この20年あまりの間に、全17階級のそれぞれの階級で印象に残った選手を挙げていきます。各選手、登場するのは1階級のみ。選んだ選手がその階級実力№1とは限りません。
第一弾は最軽量級のリカルド ロペス(メキシコ)。今回はライトフライ級、選んだ選手はロペスと同時代に花を咲かせ、ライバル候補の筆頭に挙げられたマイケル カルバハル(米)になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/c0/d2bc507ff52ddc6bbd7e2f4f8da39620.jpg)
プロでの最終戦績は49勝33KO4敗。異名はあのロベルト デュラン(パナマ)にあやかり「小さな石の拳」。KOアーチストのイメージがあるのですが、KO率は62%とそれほど高くありません。アマチュアでは94勝9敗の好戦績を残しています。
1967年9月17日生まれのカルバハルは1988年に開催されたソウル五輪の銀メダリストという勲章を引っさげて1989年2月にプロデビュー。デビュー戦の対戦者は後にIBFライトフライ級王座を2度獲得するウィル グリスピーでした。
デビュー戦で思わぬ接戦(4回戦で3対0の判定勝利)を演じたカルバハル。しかしその後は順調に白星を重ねて行きます。結局デビューした1989年には10度の白星を重ねたカルバハル。KO/TKO勝利は7としています。
デビューからちょうど一年後の1990年2月、トニー デルーカ(米)に大差の判定勝利を収めNABFライトフライ級王座を獲得。世界挑戦への足がかりを作ります。NABFはWBCの北米下部組織になりますが、下部団体が以上に膨れ上がっている今日よりもよほど権威のある団体でした。
カルバハルの世界初挑戦が実現したのは1990年7月29日、場所はカルバハルの地元米国アリゾナ州の州都フェニックス。日本でもお馴染みの選手で、当時のIBFライトフライ級王者ムアンチャイ キティカセム(タイ)。キティカセムはこの敗戦後、一つ上のフライ級でWBC王座を獲得し、ユーリ アルバチャコフ(協栄/露)と激闘を繰り広げることになります。減量に苦しんだムアンチャイを尻目に絶好調のコンディションでこの試合に臨んだカルバハル。王者を7回の間にバッタバッタと4度倒しTKO勝利。見事な戴冠劇を演じています。
世界王座獲得までは順調なキャリアを作り上げてきたカルバハルですが、その後低迷期に直面します。元アマチュア・トップスター+強打者という条件が重なったカルバハルのボクシング。その強打を当てたいがためにパンチは単発に。それに加えヘッドハンター(ボディーを攻めないで顔面へ攻撃を集中)ぶりを如何なく発揮。そのため白星を重ねるもKO/TKO勝利は5割強に留まってしまいました。
そんな鬱憤を晴らす大一番が1993年3月13日に設けられます。その一番とは当時のWBC王者ウンベルト“チキータ”ゴンザレス(メキシコ)との王座統一戦。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/26/715e08e461c907c5e8ab646ce6c465d7.jpg)
1990年代初頭は、今以上に米国内での軽量級、そして米国人以外の選手軽視の目が向けられていました。しかしそれを打ち破ろうとする動きがトップランク社のボブ アラム氏によって展開されていきます。その先駆けとなった選手たちがこのカルバハルとゴンザレスになります。
軽量級史上初の100万ドル(約1億円=両者合わせてのファイトマネー)対決となった一戦。強豪相手とはいえ大苦戦を強いられた元銀メダリスト。2回、5回にはダウンを喫してしまいます。中盤に入ってもカルバハルにとり嫌な展開が続くこの王座統一戦。しかし7回、起死回生の左フックからチャンスを掴み、同じパンチで大逆転TKO。王座統一を果たすと共にスーパースターの仲間入りを果たしました。
