25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

LED懐中電灯

2018年08月15日 | 日記
 とっさの地震で、電気が止まり、いよいよ津波がくるというとき、肝心のドアが開かなかったらといつも思っていた。「ナカミチ」で、衝撃の大セールのチラシに、LEDの懐中電灯があって、しれにはガラスを破る金槌とカッターナイフ、幾種類ものドライバーがついている。灯りは前も照らし、後ろ照らす。これはいいもんだ、と買い、毎日のテーブルに常備してある。
 人というのはなんとなく死んでしまう場合がある。ぼくの近親でも、叔父が漁に出て行方不明となった。叔母は扇風機に感電してお腹の中にいた子と一緒に死んだ。その叔母の娘の子は列車に轢かれて死んだ。
 妻の両親は東北大震災の津波で家ともさらわれ死んだ。
 人間の生き死にはちょっとしたことがつらなった運命的な事故と運命ともわからないような病気とで成る。津川雅彦が亡くなって、歳をみると78歳だった。78歳と言えば、ぼくはあと十年であるが、津川雅彦にとっては十分だったのか、ぼくにはまだ早すぎるような気がする。ぼくの父もそのくらいの歳で臥せたのだった。
 現在の医学ではあと5年。あと5年で多くの病が解決される。未来の予測はそうなっていて、あとの注意は「不注意」と「まさか」の想定である。妙な切っ掛けで、LED電灯を買った。命に関する物をそばにおいておくには安心感をつくる。Google のニュースでは8月20日が南海トラフの大地震などという噂話が予想者の名を借りて配信する。

8月15日

2018年08月15日 | 文学 思想
 「日本は負けますよ」と言ったら、「シー」と指で口を結ぶ。これを公の場所で言えば、特高につかまる。「あくまでも志願の特別攻撃隊だ」といっても志願しなかっら張り倒される」
当時の政治意識は日本の歴史の中でも最低である。嫌と言えない雰囲気を国、軍、マスコミ
それに威勢のいい大衆の一部が人々を煽りに煽った。日本国民が独自に裁判をしなかったから、戦争責任も異論が残ることになり、靖国神社に東京裁判での戦犯も祀られ、73年経った今でも中国、朝鮮、アメリカとギクシャクする。なんといっても責任hとらないと。
その後の日本は責任を曖昧にしてすませる伝統が定着したように思える。
 集団的自衛権の発動があり得る。その時、自衛隊員はどう反応するのだろう。
「拒否」できる自由な雰囲気はあるのだろうか。小さなボクシングあレスリングの世界でも知性あるお隣たちがたった一人のボスに抗うことができないのだから、自衛隊員も自由の表明は辞めるしかないのかもしれない。戦争などにまったく行く気もなく自衛隊に、入った隊員は職を失うことになる。
 集団を組織化する場合、出入り口をあけておくのが共同幻想から身を守らせる方法である。このような考えは集団に根付かなければならない。人類のまだコクフクできない課題である。
 もうひとつは第三者によるチェックだろう。
 日本列島人のどこがよくて、どこが悪さところなのか、あるいはどこが優れていて、どこが弱いく、劣っているところか。昔は「菊と刀」とか、「甘えの構造」というような日本列島人論が書籍になってでてきたが、近頃はその種の本がみあたらない。たぶん分散しているのだと思う。
 日本列島人とは何か、というテーマがそろそろ出てきてもいいのではないか。
 「外国人記者がみた日本」をテーマとした外国人記者たちが論ずる番組がたぶん、毎日曜日の夜だったと思う。これは結構面白い。海外の記者がどうみているのかを知ることは興味深い。
 若者も日本列島人を考える機会があればと思う。いいところも嫌なところも言い合って、我々などう進んだらよいのか、を論じ合う機会があればよいと思う。
 故郷尾鷲も同じだ。もうすでに消滅都市へのカウントダウンが始まっている。一大市民会議が行われなければならない。