随分日の出が遅くなった。出勤時は6時19分の小倉駅行きのバスに乗るのだが薄暗い。これからはますます朝が遅くなるとともに寒さも厳しくなるのだろう。とは言っても週に3日だけだ。楽といえば楽なものだ。バス停で顔なじみの人たちの服装を見ると、明らかに季節が変わっているのが分かる。私と同年代と思われるちょっと気取った熟女、先週までは薄手のカーディガンだったのが、厚手のブレザーを上品に着こなしていた。
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私が乗るバス停の3つ後くらいのバス停で乗り込んでくる50代の男性がいる。窓から眺めると奥さんらしい人が見送りに着ており、バスの発車とともに旦那さんを笑顔で送っている。「ほぉ、仲が良い夫婦だな」と思って眺めていたのだが、毎朝必ず見送りに来ているのが分かった。旦那さんの方ははにかんだような顔で応えているのだが、奥様の方は実に慈愛に満ちたというか、気取らない、無邪気で、私から見ても羨ましいような優しい笑みをたたえて手を振っている。朝が早いので、奥さんはお化粧無しで、服も普段着なのだが、それが実に自然体なのだ。 奥様の方が旦那さんよりも若干年上ではないだろうかと思うが、無事に勤めて帰りを待っているという心が素直に感じられて、私も何故か嬉しく思える。
奏君と和君、お刺身が大好きです。今日の夕飯は「イクラ・じゃこ・サーモン丼」。手が掛からずに食べました。
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昨朝もこの夫婦をバスの窓越しに見たのだが、普段どおりに変わらない笑顔に逢えた。で、この二人というか笑顔について考えさせられた。自分はどうなのだと。このように心の底から笑顔を見せることは少なかったのではないかと思うのだ。当然、笑ったり微笑んだりすることは有るのだが、無邪気に自然体でとなると、そうではないと思える。若い頃は角ばっていて、どこかに他人と融合できない何かがあったように思える。それが劣等感であったり、逆に優越感であったり、競争意識があったり、欺瞞を秘めた意図的なものであったりと。
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更に考える。最近は孫達と接するが、その時は笑顔も多くなっているような気がする。会社勤めもマイペースだから、ストレスも少なくなった。自我意識も少なからず低下してきたような気がする。年とともに屈託の無い笑顔を発信できればと思うのだが、まだまだ欲が深い自分に呆れてしまう。
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「響子さん」や「レイさん」の笑顔は確かに元気づけられるのだが、バス停でお目にかかるあの笑顔とは種類が違う。 大げさに言えば「共に生きている喜び」のようなものを感じさせる。この心境に至りたいものだ。