18日から20日まで行なった東日本題震災の視察から帰って来ました。詳細な報告は今後整理してから行ないます。とりあえず写真で報告します。
朝5時に東御市出発、石巻着11時。石巻港はすでに片付いていました。写真は左が蓮見議員、右が私です。写真を撮ったのが阿部議員さんです。
港に程近い住宅地は津波で大きな被害を受けていました。これまでのボランティアのみなさんのご努力で片付けが始まっていました。
石巻市役所も津波の被害受けましたが市民の生活支援に取り組んでいました。その中で長野県諏訪市、島根県松江市、長崎県諫早市など、全国の市から応援に来ている職員の皆さんがいらっしゃいました。
石巻ボランティアセンターは被災しなかった石巻専修大学の構内にあり、若者を中心に運営されていました。芝生の校庭にはたくさんのテントが張られており、駐車してある車のナンバーも全国に及んでいました。
中にはすでにここに来て3週間になるというつわものもいました。近くに自衛隊のサイトがあり、そこでシャワーが浴びられると言っていました。
午後南三陸町に移動しました。南三陸町はほぼ壊滅状況にありました。遠くに見えるのは消防施設でしょうか。
高台に移動して町の全景を見ました。まったく声が出ませんでした。写真などですでに実態はわかっているつもりでしたが、実際に目にしてみてその物凄さにただたじろぐばかりでした。この瓦礫の下には市民の毎日のいとなみと家族の団欒、そして夢や希望があったのです。それがいま泥濘に覆われています。茫然自失でした。心が折れそうになります。
ここ気仙沼市でも活発なボランティア活動が繰り広げられていました。この日も中高年を中心に100名ほどのボランティアがかけつけていました。被災してから2ヶ月にもなるからでしょうか、受付の方は大勢の皆さんを実に手際よくさばいていました。
ボランティアの皆さんは自分のできる仕事と名前をシートに書き、ガムテープで背中に貼って準備をします。ボランティアセンターでは市民の方から要請のあった仕事を振り分け、仕事ごとにいくつかのグループに分かれて作業に入ります。
個人のお宅の掃除をすることになったグループです。学生さんや仕事を休んできたサラリーマンの方、仕事をやめてボランティアに参加した方、すでにリタイヤされた中古年の方など様々な方が参加されていました。カメラを向けるとVサインをしてくれました。こんな時不謹慎だとは思いますが、こんな時だからこそその明るさが救いになりました。
最終日に気仙沼市を表敬訪問し副市長さんにお会いしました。ここには東御市から4名の職員が2週間交代で派遣されています。健康に留意されしっかり仕事をされるよう激励をしました。ここでは東京都の江戸川区の職員の方と一緒に仕事をされています。
気仙沼市の総合案内所には様々な情報が掲示されていました。情報と言う点では今回の被災にあたり、数多くの災害FM局が立ち上がったことも注目すべきことがらでした。気仙沼市でも3月23日には気仙沼災害FM、4月22日には本吉災害FMが立ち上がっています。
市民の方が列を作って相談所に訪れます。その応対に忙殺され、気仙沼市の職員の方はこのところ土日勤務が続いているとのことでした。他の市などから支援をしてもらっていても仕事は一向に終わりません。
気仙沼市の市民会館が避難所に指定されており訪れました。所長さんは女性の方でご自身もご家族を亡くされています。避難されている方々の立場に立って、きめ細かな心遣いをされておられました。隣接地には仮設住宅も建設されてきています。
気仙沼市の被害の状況は他の市と同様でした。船が瓦礫の上に乗っているのが、津波のものすごさを物語っています。
地震で地盤沈下が起きたとのことでところどころで満ち潮の時水浸しになります。交通止めが行なわれ迂回を強いられることになります。
帰りにお隣の岩手県陸前高田市の状況を見てきました。荒涼たる瓦礫が広がるばかりでした。
2泊3日の視察は実に多くのことを学ぶことができ、実りの多い視察でした。ここでの教訓をこれからの行政に活かしてゆくことができればと思います。
