9月25日は午後から東部中学校の創立50周年の記念式典がありました。校舎の入り口には「一以貫之」(いつもってこれをつらぬく)の記念碑が建立されていました。記念式典の後合唱部や吹奏楽部の素晴らしい演奏があり、記念講演として東部中学校の卒業生でいま新日本フィルハーモニー交響楽団で活躍されている奥村晃先生のお話と演奏がありました。
東部中学校は昭和36年に滋野、祢津、和、田中の4つの中学校が統合してできました。この頃町は合併・分町問題で大きく揺れていました。昭和31年に祢津、和、田中が合併して東部町ができ、その後昭和33年に滋野が東部町に合併。しかし滋野の一部の地区の皆さんが合併に納得できず、昭和34年に小諸市に分かれて行きました。こうした中で滋野地区は数年にわたって合併・分町問題に揺れ、私も子供ながらに友達との悲しい別れも経験しました。
そんな中で、東部町の統合の象徴として中学校の統合があったように思います。それぞれの中学は「東部中学校滋野部校」というように、「部校」という名前で呼ばれていました。校舎はまだ一緒ではないけれど気持ちは一つだという思いがあったのでしょう。
4つの部校時代が終わり統合校舎ができたのは昭和39年の春でした。私が中学校3年生の時で、1年間だけ新しくできた校舎で過ごすことができました。クラスの数が13(?)あったこと、他の地区の仲間と一緒になったこと、通学バスで通ったこと、学校のまわりはまだ鬱蒼たる森が残っていたことなどたくさんの思い出があります。
その思い出の一つに滋野部校の解体・移築と引越しがあります。統合中学の建設には町もお金がなかったのでしょう。滋野部校を解体し統合中学の管理棟とすることになりました。ですから私は入学は滋野部校の校舎でしたが、2年生のときは滋野小学校に間借りし、2年生の春休みは統合中学への引越し作業を行ないました。トラックの荷台に乗って引越しを手伝ったことを覚えています。当時の建物は今はなく、数年前に一新しています。
50年間で東部中学校から巣立った生徒は17033名にのぼるとのことです。生徒の皆さんがここで勉学に勤しみ、部活に汗を流し、友情を育んでいってほしいと思います。
東部中学校は昭和36年に滋野、祢津、和、田中の4つの中学校が統合してできました。この頃町は合併・分町問題で大きく揺れていました。昭和31年に祢津、和、田中が合併して東部町ができ、その後昭和33年に滋野が東部町に合併。しかし滋野の一部の地区の皆さんが合併に納得できず、昭和34年に小諸市に分かれて行きました。こうした中で滋野地区は数年にわたって合併・分町問題に揺れ、私も子供ながらに友達との悲しい別れも経験しました。
そんな中で、東部町の統合の象徴として中学校の統合があったように思います。それぞれの中学は「東部中学校滋野部校」というように、「部校」という名前で呼ばれていました。校舎はまだ一緒ではないけれど気持ちは一つだという思いがあったのでしょう。
4つの部校時代が終わり統合校舎ができたのは昭和39年の春でした。私が中学校3年生の時で、1年間だけ新しくできた校舎で過ごすことができました。クラスの数が13(?)あったこと、他の地区の仲間と一緒になったこと、通学バスで通ったこと、学校のまわりはまだ鬱蒼たる森が残っていたことなどたくさんの思い出があります。
その思い出の一つに滋野部校の解体・移築と引越しがあります。統合中学の建設には町もお金がなかったのでしょう。滋野部校を解体し統合中学の管理棟とすることになりました。ですから私は入学は滋野部校の校舎でしたが、2年生のときは滋野小学校に間借りし、2年生の春休みは統合中学への引越し作業を行ないました。トラックの荷台に乗って引越しを手伝ったことを覚えています。当時の建物は今はなく、数年前に一新しています。
50年間で東部中学校から巣立った生徒は17033名にのぼるとのことです。生徒の皆さんがここで勉学に勤しみ、部活に汗を流し、友情を育んでいってほしいと思います。