しかもコインの裏表を外して、挑戦者側にエントリーサイドを選ぶ権利を奪われてしまった。
あとで、エルネスト・ベルタレッリに罵られたのではないだろうか?心配だ。

挑戦者、ゴールデンゲイト・ヨットクラブは、第1レース、スターボードのエントリーを獲得した。


今回の第33回アメリカズカップが、ここ最近一般的だったアメリカズカップのフォーマットと異なり、
アメリカズカップ争奪マッチの基本憲章とも言える『贈与証書』に従って行なわれることになった経緯は、
これまで何度か月刊『KAZI』誌にレポートしてきたが、ここで改めて、かいつまんで説明してみよう。


複数のヨットクラブがアメリカズカップ挑戦に名乗りを上げ、
その中で勝ち残ったヨットクラブが、カップを保持しているヨットクラブに挑戦する。
これが一般によく知られている近代アメリカズカップの形態だ。

しかし、実はこれは、
アメリカズカップマッチの方法を規定している規則『贈与証書』による、本来のアメリカズカップのやりかたとは異なる。

条件を満たすヨットクラブが、挑戦を決意して、挑戦艇の主要目を書き込んだ挑戦状を、
アメリカズカップを保持しているヨットクラブに送りつける。

挑戦状を受け取ったその防衛ヨットクラブはその挑戦を受けて立たたねばならず、
レースの場所を指定した上で、10ヶ月以内にレースを行なうべし。
そのように『贈与証書』には規定されている。

明日2月8日に開幕する第33回アメリカズカップは、
『贈与証書』で認められた挑戦者ゴールデンゲイト・ヨットクラブ(米。以下GGYCと表記)が、
防衛者ソシエテ・ノティーク・ド・ジュネーブ(スイス。以下SNG)に挑む。

この、本来の形態で開催されるアメリカズカップは、1988年以来、22年振りのことになる。

2年間に渡る紆余曲折の末に、防衛ヨットクラブSNG 対 挑戦ヨットクラブGGYCの、一騎打ちによる第33回アメリカズカップが、スペインのバレンシアで開催されることが決定したのは昨年12月のことだった。
その第1レースは2月8日であることも、それに先立って確定した。

1月12日、13日の2日間、防衛者側と挑戦者側は
シンガポールで、国際セーリング連盟の代表者とジュリー代表も同席の上、
第33回アメリカズカップのレース実施要綱と帆走指示書にサインするための詰めのミーティングを行なった。
しかしそのミーティングは、双方がその二つの書類にサインすることなく、決裂した。

その決裂の最大の理由は、GGYC側がシンガポールでの会議期間中に、
「アリンギはノースセールの3DLセールを使うべきではない」という主張を、
ニューヨーク州最高裁判所に提訴したからだという(SNG側の発表)。

GGYCのこの主張は、すでに昨年2009年のクリスマス前に、
SNGへの書簡の形で提出されていた。
「贈与証書には、艇体、リグ、セールはそのヨットクラブの属する国で作られたものでなければならないと明記されている。しかるに、貴ヨットクラブの防衛艇のセールは米国ネバダ州ミンデンで作られたものだが…」
という内容だ。

 photo:Aringhi

2009年12月22日付けのGGYCからのこの質問状に対する防衛側SNGの対応は、
二転三転した。
最初は、セールはヨットの一部ではない、という見解。
次が、自分たちの3DLセールはスイスで作った、という主張。
そして、3DLセールのコンセプトは元々スイス人のもので、だから我々の3DLセールはスイス製だ、というものだ。

このことについて、ぼくがノースセールのセールデザイナーだった時代に『KAZI』誌に寄稿した、
3DLセールの開発に関するレポートがある。

この記事で確認いただけると思うが、
確かに3DLセールのコンセプトをノースセールに持ち込み、固定モールドの上でJ24のジェノアサイズの最初の3DLセールのプロトタイプを作ったのは
スイス人のJ.P. バウデットだった。

しかし、J.P.バウデットがこのアイディアをノースセールに持ち込んだ理由は、
すでにノースセール社がドイツ国内において同様のアイディアのパテントを取っていたからだ、
とその当時のミーティングでJ.P.本人から聞いた。

J.P.がノースセール社とともにJ24のジェノアサイズのプロトタイプの3DLを極秘裏に試作したのも、
米国コネチカットのノースセール本社近くの、目立たないビルの1室だった。

恐らくこの事実関係を知っているにも関わらず、
「スイス人が考えたアイディアだから、スイス製である。しかも我々の3DLセールはスイス国内で作ったものだ」
と、アリンギのアーネスト・ベルタレッリは強引な論理を展開している。
現在のところ、3DLセールを製造できるノースセールの工場は、
米国ネバダ州のミンデンとスリランカにしかないにも関わらず、である。

