今回は、「染付 山水網干文 小角皿」の紹介です。
表面
側面
裏面
生 産 地: 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期
サ イ ズ: 口径;13.5×10.6cm 高さ;2.5cm 底径;.8.7×5.8cm
ご覧のように、地味な、なにかパットしない、存在感の薄い小角皿です(~_~;)
特に魅力があるわけでもなく、従って、それほど使われることもなかったために割られることもなく、何となく長く生き残ってきたという感じのものですね(~_~;)
この小角皿につきましては、既に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しているところです。
そこで、その紹介文を次に転載することで、この小角皿の紹介に代えさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー117 古九谷様式染付山水網干文小角皿 (平成20年1月1日登載)
山水文なので平凡である。特にインパクトを感じさせない。
でも、この小角皿には、狭い所にいろんなものが描き込まれている。柳の木の下には東屋があったり、湖か川とおぼしき所には舟と人物が描かれ、岸辺には網を干している光景まで描かれている。山水文のデパートのようである。
しかしながら、それほど繁雑に感じさせないのはなぜだろう? いかにも湿潤なのんびりとした、日本の何処にでもありそうな光景を描いたからであろうか。いや、そればかりでもなさそうだ。狭い空間を上手に処理している。空間処理の巧みさが伺えよう。その点では、平凡な中にも非凡さを宿しているといえようか。
また、高台作りにも非凡さが認められる。
そもそも焼物の高台は丸と決まっている。世界中のどこもがそう決まっている。それを打破したのは日本の焼物ぐらいであろう。
この小皿は、器の形に沿った形に高台も作られているのである。
高台も角形で、糸切り細工の付け高台である。それだけに、高台の高さも高く、格調も高い。
以上のように、よく見てみると、平凡の中に非凡さを宿した小角皿ではある。
江戸時代前期 口径:13.5×10.6cm 高さ:2.5cm 底径:8.7×5.8cm
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*古伊万里バカ日誌55 古伊万里との対話(山水文の小角皿)(平成19年12月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
凡 夫 (古九谷様式染付山水網干文小角皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
今回も、主人は、「押入れ帳」を見ながら、対話する相手を物色していた。例によって、主人の家に来た順番を優先して物色していたが、「押入れ帳」を見ただけでは全く思い出せない「小角皿」が目に留まった。「どんなものだったのかな~」と俄然興味が湧き、さっそく押入れから引っ張り出してきて対話をはじめた。
主人: いや~、びっくりした。お前を全く思い出せなかった。現物を見ても、「こんなのが我が家にあったんだっけかな~」との思いだった。でも、「押入れ帳」の記述と現物のお前とを対比して見ていたら、だんだんと思い出してきたよ。
お前は。我が家に平成2年に来ているから、もう17年も経つんだね。人間の記憶なんか、17年も経つとすっかり薄れてしまうもんだね。
凡夫: でも、他の方についてはよく覚えているんでしょう。全く忘れてしまうということは、私が取るに足らない駄物だからなんでしょうよ・・・・・。
主人: まっ、そういうわけでもないんだけどね(汗)。
確かに、お前には特徴がないんだよね。
平凡というか、ごく普通の図柄だからね。
よく見かけるんだよ、この手の図柄は。
凡夫: よく見かける図柄なんですか?
主人: 山水文の染付というのはザラにあるからな。ただ、お前には、東屋のようなのまで描いてあったり、遠くには舟と人物も描いてあるし、近くの岸辺には網を干しているところまで描いてある。山水文に描いてある図柄が全部詰っているようなもんだ。山水のデパートみたいなもんだね。そんなのは珍しいかもしれない。
凡夫: どうして山水文は多いんでしょうか?
主人: どうしてなんだろうかね。
季節に関係なく、一年中何時でも使えるからなんだろうかね。掛軸だってそうだものね。「書」とか「水墨の山水画」の掛軸なんか、季節を問わず、一年中掛けておけるから・・・・・。山水文の染付の器もそれに通ずるのかもしれないな。季節にとらわれず、一年中何時でも気軽に使えるからなのかもしれない。
それに、山水文には飽きがこないからだろうかね。しょっちゅう見ていても飽きがこない。特に日本人にとっては、ごくありふれた光景だから、毎日のように見ていても抵抗がない。目障りにならないんだ。ごく日常の生活の中に溶け込んでしまっているからだろう。水と空気と同じようにね・・・・・。もっとも、最近では、環境汚染とかなんとかで、水や空気にも神経を使うようになってきてしまってはいるけどな。水は水道水を飲まないでペットボトル入りの水を買ってきて飲んだり、部屋には空気清浄機を取り付けたりするようになってきてしまった。このぶんでは、山水文も目障りに感じられるようになってきてしまうのかな~?
凡夫: それはそうと、今日はお正月ですよね。掛軸だって、お正月は、特別、お目出度いものを掛けるんではないですか。器だって、晴れがましいものと対話すべきだったのではないですか。こんな、私のような、何の晴れがましさもない平々凡々なものと対話していてもしょうがないでしょう。
主人: うん。私も途中からそう思った。
でもね、こんな田舎の老いたサラリーマンの家庭には、毎年毎年そうは晴れがましいことが生ずるわけでもないし、晴れがましいことを願って祝う必要性もないんだ。毎日毎日の平凡な日々が続くことを願うだけだ。正月はその連続の一応の区切りといったところかな。そういった意味では、我が家のようなところには、むしろ、お前のような平凡なものと対話することこそ正月にふさわしいと思っている。
これから、お前の上に、お節料理でも取り分けて盛って、「越乃○梅」でも傾けながら、ささやかに年の初めを祝うことにしよう。