1990年代初頭からこれまでの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を各階級3人ずつ挙げていっています。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級の実力№1とは限りません。個人的に思い入れのある選手、または印象に残った選手が中心となります。
ワシリー ジロフ(カザフスタン/Vassiliy Jirov)、オーリン ノリス(米)と続いたクルーザー級。この階級最後の主人公はバージル ヒル(米)。彼は1980年代中盤から約20年、世界の重量級を代表する一人でした。
(今回の主人公はライトヘビー級とクルーザー級で世界王座を獲得したバージル ヒル)
多くの方が、「ヒルと言えばライトヘビー級を代表する選手では?」と思うことでしょう。確かに彼のピークはクルーザー級ではなく、一階級下のライトヘビー級でした。私(Corleone)がボクシングと出会った1990年代前半、ヒルはライトヘビー級王座から転落したばかりの無冠選手でした。しかしその後、あっさりとライトヘビー級の世界王者に復帰し、2度目の長期政権を樹立すると共に、2団体王座の統一王者として君臨することにもなりました。
アマチュア時代、1984年のロサンゼルス五輪にミドル級の代表として出場したヒル。決勝まで勝ち進むも惜しくも金メダル獲得ならず。同五輪のアメリカ代表には、ヒルのは他にもディフェンスマスターのパーネル ウィテカーや、鉄人イベンダー ホリフィールドなど、ボクシング史に残る名ボクサーが出場しています。ちなみにウィテカーは見事に金メダルを獲得し、ホリフィールドは銅メダルを獲得しています。
(1984年の五輪で優勝ならなかったヒル(左端))
アマチュアの世界王座獲得ならなかったヒルは、オリンピックが行われた年の11月にライトヘビー級でプロデビュー。米国の東海岸のリングを拠点とし、順当に白星を重ねていくと同時に、世界への階段を着実に登っていきます。
ヒルの世界の檜舞台に初めて登場したのは1987年9月5日。場所は1980年代の世界ボクシングの中心地の一つであった米国ニュージャージ州。ヒルはこの日、将来にさらなる活躍が期待されていたレスリー スチュワート(トリニダード・トバゴ)の持つWBAライトヘビー級王座に挑戦。若干ヒルがリードを保っていた4回、2度のダウンを奪い一気に試合を終わらせます。アマチュア時代に届かなかった世界王座(五輪での金メダル)。プロでは19戦目にして世界のベルトを腰に巻くことに成功しました。
アマチュアの名選手で、プロでも世界のベルトを獲得したヒル。スーパースターへの道まっしぐらと思いきや、世界タイトル獲得後、ヒルは独自の道を歩き始めます。多くの選手がラスベガスなど、ボクシング主要都市での興行に登場していく中、ヒルはアメリカ国内の超田舎である地元ノースダコタで防衛回数を伸ばしていきます。ヒルはスチュワートから奪った王座を10度防衛しますが、その8度を地元のリングで行いました。
ヒルが初めての挫折を味わうのは1991年6月。ラスベガスのリングで伝説のヒットマン・トーマス ハーンズ(米)にまさかの判定負けを喫し、王座から転落。既に『過去の人』と思われていたハーンズに敗れたヒルは、「もう終わった」と思われました。しかし翌年9月には空位となっていたWBA王座に復帰。再びノースダコタのリングで防衛を重ねながら、防衛回数を伸ばしていきます。
(生きた伝説、トーマス ハーンズに苦杯を喫したヒル)
1990年代半ば、ボクシングが異常なぐらいに盛り上がっていたドイツに登場したヒル。防衛記録も一度目の政権時代の10に王手をかけていました。ヒルが2度目の10度目の防衛戦の相手として選んだのは、既に10度の防衛に成功していたIBF同級王座の保持者だったヘンリー マスケ(独)。マスケと言えば、大繁栄したドイツボクシングの火付け役、同国の国民的スターでした。
当時の(今も?)ドイツ人好みの技術戦に終始したこの戦い。プロでのキャリアが勝るヒルの左ジャブが、サウスポースタイルのマスケが放つ右ジャブを上回り僅差の判定勝利。IBF王座を吸収すると共に、WBA王座の2度目の二桁防衛にも成功します。
2冠王に昇格し勢いに乗ったヒルが次に目論んだのは、当時まだまだマイナー団体と見られていたWBO王座の吸収です。当時のWBOタイトルホルダーは、ドイツを主戦場にしていたポーランド人ダリウス ミハエルゾウスキー。既に8度の防衛に成功していた中々の強豪でしたが、ほとんどの試合をドイツで行っていたマイナー団体の世界王者として世界的にはほとんど無名の選手でした。武骨なボクサーと思われ気味なミハエルゾウスキーですが、技術も確かなものを持っていました。それもその筈。彼は後に、世界王座の23度の連続防衛に成功するのですから。マスケには僅差の判定勝利を収めたヒルですが、武骨な技師の前には完敗。2つの世界王座を同時に失うと同時に、キャリア2度目の黒星を喫してしまいました。
(ミハエルゾウスキーの重圧なボクシングに喫したヒル)
挽回を狙ったヒルにさらなる試練が待ち受けていました。ミハエルゾウスキーに敗れてから10ヵ月。米国南部のミシシッピー州のリングに立ったヒル。ヒルを待ち受けていたのは、当時のボクシング界で実力が抜きんでていたロイ ジョーンズ(米)でした。ミドル級からライトヘビー級までの3階級を制覇していたロイですが、ライトヘビー級でもすでに対戦相手を見つける事を苦労している状態に。世界王座から転落したばかりのヒルからしてみれば、スーパースターを倒し、自分がその座に就けるという正に一攫千金のチャンスでした。しかし現実は、ヒルにとってあまりにも残酷なものでした。
(「ヒル対ジョーンズ」は重量級屈指の好カードの筈でしたが...)