朝5時に東御市出発、石巻着11時。石巻港はすでに片付いていました。写真は左が蓮見議員、右が私です。写真を撮ったのが阿部議員さんです。
港に程近い住宅地は津波で大きな被害を受けていました。これまでのボランティアのみなさんのご努力で片付けが始まっていました。
石巻市役所も津波の被害受けましたが市民の生活支援に取り組んでいました。その中で長野県諏訪市、島根県松江市、長崎県諫早市など、全国の市から応援に来ている職員の皆さんがいらっしゃいました。
石巻ボランティアセンターは被災しなかった石巻専修大学の構内にあり、若者を中心に運営されていました。芝生の校庭にはたくさんのテントが張られており、駐車してある車のナンバーも全国に及んでいました。
中にはすでにここに来て3週間になるというつわものもいました。近くに自衛隊のサイトがあり、そこでシャワーが浴びられると言っていました。
午後南三陸町に移動しました。南三陸町はほぼ壊滅状況にありました。遠くに見えるのは消防施設でしょうか。
高台に移動して町の全景を見ました。まったく声が出ませんでした。写真などですでに実態はわかっているつもりでしたが、実際に目にしてみてその物凄さにただたじろぐばかりでした。この瓦礫の下には市民の毎日のいとなみと家族の団欒、そして夢や希望があったのです。それがいま泥濘に覆われています。茫然自失でした。心が折れそうになります。
ここ気仙沼市でも活発なボランティア活動が繰り広げられていました。この日も中高年を中心に100名ほどのボランティアがかけつけていました。被災してから2ヶ月にもなるからでしょうか、受付の方は大勢の皆さんを実に手際よくさばいていました。
ボランティアの皆さんは自分のできる仕事と名前をシートに書き、ガムテープで背中に貼って準備をします。ボランティアセンターでは市民の方から要請のあった仕事を振り分け、仕事ごとにいくつかのグループに分かれて作業に入ります。
個人のお宅の掃除をすることになったグループです。学生さんや仕事を休んできたサラリーマンの方、仕事をやめてボランティアに参加した方、すでにリタイヤされた中古年の方など様々な方が参加されていました。カメラを向けるとVサインをしてくれました。こんな時不謹慎だとは思いますが、こんな時だからこそその明るさが救いになりました。
最終日に気仙沼市を表敬訪問し副市長さんにお会いしました。ここには東御市から4名の職員が2週間交代で派遣されています。健康に留意されしっかり仕事をされるよう激励をしました。ここでは東京都の江戸川区の職員の方と一緒に仕事をされています。
気仙沼市の総合案内所には様々な情報が掲示されていました。情報と言う点では今回の被災にあたり、数多くの災害FM局が立ち上がったことも注目すべきことがらでした。気仙沼市でも3月23日には気仙沼災害FM、4月22日には本吉災害FMが立ち上がっています。
市民の方が列を作って相談所に訪れます。その応対に忙殺され、気仙沼市の職員の方はこのところ土日勤務が続いているとのことでした。他の市などから支援をしてもらっていても仕事は一向に終わりません。
気仙沼市の市民会館が避難所に指定されており訪れました。所長さんは女性の方でご自身もご家族を亡くされています。避難されている方々の立場に立って、きめ細かな心遣いをされておられました。隣接地には仮設住宅も建設されてきています。
気仙沼市の被害の状況は他の市と同様でした。船が瓦礫の上に乗っているのが、津波のものすごさを物語っています。
地震で地盤沈下が起きたとのことでところどころで満ち潮の時水浸しになります。交通止めが行なわれ迂回を強いられることになります。
帰りにお隣の岩手県陸前高田市の状況を見てきました。荒涼たる瓦礫が広がるばかりでした。
2泊3日の視察は実に多くのことを学ぶことができ、実りの多い視察でした。ここでの教訓をこれからの行政に活かしてゆくことができればと思います。