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25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

十歳女児虐待死 その父親

2019年02月06日 | 文学 思想
とりとめのないような日々を過ごしている。それでも何かが起こる。たとえひきこもっていても何かが起こる。それが生きているということだ。
 栗原心愛ちゃんが父親栗原勇一郎の虐待暴力で死んでしまったと疑いがもたれている。連日このニュースが流れる。教育委員会や児童相談所が責められる。母親も加担していたと逮捕。自殺防止の意図も、と報道される。
 現代はこちら側はなんともない時間の過ごし方をしていてもあちら側からテレビひとつ点ければ、脳や身体を刺戟する事柄が目に、耳に入ってくる。
 この悲惨な事件は連日、「なぜ止められなかったか」に焦点があたっている。注意喚起をしたいのだろう。児童相談所の担当員はたいへんなことだろう。ミス。迂闊。だれでもやってしまいそうなことだ。人間、完璧な判断ができるはずもない。父親が殺してしまうとは思いもよらなかったろう。
 父親はどんな人物なのか。その育成歴を知りたいと思うし、物の考え方を知りたいと思う。どのようにしてこんな男が出来上がるのか知りたい。

 よく一家心中をするが、父親だけ死にきれず生き残ってしまうという事件が今でもある。父親が子供、妻も殺して、自分の時は死に失敗する。刑務所に入る。このような一家心中事件は日本では同情を呼ぶ。
この不思議。日本人は子供の生き死に対して大きな矛盾を持って生きている。ぼくはその矛盾はもってない。理性で解決している。つまりそういう無意識は鷲掴みにして取り出し、捨てている。子供を愛しているとしても、子供を不憫だと思ったとしても、子供は自分のものではない。子供はこれから成長して自分を確立してゆく「社会的な人間」であり、「次の世代につないでいく個としての存在」であり、「個人世界をもつ存在」である。もうこれ以上生きられないという夫婦の道連れにすると言うことは許されるはずもない、なのに、世間は「一家心中事件」に同情する。
 子供は親のものである、というかすかな思いが相談員にあったのかもしれない。親が文句を言ってきたときに対抗できる思想をもっていなかったように思われる。
 殺人者である父親は日本の古層の無意識をもった古い男である。この父親のことがそろそろテーマとならなければいけない。テレビ局はこういうときが力の出しどころだと思う。

*昨日二度目、「スリービルボード」を見た。よかった。男も女もないという視線がある。古い田舎町を舞台にして。

おぼえられない

2019年02月06日 | 日記
中島みゆきの EAST ASIA をおぼえているのだが、何度聴いてもおぼえられない。おそらくこれまでの僕の脳にない複雑なメロディであり、歌詞の流れ方をしているのだろうと思う。FADの一曲がなかなかおぼえられないのと同じで、メロディとかリズムには親しみ馴れたものがあり、初めてのものを身体に取り込むにはなかなかたいへんな努力がいるように思う。音楽にはいささか自信があっただけに、覚えられないのには参ってしまう。以前、桑田佳祐の「サウダーデ」という曲を何度も何度も聴いておぼえた。これにも時間がかかったが、今ではスーッと間違いなく出て来るし、この曲がさして難しいとも思わなくなった。つまり身体に入ったのだ。
 いっそのこと、楽譜を買おう、と思って調べてみたら、中島みゆきの楽譜全集で中古のものはアマゾンにあって、7700円ほどで売っていた。ほとんどの曲が載っているのだろうが、一曲のためにこれを買うというのももったいない。ヤマハがダウンロードして楽譜を印刷できるサービスをやっている。それには手続きがいるので、これも面倒なことだと思ったのだった。本当は便利なサービスのはずが、なのに。
 それでやっぱり聴きとおしておぼえるしかないと思っている。脳がだんだん腐ってきているのだろうかとも思う。若い人なら簡単におぼえてしまうような気がする。

 今小説を書いていて、一応書いたのだが、どうもすっきりこなくて、何かを挿入したら全体がまとまるみたいな感覚があって、それをいつも頭の隅に置いてある。昨晩の夜中小説を読んでいて、突然、その挿入すべきことが浮かんだ。小説の中にヒントがあったのである。よし、と思って寝たら、翌日忘れてしまっている。午前五時に目を覚ましたとき、おぼえていない。それであわてて、また昨晩読んだところを読んでみた。どこがヒントだったのかわからない。もしかして読書をしていて夢でもみたのか、と怪しんでいる。今日はそれを思い出すことに精を出す。