料理屋の板長さんが、頃合いを見計らって、ちょいと、「何か美味しいもの」をサービスでだしてくれるときがある。
大人になって働くなるようになってから、「弥栄」という寿司屋によく行った。まだ子供もいなくて、気楽なものだった。そこの大将の奥さんはぼくの同級生だった。手の遅い大将はニタッとした笑みを浮かべて、毛蟹を出してきた。注文もしていないのにである。毛蟹は紀州にいては食えない。学生の頃でも食えない。高いからだ。ぼくは毛蟹の美味しさを初めて知った。蟹は旨い。さまざまな蟹を食べたが、椰子ガニは食べたことがない。バリ島でフィージーで仕事をしていたという日本人男性が「椰子ガニほど旨い蟹はない」と何度も言っていたから、死ぬまでに一度は食べてみたいとおもう。
続いて、今はもう引退した「剣」という活魚の料理屋で、ある日、店主がハゼの天婦羅をだしてきた。今日釣ってきたんだと、と言って出してきた。この美味しさにも驚いた。この店ではメイチ鯛や鬼エビの旨さを知ったのだった。
東京のホテル内にある寿司屋で、サヨリを皮を串に巻いて出してくれたことがあった。また青物横丁の料理屋で「伊勢海老の味噌の塩辛をそっとだでしてくれたことがあった。このように板前さんはときどきサービスでめったに食えないものだしてくることがある。
さて、この前の火曜日に、岡田さんとよくいく料理店に行った。いつものように、村上春樹の短編集のことなど話、酒を酌み交わしていたら、ひょいと、「これ食べて、サービスやで」と言って、さらにフグのような薄造りともみじおろしがある。しかしトラフグとは色が違う。「彼岸フグっていうて、友達が釣ったらしい。「へえ、聞いたことのない名前やな」「アカメフグとも言うらしいけどな、毒が強い。皮算もダメやで」
身はやや桜色っぽく、コリコリしていて、やや甘味がある。ぼくとしては、もう少し薄く切った方がよかったのではないかとも思ったが、こころなかではやはりトラググのほうが旨いもではないかと思ったのだった。それでも初めて食べるその彼岸フグは十分美味しく、こういうサービスはあるものだと嬉しかった。
薄造りはぼくのなかでは、クエ、トラフグ、コブ付きの荒磯で育った真鯛、シマアジ、ヒラメ、メイチ鯛、ハゲ、オコゼという順になる。さて彼岸フグをどこに入れるか、今考えている。そして板前さんの心遣いを何度も思い出す。