25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

分断という思い込み

2019年03月05日 | 文学 思想
 「分断という思い込み」。あの人達とこの人達、アメリカ側と中国側、西洋諸国とアジア諸国。あの宗教、この宗教、あの政党、この政党。反日、反韓、ぼくらはいつも物事を分断して考えている。この話も「MINDFULLNESS」の話である。
 ぼくは以前から吉本隆明が作った造語である「共同幻想」に拘っている。観念の領域には「個人幻想」「対幻想」そして「共同幻想」がある、というのだ。そして「個人幻想」と「共同幻想」は時に逆立する、相反することもあるという。ぴったり密着するときもある。
 連合赤軍のリンチ事件が明らかになったとき世は騒然となった。社会をよりよくしようと思って立ち上がったにちがいない青年たちは、追いつめられてしまうことで、森恒夫や永田洋子らの幹部によって、仲間が仲間を殺すということまでしてしまった。まさに、共に訓練するグループ、共に思想を同じくするグループ、そして共に逃げるグループという「共同幻想」をもつ彼らである。
 しかし、その共同生活の中でも個人は個人であり、マニキュアをしたいものもいるだろう。それが気に入らないものもいるだろう。この時に、個人は「共同幻想」を使い「個人幻想」を「共同幻想の下」に置こうとする。
 宗教も出発点は人々の救いであり、心の平安である。それがキリスト教の歴史を見ればわかるように「殺す集団」となる。最近では「オウム真理教」がそうであった。共同幻想と個人幻想の一致度が高いほど強固な組織が出来上がる。

 三人以上のグループ、集団、組織はよくよくこの点を考えなければならない。個人幻想が強力な磁石をもつ組織に吸い込まれると悲劇が起こるということだ。だから組織は常に「出口」を用意しておかなければならない。出口を制度的に言えば、労働基準監督署であり、失業保険ということだろうが、それは経済会社にまつわる制度である。宗教はどのようにすればよいのか。学校のクラブはどうすればよいのか。出入り自由で決して強制されることのない緩い集団にするしかない。そして意見が自由に言えなければならない。この程度のことならだれでもわかることである。それでもオウム事件は起こった。たぶんそれだけでは集団を作るには不足なのだ。個人幻想と共同幻想が一体化しない、させない方法。人類はその開発が必要なのだ。そのひとつに「思い込み」から開放させる方法があるのかもしれない、と思ったのだった。