25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

思い出すこと 2

2018年08月18日 | 日記

 小学の4年生の頃に野球が流行りだした。ぼくらもクラスの者で野球を練習し、チームを結成した。チームを結成すると、帽子のロゴマークもほしいし、ユニフォームもほしい。他のクラスのチームと試合もした。しかしながら5クラスあった学級の全部に野球チームがあるわけではない。6年生になると、他の学校と試合をしたかった。噂では宮ノ上小学校が強い、九鬼にはちゃんとした監督がいて指導を受けている、という噂も聞こえてきた 
 ぼくは試合の交渉に出掛けた。どのような伝で試合の日時などを決めたのかもうおぼえていない。
 不思議なことだが、ピッチャーをやっていると、バッターボックスで構える者にたいして、「こいつはできる」「こいつたいしたことがない」と判断ができる。何となく迫力があるのだ。今風に言えば「オーラ」を発しているのだろう。そしてその判断はほぼ正確に当たった。その子が持っているなにかがわかるのだ。

 なんども日曜日に試合をした。宮ノ上チームは強く、負けたことだけおぼえている。一度も勝てなかったのではないか。勝ったという記憶がない。
 九鬼小学校チームは整然と行儀のよいチームだった。ぼくらは指導者もおらず、好き勝手に練習しているだけで、頭を使って、練習方法を考えることはなかった。九鬼のチームにもさんざんに負けた。
 学校の休み時間はよく相撲を取った。放課後は野球をした。
 小学も卒業を迎え、卒業写真をとるとき、男子学生は僕一人を除いて、みな黒い学生服を着ていた。坊主頭している生徒もいた。これにはびっくりした。ぼくだけがいつものセーターだった。今もその卒業写真かがある。
 中学に入ると、野球部に入るか相撲部に入るか迷ったが、集団プレイが性に合わないような気がして、一対一で勝負ができる方が気楽でいいやと思ったのと、相撲が好きだったこともあって相撲部を選んだ。筋肉がつきにくく、細い相撲部選手だった。体力では負けるから技で勝負するしかなかった。相撲部の一年先輩は誰も優秀で、勉強も教えてくれたり、喧嘩の助っ人に来てくれたりした。一年上の者二人がぼと同じクラスのものを廊下で殴っていた。ぼくが助っ人に入ると、二対一の殴り合いになった。しばらくすると先輩達が駆けつけてくれた。
 小学生や中学生の頃は、子供の世界があって、それは決して両親には言わないものだった。
 ぼくはやせっぽちだったので、先輩の一人ガッシャンが銭湯に行こうと誘ってくれた時、彼は、自分の筋肉姿を鏡に映してうっとりしていたのをよくおぼえている。「ほら、ここ触ってみよ」といわれて羨ましいと思ったものだ。
 敬愛する一年先輩のうち、警察官になったMさんは早くに死んだ。Hさんは定年退職と同時に脳卒中を起こし、寝たきりとなった。東京でスナックをしていて結婚とともに尾鷲に帰ってきた勉強のよくできたKさんは65歳にもならない内に死んだ。ガッシャンは今も健在である。父の葬儀のときにも駆けつけてきてくれた。彼は独身を通した。Yさんは官僚となり、日露漁業交渉に当たった。今も健在である。
 忘れがたい、親近感のある先輩たちである。先輩、後輩の関係は死ぬまで続く。 
 一年年上の彼らは三重県大会で優秀を果たし、続いて翌年僕らも優勝した。
 夏の県大会にいく途中、白山付近の踏切で、列車からウンコが飛び散って来て、白いシャツにペチャッとついたのをおぼえている。当時の国鉄列車はそんなのだった。
 優勝をしてその次の日に柔道の助っ人で県大会に出た。ぼくは一回戦で松坂の男の子に5秒くらいで放り投げられた。これでクラブ活動が終わったのだった。
 秋になってぼくは文学少年に変わっていた。