翌月曜日、いつものように6時に目が覚めた。九州より少し寒い感じはしたが雨は降っていない模様。「良かった、今日は中尊寺だ。」と思いながら朝風呂へ。何となく心身を清めたい想いがした。風呂から帰ると、いつも私より起きるのが1時間ほど遅い妻が起き出してきた。早速風呂に。私はTVで野球の結果を確認する。どうもこのところライオンズは調子が悪い。ピッチャー陣が悪すぎる。5点取っても逆転されるんだから。1時期、勝ち越しが9個も有ったのに.今日現在3個にまで減ってしまった。これじゃ勝率5割を割るのは時間の問題かも。涌井と岸の両主戦に頑張ってもらわなければ。
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朝食はバイキング。牛乳とコーヒーで居心地を取り戻した後、いよいよ出発。途中蔵王酪農センターに寄った後、バスは高速道を北上して岩手県へ。中尊寺レストハウスで注文していた精進料理を食べた後、まずは毛越寺。ここは正確に言うと毛越寺跡だ。藤原三代が栄華を誇っていた頃、きらびやかな寺院を建立して現世に浄土を見立てて暮らしていたという。それが鎌倉の威光によりはかなくも滅んだのだから、歴史はむごいと思う。だけども、遺跡はその後も手をつけられずに残っており、寺院や門の礎石は往時そのままだというから偉い。平泉の人達は先人の偉業を称えていたのだ。
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<o:p>精進料理を味わった後に、毛越寺へ。浄土を摸した庭園で彼岸へ架かる橋の遺構(基礎)が寂しく残っていた。</o:p>
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平泉では新たにガイドさんが男女一人ずつ計二人、来られて説明してくれた。現地出身で子供の頃は毛越寺の跡で遊んでいたと云う。それが世界遺産となって脚光を浴びたのだから彼らも驚いただろうし、嬉しかったのだろう。ガイドさんになったと言うのだから。
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中尊寺は毛越寺の北、木立に囲まれた山の中にあった。中尊寺は毛越寺の奥の院的な存在なのだろうか。本堂は山の麓近くだが、金色堂は静かな木立に囲まれて山の中腹にたたずんでいた。
バスは中腹の金色堂近くまで私達を案内し、中尊寺を見学しながら急な参道を下るという順路だった。中尊寺が世界遺産となった時、TVで金色堂の紹介があったが、その時に金に糸目をつけずに金や銀をふんだんに使い、象牙や珊瑚など螺鈿細工を施したもので、その細やかな技術はたいしたものだと聴いてはいたが、改めて本物をみると、よくぞ何百年もの年月を経て残っていたと感動を覚えた。
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それに鎌倉幕府も金色堂の価値を認めていたのか、金色堂を雨風から守るために覆堂を建て、金色堂を守ったのだからこれもまた凄い。きちんと管理されていたということであろう。
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<o:p>念願だった金色堂の前で。右は本堂。私の神通力が効いたのか、この日は晴れ間ものぞいて暑いくらいだった。</o:p>
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現在の覆堂はコンクリート造りの2代目だそうだが、初代目はやや奥に移設されていた。当然のことながら、覆堂の中心には柱が無い特殊な造りなのだが、その技術も大したものだ。下手すると崩れ落ちて金色堂をぺちゃんこにしてしまう。
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中尊寺という寺は実際には存在しないのだとも聴いた。山全体を中尊寺と称し、その中に金色堂や本堂などが配置されているのだった。私達はその急な参道を転ばないように気をつけながら下り、これが秋ならば紅葉とあいまって見事なものだろうなと話したりした。
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この頃になるとバスツアーの人たちとも仲良くなって、会話も弾んでいた。私達を除く40人が東京近辺、私達だけが九州と云うことで、話題も豊富だったこともあるが、最後は別れ難くなってきた。特に行きの新幹線で隣になった婦人は本格的な登山家であり、霧島や屋久島、久住などに登りたいと言っていた。九州に来られることがあれば案内する、と言っているので、実現するかもしれない。
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バスで福島駅に戻り、新幹線で東京駅に着いたのが10時前。またまた京葉線に乗り換えて潮見のホテルへ。このホテルは駅近くで人気があるのか、遅い時間なのに次から次へと客が多い。大浴場が人気の元なのかもしれないが、私達も風呂に入って疲れを癒したのだった。
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