この件はすでに『贈与証書』の法的解釈を判断する米ニューヨーク州最高裁判所の手に委ねられていている。

GGYC側が、なぜ今になってセール原産国の解釈を争点として持ち出してきたのか、
その理由というか、必要性というか、に俄然興味が沸く。

photo:BMW Oracle Racing

GGYCは、自分たちの挑戦艇であるBMWオラクルレーシングの〈USA〉 とSNGの防衛艇〈アリンギ5〉の性能を比較分析して、
このままレースをやると〈USA〉は勝てそうにない、改良のための時間稼ぎが必要だ、と慌てているのだろうか?

それとも、アメリカズカップは歴史あるスポーツの試合であり、
スポーツというものは、あくまでもそれを統括するルール ― 今の場合は『贈与証書』 ― 
を遵守することに敬意を払わなければいけないのだということを、
防衛者代表であるベルタレッリに教えようとしているのか?

あるいは、〈USA〉の優勢を確信した上で、
レースという土俵に〈アリンギ5〉を早く引っ張り出すために、ベルタレッリに2重の罠を掛けようとしているのか?

この2年間、挑戦者と防衛者の丁々発止のやり取りを見てきて、
アメリカズカップにおいては、
海の上で艇の帆走性能やクルーの帆走能力を競うヨットレースそのものの優先順位は最上位にはなく、
第1レースのスタート号砲に至るずっと前に展開される、相手の情報分析や自身の情報操作や、
法律や人間心理学やらをすべて内包した、非常に多岐に渡る分野をひっくるめた頭脳戦こそが最も重要なゲームであるように思えてきた。
他のスポーツには例を見ることができないくらい、アメリカズカップはとても特異なものらしい、
と、今更ではあるが、思うのだ。

アメリカズカップを楽しむ側は、海上のレースだけではなく、
こういうアメリカズカップの舞台裏を含めて楽しまなくては損なような気さえしている。
実際ラッセル・クーツを見ていると、レースコース上で相手を負かすことばかりを考えるただのセーラーだった頃(もちろん、ただのセーラーではないが)よりも、
挑戦チームのCEOという立場になってからの、
レース当日のはるか前から陸上で展開する大きな戦いのほうを、積極的に楽しんでいるようさえ思える。
「アメリカズカップは単なるヨットレースではない」と彼がかつて語っていたことの本当の意味を、
今にしてやっと理解できたように思うのだ。

レースのスタート前日の時点で、レース規則(レース実施要綱、帆走指示書)について当事者双方が合意に至らない。
こういうことは、他の一般のスポーツの公式国際試合ではありえないことだろう。
しかし、これがアメリカズカップなのだ。

煎じ詰めればアメリカズカップは、
防衛者と、その防衛者以外の国に属するヨットクラブからの挑戦者が、
その優勝カップに付属する“争奪戦のやり方の手引”である『贈与証書』に従って行なう
親善試合に過ぎないのだ。
その試合の運営も、通常のスポーツの国際試合とは異なり、当事者自身が行なう。
ただ、親善試合ではあるが、その、たかが親善のための試合に勝とうとして、
双方が一般庶民の常識をはるかに超える、途方もないお金を使うのが、
世の中の普通の親善試合とアメリカズカップが異なる点だ。
例えば今回の親善試合の当事者たちは、この2年間で、
自分たちのヨットを開発するだけのために、それぞれ軽く100億円以上を使ったという。

セール原産国問題、レースを実施するためのコンディション、摩擦抵抗を減らすためのオラクル側の装置、など、ペンディング事項はここでは一応横に置いておいて、
防衛者側が作成したレース実施要綱と帆走指示書の草稿に沿って、
第33回アメリカズカップをプレビューしてみる。

贈与証書に従って、第33回アメリカズカップは、先に2勝したヨットが勝者となる。

レースエリアは、バレンシア港から東方向に約40海里、南北54海里のエリアで囲まれた海面。

レースコースは、贈与証書に定められたとおり。

すなわち、第1レースのコースは、20海里の風上航と折り返しの風下航。マークの回航方向は、予告信号前にフラッグで指示される。
第2レースは、39海里の正三角形のコースで、最初のレグは風上航とする。このコースも、マークの回航方向は予告信号前にフラッグで指示される。

最初の2レースが1勝1敗となって、第3レースを行なう必要がある場合、コースは第1レースと同様とする。

風速15ノット以上、波高1メートル以上のコンディションではレースは行なわれない。この点についても、ニューヨーク州最高裁は、この風速規定を帆走指示書に盛り込むことはできない、
との認識を示したが、SNGはそれを無視する形でこの条項を外していない。