「カルバハル対ゴンザレスⅠ」は1993年の年間最高試合に、そして勝者はその年のファイター・オブ・イヤーの座を獲得しています。ちなみにこの試合のリング・アナウンサーはジミー レノン ジュニアでしたが、会場を訪れていたマイケル バッファーが革ジャン姿で急遽カルバハルの名前をコールしていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/fd/beedfffebcf96c6c6cc44a115ee17351.png)
ボクシング界に大ブームを巻き起こした軽量級のライバル対決。カルバハルとゴンザレスはその後2度(1994年2月と11月)に対戦。その2戦はいずれも僅差の判定でメキシカンが勝利を収めています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/5f/d9b106af20d1465e57b0f3de7a6a5d01.jpg)
ゴンザレスとの再戦に敗れてからも、常にライトフライ級の第一戦線で活躍し続けたカルバハルですが、徐々に存在感が薄らいで行きました。しかし1999年7月、後に世界5階級制覇を果たすホルへ アルセ(メキシコ)に大逆転のTKO勝利を収めWBO王座を獲得。有終の美を飾ると共にその試合を期に引退をしています。
印象に残っているのはやはりゴンザレスとの第一戦での打ち抜くような左フック。ローマン ゴンザレス(ニカラグア/帝拳)を含め、今でのライトフライ級でカルバハルを超えるパンチャーは出現していないと思います。
カルバハルの獲得した王座(獲得した順):
NABFライトフライ級:1989年2月18日獲得(防衛回数1)
IBFライトフライ級:1990年7月29日(10)
(*当時のIBFベルトのデザインは現在のUSBA王座に類似)
WBCライトフライ級:1993年3月13日(2)
(*IBFとの統一王座)
WBOライトフライ級:1994年7月15日(0)
(*当時はマイナー王座とみなされていた同王座。即返上)
IBFライトフライ級:1996年3月16日(2)
IBAライトフライ級:1997年3月22日(0)
WBOラテン・スーパーフライ級:1999年7月2日(0)
(*世界戦の僅か29日前に獲得。カルバハルにとり、唯一のライトフライ級以外の王座)
WBOライトフライ級:1999年7月31日(0)
第一弾は最軽量級のリカルド ロペス(メキシコ)。今回はライトフライ級、選んだ選手はロペスと同時代に花を咲かせ、ライバル候補の筆頭に挙げられたマイケル カルバハル(米)になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/c0/d2bc507ff52ddc6bbd7e2f4f8da39620.jpg)
プロでの最終戦績は49勝33KO4敗。異名はあのロベルト デュラン(パナマ)にあやかり「小さな石の拳」。KOアーチストのイメージがあるのですが、KO率は62%とそれほど高くありません。アマチュアでは94勝9敗の好戦績を残しています。
1967年9月17日生まれのカルバハルは1988年に開催されたソウル五輪の銀メダリストという勲章を引っさげて1989年2月にプロデビュー。デビュー戦の対戦者は後にIBFライトフライ級王座を2度獲得するウィル グリスピーでした。
デビュー戦で思わぬ接戦(4回戦で3対0の判定勝利)を演じたカルバハル。しかしその後は順調に白星を重ねて行きます。結局デビューした1989年には10度の白星を重ねたカルバハル。KO/TKO勝利は7としています。
デビューからちょうど一年後の1990年2月、トニー デルーカ(米)に大差の判定勝利を収めNABFライトフライ級王座を獲得。世界挑戦への足がかりを作ります。NABFはWBCの北米下部組織になりますが、下部団体が以上に膨れ上がっている今日よりもよほど権威のある団体でした。
カルバハルの世界初挑戦が実現したのは1990年7月29日、場所はカルバハルの地元米国アリゾナ州の州都フェニックス。日本でもお馴染みの選手で、当時のIBFライトフライ級王者ムアンチャイ キティカセム(タイ)。キティカセムはこの敗戦後、一つ上のフライ級でWBC王座を獲得し、ユーリ アルバチャコフ(協栄/露)と激闘を繰り広げることになります。減量に苦しんだムアンチャイを尻目に絶好調のコンディションでこの試合に臨んだカルバハル。王者を7回の間にバッタバッタと4度倒しTKO勝利。見事な戴冠劇を演じています。
