25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

半藤一利の文から

2018年08月02日 | 文学 思想
ガダルカナル島で日本兵は何を見たか(半藤一利「歴史と戦争」より抜粋)

 作者は第二師団経理部所属の吉田嘉七軍曹

「死なないうちに、蠅がたかる。追っても追ってもよってくる。とうとう追い切れなくなる。と、蠅は群れをなして。露出されている皮膚にたかる。顔面は一本の皺もみえないまでに。蠅が真っ黒にたかり、皮膚を噛み、肉をむさぼる。
 その脇を通ると、一時にぷーんと蠅は飛び立つ。飛び立ったあとの、食いあらされた顔の醜さ、恐ろしさ。鼻もなく、眼もない。白くむき出された骨と、ところどころに紫色にくっついている肉塊。それらに固りついて黒くなった血痕。これが忠勇な、天皇陛下の股肱の最後の姿。われわれの戦友の、兄弟の、国家にすべてを捧げきった姿」

 昭和二十年十一月二十八日の山田風太郎(同上 抜粋)

 「解剖実習室に屍体二十余り来る。すべて上野駅頭の餓死者なり。それでもまだ『女』を探して失笑す。一様に硬口蓋見ゆるばかりに口をひらき、穴のごとくくぼみたる眼窩の奥にどろんと白ちゃけたる眼球、腐魚のごとき乾きたる光はなてり。肋骨反り返りて、薄き腹に急坂をなす。手は無理に合掌させたるもののごとく手頸紐にてくくられぬ。指はみ出たる地下足袋、糸の目見ゆるゲートル、ぼろぼろの作業服。悲惨の風景」


 これが戦争の姿である。かっこよく、勇ましく死ぬのではない。マラリア、病気、栄養失調。「しかたのなかった戦争だった」と未だに言う人がいる。

 勇ましく、威勢のいいことを言うものは信用できないとぼくは思っている。尖閣列島のことで勇ましい石原慎太郎や勝谷何某などがいた。彼らは自分が戦争にかり出されるなどとは思っていないのである。
 想像力さえあれば尖閣列島に上陸することの愚かさがわかるはずである。海上保安庁や自衛隊の職員を巻き込んでしまう。外交交渉をするのが政治家、官僚の仕事である。

 日本は西洋に追いつけ追い越せで近代化を図ってきた。江戸時代の平和な文明を壊し、植民地化されるのではないかと恐れ、日露戦争勝利で、精神がおかしくなってしまった。軍部は東北の飢饉を憂い、ロシアの南下を恐れ、緩衝地帯として満州国を作った。情報に疎く、
「負ける」と言えば、「そんな縁起でもないことを言うな」という言霊信仰によって批判は許されなかった。マスコミが煽った。国民も煽り、煽られた。
 日本は強い国。経済大国世界三位などと言っていてはいけない。もう老人だれけの国である。戦争のでき国にしてはもういけない。

 しかし、なんと情けないことか。日本ボクシング連盟のたった一人のボスの言いなりになる大人。多くは教師だというが、一人の権力者に物申せなかった多くの大人たち。彼らは戦後に何を習ったのか。あまりにも情けない。これではまた戦争となっても反対できるものは何人いるのだろうかと疑ってしまう。日大しかり。レスリングしかり。意気地がないもんだ。自分に利すると思えば、人間の感情はそっちに向き、反対するものは排除する。
 戦争はこんなことの積み重ねで起こっていくものである。秘密保護法、共謀罪、安保法制を成立させるという政治的な動きも積み重ねである。こころしてかからなければならない。