風速を計測する高さは「水面上60メートル」とされている。
海面上60メートルというのは、挑戦艇、防衛艇双方のマストの高さにほぼ匹敵するが、かなり高い。
これまでのアメリカズカップでは海面上10メートルでの風速が判断の基準とされていた。
レース運営側は60メートルもの高度の風速をどのような方法で計測するのか。
レース運営を担当するロイヤル・ニュージーランドヨットスコードロンのハロルド・ベネットは、
防衛艇と挑戦艇それぞれのマストヘッドユニットで計測した風速データの提出を求めるつもりだと言う。
しかし、レースをする当事者にレースコミッティーが風速を計らせることはなんだか変だし、
さらに、果たして双方は、正直にそのままデータをレースコミッティーに渡すだろうか?

各レースのタイムリミットは、7時間。これも贈与証書で定められた通りだ。

第1レースは2月8日。予告信号は午前10時。
ただし、午後4時30以降に予告信号は発せられない。

第2レースは2月10日。もし第3レースが必要な場合は、2月12日。
これは贈与証書で規定されている「レースとレースの間には1平日(weekday)を隔てなければならない」に準拠したもの。

上記のようにレース日が定められているとはいえ、海面上60メートルでの風速が15ノット以上あればレースは行なわれない。
その高度での風速が15ノットだと、摩擦抵抗で風が弱い海面付近での風速は10ノット前後の風に過ぎないはずで、
それを考えると、上記のような日程で粛々とレース・スケジュールが進んでいく可能性は少ないように思われる。

そのことから、実施要綱では2月15日から25日までをレース予備日として定めていて、
レースの勝者を決定するために必要なら、
さらなる予備日を追加する可能性があることも言及している。

 ここ最近のアメリカズカップで使われてきたヨットと今回のアメリカズカップで使われるヨットとの大きな違いは、
今回の2隻はレース中に転覆する恐れのあるデリケートなマルチハルだということだ。
モノハルのアメリカズカップクラスでも転覆・沈没はあったが、それはあくまでも構造上の欠陥が理由だった。

今回の場合は、クルーのミスでいつひっくり返ってもおかしくない、というヨットだ。
観る側からしたら大そうな見物になると思うが、当事者にとっては大変なことだ。
規定風速の上限で、しかもつばぜり合いのレースになれば、その可能性はゼロではないはずだ。

特に第2レースは真の風角120度の浅い角度のリーチングのレグが2つもある。
転覆が起きるとしたら風上マーク回航を含めた、このレグだ。

いくつものペンディング事項を残したままではあるが、
クローズホールドで25ノット、リーチングのレグでは50ノットにも達する2隻の巨大ハイテク・マルチハル艇によるアメリカズカップの第1レースが明日開幕することが、ここバレンシアでは、現実のものとして実感できるようになってきた。

2月6日 バレンシア

2010年02月07日 | 風の旅人日乗
2月3日深夜にハワイから日本に戻り、2日間だけ日本にいて、朝6時半のバスで逗子駅に出て、成田に向かう。

パリ行きの全日空機が到着したシャルルドゴール空港ターミナル1からバスに乗ってターミナル2に行き、
暗い通路をトボトボ歩いて、エールフランスのチケットカウンター近くのパブの席の一つに腰を下ろそうとしたら、
奥の席でYカメラマンが一人でビールを飲んでいるのを発見。
白ワインをグラスで頼んで、飛行機が出る時間になるまで、四方山話。
Yカメラマンとは1月中旬、ハワイのホクレアのセーリングトレーニングに行く前に葉山で飲んだばかり。

近くの席で、チームニュージーランドのカーリーが、ニュージーランドのウエブマガジン編集者と一緒にビールを飲んでいる。
カーリーに、チームニュージーランドのチェイスボートに乗れる席はないか、聞いてみる。可能性はゼロではなさそう。

午後9時。スペイン、バレンシア着。
偶然同じ宿を予約していたYカメラマンと一緒にタクシーに乗り込む。
ポート・アメリカスカップに歩いて15分ほどのところにあるホテルは、
アリンギのトム・シュネッケンバーグからも、チーム・オリジンのムースからも薦められた、
料金もリーズナブルな居心地のよさそうなホテル。
ヨーロッパでは珍しく、無料で無線ランが使えるのがありがたい。




明日は、メディア登録やメディアボート乗船予約などをして、
明後日午前10時、第33回アメリカスカップ第1レース、スタート予定。