昨日は川遊び、今日は海水浴場と息子たち夫婦は元気がよい。6歳の娘がいるからしかたないのだろうが。貴重な休みは精神は解放されているはずだから、まあいいのだろう。
ぼくはすっかり海水浴をするという意欲がなくなっている。こどもが中学生になる頃までだったように思う。
「今年の花火はやめとくわ」と夕べ母から電話があった。
「まあ、今から決めんでも、明日になって決めればよいわい」
母の家から通りにでると交通規制になっており、車では運べない。200メートルほどの道を歩くのが億劫なのか、暑さに不気味さ危なさを感じるのか、昨日の熱帯夜を考えると、危ないな、と思うのかもしれない。毎年花火を欠かさず見ていた。
息子がクリント・イーストウッドの「15時17分、 パリ行き」を見た。列車テロを偶然に防いだ青年3人の話でアメリカという社会がうまく描かれていた。国はキリスト教社会だと再認識した。「あなた、しっかりして、愛しているわ」
「もうすぐお医者さんがくるわ、頑張って、愛しているわ」と愛の連発である。闘うことへの勇気が絶賛される。クリント・イーストウッドの映画はそのなかに解釈を観客に委ねるところがある。
もうひとつ見ようとなってとりだしたのが韓国映画「悪女」だった。「キル ビル」韓国版といったところだ。
僕が知るかぎりの韓国映画は、おぞましく、暗く、殺し方も、殺す道具も斧まで使い、えげつない。しかも「恨」という情が絡んでくる。日本はさしずめこんな映画はつくらないと思うが、どうなのだろう。この国は儒教の層の上ににキリスト教が層を作っている社会である。
大統領への弾劾の様を見ても、財閥の娘の不祥事への弾劾をみてもあまりに凄まじいので、日本とは文化の形成のされかたが違うと思わざるを得ない。どちらが良い悪いではなく、違う、ということだ。
すっきりしない映画を見て、寝床に入って「日本人の信仰」という島田裕巳の新書を読み始めた。宗教という言葉は明治期に作られた。宗教をキリスト教宣教師のような厳しい信仰心をもたない日本列島人はこんな厳しい宗教については「無宗教」だと思った。宗教にいい加減な日本列島人、というよりはキリスト教と比較しての話である。キリスト教は布教活動が凄まじかった。それは腑に落ちた。
眠くなったので、そのまま寝入ってしまった。この頃は6時間ほどで眠っていられなくなる。8時間眠ったという記憶がこの一年はない。老化らしい。
ぼくはすっかり海水浴をするという意欲がなくなっている。こどもが中学生になる頃までだったように思う。
「今年の花火はやめとくわ」と夕べ母から電話があった。
「まあ、今から決めんでも、明日になって決めればよいわい」
母の家から通りにでると交通規制になっており、車では運べない。200メートルほどの道を歩くのが億劫なのか、暑さに不気味さ危なさを感じるのか、昨日の熱帯夜を考えると、危ないな、と思うのかもしれない。毎年花火を欠かさず見ていた。
息子がクリント・イーストウッドの「15時17分、 パリ行き」を見た。列車テロを偶然に防いだ青年3人の話でアメリカという社会がうまく描かれていた。国はキリスト教社会だと再認識した。「あなた、しっかりして、愛しているわ」
「もうすぐお医者さんがくるわ、頑張って、愛しているわ」と愛の連発である。闘うことへの勇気が絶賛される。クリント・イーストウッドの映画はそのなかに解釈を観客に委ねるところがある。
もうひとつ見ようとなってとりだしたのが韓国映画「悪女」だった。「キル ビル」韓国版といったところだ。
僕が知るかぎりの韓国映画は、おぞましく、暗く、殺し方も、殺す道具も斧まで使い、えげつない。しかも「恨」という情が絡んでくる。日本はさしずめこんな映画はつくらないと思うが、どうなのだろう。この国は儒教の層の上ににキリスト教が層を作っている社会である。
大統領への弾劾の様を見ても、財閥の娘の不祥事への弾劾をみてもあまりに凄まじいので、日本とは文化の形成のされかたが違うと思わざるを得ない。どちらが良い悪いではなく、違う、ということだ。
すっきりしない映画を見て、寝床に入って「日本人の信仰」という島田裕巳の新書を読み始めた。宗教という言葉は明治期に作られた。宗教をキリスト教宣教師のような厳しい信仰心をもたない日本列島人はこんな厳しい宗教については「無宗教」だと思った。宗教にいい加減な日本列島人、というよりはキリスト教と比較しての話である。キリスト教は布教活動が凄まじかった。それは腑に落ちた。
眠くなったので、そのまま寝入ってしまった。この頃は6時間ほどで眠っていられなくなる。8時間眠ったという記憶がこの一年はない。老化らしい。