世界王座獲得までは順調なキャリアを作り上げてきたカルバハルですが、その後低迷期に直面します。元アマチュア・トップスター+強打者という条件が重なったカルバハルのボクシング。その強打を当てたいがためにパンチは単発に。それに加えヘッドハンター(ボディーを攻めないで顔面へ攻撃を集中)ぶりを如何なく発揮。そのため白星を重ねるもKO/TKO勝利は5割強に留まってしまいました。
そんな鬱憤を晴らす大一番が1993年3月13日に設けられます。その一番とは当時のWBC王者ウンベルト“チキータ”ゴンザレス(メキシコ)との王座統一戦。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/26/715e08e461c907c5e8ab646ce6c465d7.jpg)
1990年代初頭は、今以上に米国内での軽量級、そして米国人以外の選手軽視の目が向けられていました。しかしそれを打ち破ろうとする動きがトップランク社のボブ アラム氏によって展開されていきます。その先駆けとなった選手たちがこのカルバハルとゴンザレスになります。
軽量級史上初の100万ドル(約1億円=両者合わせてのファイトマネー)対決となった一戦。強豪相手とはいえ大苦戦を強いられた元銀メダリスト。2回、5回にはダウンを喫してしまいます。中盤に入ってもカルバハルにとり嫌な展開が続くこの王座統一戦。しかし7回、起死回生の左フックからチャンスを掴み、同じパンチで大逆転TKO。王座統一を果たすと共にスーパースターの仲間入りを果たしました。
「カルバハル対ゴンザレスⅠ」は1993年の年間最高試合に、そして勝者はその年のファイター・オブ・イヤーの座を獲得しています。ちなみにこの試合のリング・アナウンサーはジミー レノン ジュニアでしたが、会場を訪れていたマイケル バッファーが革ジャン姿で急遽カルバハルの名前をコールしていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/fd/beedfffebcf96c6c6cc44a115ee17351.png)
ボクシング界に大ブームを巻き起こした軽量級のライバル対決。カルバハルとゴンザレスはその後2度(1994年2月と11月)に対戦。その2戦はいずれも僅差の判定でメキシカンが勝利を収めています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/5f/d9b106af20d1465e57b0f3de7a6a5d01.jpg)
ゴンザレスとの再戦に敗れてからも、常にライトフライ級の第一戦線で活躍し続けたカルバハルですが、徐々に存在感が薄らいで行きました。しかし1999年7月、後に世界5階級制覇を果たすホルへ アルセ(メキシコ)に大逆転のTKO勝利を収めWBO王座を獲得。有終の美を飾ると共にその試合を期に引退をしています。
印象に残っているのはやはりゴンザレスとの第一戦での打ち抜くような左フック。ローマン ゴンザレス(ニカラグア/帝拳)を含め、今でのライトフライ級でカルバハルを超えるパンチャーは出現していないと思います。
カルバハルの獲得した王座(獲得した順):
NABFライトフライ級:1989年2月18日獲得(防衛回数1)
IBFライトフライ級:1990年7月29日(10)
(*当時のIBFベルトのデザインは現在のUSBA王座に類似)
WBCライトフライ級:1993年3月13日(2)
(*IBFとの統一王座)
WBOライトフライ級:1994年7月15日(0)
(*当時はマイナー王座とみなされていた同王座。即返上)
IBFライトフライ級:1996年3月16日(2)
IBAライトフライ級:1997年3月22日(0)
WBOラテン・スーパーフライ級:1999年7月2日(0)
(*世界戦の僅か29日前に獲得。カルバハルにとり、唯一のライトフライ級以外の王座)
WBOライトフライ級:1999年7月31日(0)