25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

村本大輔の言葉の重み

2019年02月22日 | 社会・経済・政治
 お笑いコンビで政治ネタをする「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔がとてもいいことを言っていた。「テレビは真実を伝えない道具。不安を解消する道具だ」云々とテレビの前で言った。まさにそのとおり。ぼくはよくテレビの政治ネタや情報番組にでる「出好き有名人」の忖度や奥歯に物が挟まったようなコメンテーターや記事を扱う選択権をもつ人たちにどちらかと言えば軽蔑の目を向けていた。
 例えば、中国の人々の悪いニュース、真似をするとか、パジャマで街を自転車で走るとか、マナーの悪さのようなことばかり扱っては、日本の視聴者は「中国人を愚かだと思い、まだまだ遅れた国民だ」と安心する。そして実のところ5Gやキャッシュレスの先進国であると、後で知る。中国が世界第二位のGDPとなって、日本が抜かれてから、すでに2.5倍引き離されている。
 日本でも、ほんの少し前まで、道にツバを吐く者などいっぱいいた。いまはあまりみなくなった。中国もそうなる。
 世界ではとんでもないことが起こっている。シリアの戦争はヨーロッパにたいへんな影響を与えている。この戦争について詳しく解説し、いつ頃難民たちが帰国できるのか知りたいものだが、それをテレビでしない。
 NHKは大儲けしている。視聴料金をとらなくてもやっていける収入がある。だったら、第2の国営放送があってもよいように思えるし、ジャーナリストの根性のようなものを発揮して、情報収集に骨を折ってもらいたい。テレビ局や新聞社の社長、芸能人の司会者やコメンテーターは首相と一緒に会食などしてはいけないのだ。

 もうひとつ関連して言っておきたいことがある。テレビも、スマホやタブレットも人を安心させるためのものであることも確かな側面である。しかし、人間、それほど刺激を求め、静かに退屈を過ごすことがあってもよいのだと思う。現代の人間が視聴率を支え、視聴率がとれないものはニュースにしないとなったら、そういう安心、退屈のまぎらわしを求める人の嗜好にテレビ局が合わせるということで、テレビは甚だ理性と品性を欠き、まさにポピュリズムを生むインフラとなる。
 田原総一朗の「中曽根と話をした」とか「この前安倍に言ってやったんだ」という自慢話や「朝まで生テレビ」のように上から目線の政治談義やらよりも村本大輔の言葉の方が重たい、とぼくは思う。政治談義の彼らは村本が出ると小馬鹿にしていたのを思い出す。