試合前、ヒルとジョーンズの戦績だけ比較すると、実力拮抗者同士によるレベルの高い一戦が行われるだろうと期待されました。しかしスーパーマン(ジョーンズ)は、試合開始のベルから体格で勝るヒルをスピードで圧倒。最後は4回開始早々、ジョーンズがヒルの放った左ジャブに右ボディーを合わせ一発でKO。ジョーンズのキャリアの中でも、最高のKOの一つとして記憶されることになった一発は、ヒルにとって不名誉な一撃となってしまいました。
(ヒル、ジョーンズのスピードについていけず。最後は右ボディーでKO負け)
ヒルが獲得した王座(獲得した順):
WBC米大陸ライトヘビー級:1986年12月11日獲得(防衛回数0)
WBAライトヘビー級:1987年9月5日(10)
WBCインターナショナル・ライトヘビー級:1992年4月11日(0)
WBAライトヘビー級(2度目):1992年9月29日(10)
IBFライトヘビー級:1996年11月23日(0)
(*2団体ライトヘビー級の統一王座)
IBCクルーザー級:1998年11月7日(0)
WBAクルーザー級:2000年12月9日(0)
IBCクルーザー級(2度目):2002年11月17日(0)
WBAクルーザー級(2度目):2006年1月26日(0)
(WBAのベルトがよく似合うヒル)
ジョーンズに喫した手痛いKO負けを喫してしまったヒル。アメリカの大田舎ノースダコタのリングで再始動。そして20世紀の最後の月(2000年12月)に、フランスのリングに登場します。階級をクルーザー級に上がていたヒルは、ファブリス ティオーゾ(仏)の持つWBA王座に挑戦。両者は1993年4月に対戦していましたが、その時はヒルが接戦を制し、当時保持していた2度目のライトヘビー級王座の防衛に成功していました。
この戦いはフランスの英雄がライバルに雪辱を果たすと共に、王座の防衛に成功するというシナリオが用意されている筈でした。しかし百戦錬磨の雄ヒルはここで意地を見せます。この試合でヒルは驚くことに、僅か3分の間に3度のダウンを奪ってしまい勝利。欧州の地で番狂わせを演じると同時に、世界王座の2階級制覇に成功してしまいました。
(ヒル、番狂わせで2階級制覇達成!)
再びティオーゾを破り、世界のベルトを腰に巻いたヒル。それから14ヶ月後の2002年2月に再びフランスのリングに登場しました。ヒルが迎えたのは、フランスが送り出した新鋭ジャン マルク モルメック。キャリアで大きく上回っていたヒルですが、モルメックの勢いを止める事は出来ず。結局9回開始のゴングに応じる事が出来なかったヒルは、王座から陥落すると共に自身2度目のKO/TKO負けを喫してしまいます。
2004年5月には、モルメックへの雪辱を決し南アフリカに乗り込んだヒルですが、僅差判定負け。世界王座への返り咲きは成りませんでした。その後同一階級に一人以上の世界王者を認可し始めた腐敗団体WBAの恩恵(?)を受けたヒル。2006年1月にはWBAクルーザー級第2の王座であるレギュラータイトルを獲得しましたが、その王座も初防衛戦で損失。2015年に突如「一試合のみ」現役に復帰したヒル。その後正式に現役からの引退を発表しています。
(モルメックとの再戦では、最後まで食らいついたヒルでしたが王座奪回ならず)
ヒルの終身戦績は51勝(24KO)7敗(2KO負け)。獲得した世界王座はライトヘビー級とクルーザー級で合わせて5つ。2度就いたクルーザー級の王座を防衛することは出来ませんでしたが、ライトヘビー級時代、通産の防衛回数は何と20。そして米国重量級のトップ選手としては珍しく、海外での試合経験も豊富でした。ヒルが試合を行った国々を挙げてみると、フランス(4試合)、ドイツ(4)、豪州(1)、英国(1)、南アフリカ(1)、そしてカナダ(1)。その長いキャリアの5分の1もの試合を米国外で行った事になります。
そのボクシングスタイルから、比較的地味な存在に甘んじてしまったヒルですが、肝心な試合で負け組に徹してしまったことも少なからず影響しているでしょうね。ハーンズは1980年代を代表するスーパースター。ライミハエルゾウスキーはライトヘビー級王座の23連続防衛に成功。ロイ ジョーンズはヘビー級王座まで獲得してしまった化け物。モルメックはクルーザー級王座の統一に成功し、その後世界ヘビー級王座に挑戦。こうして並べて見ると、ヒルは凄い選手たちに負けていたんですね。
そんな中で、ヒルをKO/TKOにしたのは、キャリアの全盛期に合ったジョーンズと、ヘビー級でも戦ったモルメックの2人のみ。これはヒルの防御技術が如何に優れていたかを物語ったものと言っていいでしょう。
黒星が増えだしたキャリア後半のヒル。試合間隔も広がっていき、「まだ現役で戦っていたのか!?」と思うことが何度もありました。しかしヒルは最後の最後まで粘り強く戦い抜きました。
(世界王座をしぶとく5度も獲得したヒル)
引退後は現役時代同様、故郷ノースダコタ州のボクシングの発展に力を注いでいるヒル。小さな興行ですが、自らがプロモーターとなり、若手選手の育成に励んでいます。
(現役引退後も地元のボクシング発展に力を注いでいるヒル氏)
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