25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

川魚の稚魚を採る

2018年08月14日 | 日記
 孫たちにつきあって、川魚(たぶんハヤの稚魚だと思う)を採りに賀田の大川に行った。六歳の孫娘ひたすら小さな金魚すくいくらいの網で稚魚を掬っていた。娘とぼくは竿をだしてハゼ釣りをした。ハゼ入るが食いが悪く、数引しか釣れなかった。脚だけを水に浸けているだけで涼しい。3歳の孫息子は両肩に浮き袋をつけて目標地点を定めて、そこを何度も往復していた。
 今日の大川はさすがにお盆休みおせいか人も多かった。特に外国人が多いのは三木里海水浴場と同じだ。よくこういう場所を見つけるものだと思う。
 この頃外国人をよく見かける。白人系の人もよく見かける。テレビでフランスの女性が行方不明だというニュースで写真をみると、その女性とそっくり女性をマクドナルド店で見た。sれ、あの女性ではないか、と思ったが、行方不明にnなったのは日光だったということから、人違いかなあと思っているこの頃、映画をみて外国人に顔の見分けは難しくなっている。
 その女性には二人の子供ぎて、夫もいたようだった。テレビのニュースでは独り身のようだった。それにしても顔がそっくりである。

 孫娘が採った稚魚は合計で二十匹ほどになtらので、ぼくが水槽を用意して飼うことになった。
来年の正月休みには大きくなっていることだろう。上手く育成できればのことだが。 
今日の尾鷲はおそらく人口が三倍、四倍に膨れ上がっている。スーパーやナカミチは大忙しだ。
40年ほど前は常時こんなのだったのだろうか。40年で人口が半分になった尾鷲市。16日には普通の日々が戻ってくる。
 
 

尾鷲はよいところだ

2018年08月13日 | 日記
 ぼくらが貸別荘の掃除をしている間、娘に釣竿とミミズとバケツを渡し、ハゼでも釣ったらどうかち言った。二時間が経って、娘と孫たちをピックアップするとバケツの中にハゼやハヤがいる。大きな川エビもいた。6歳のまご娘は小さな入れ物にちっちゃいハゼの赤ちゃんを掬ったらしかった。こんな時、夏はいいなあ、と思う。遠くで雷が鳴ったので、夕立があるのかもしれない。
 家に帰り、孫は川エビを絵に描き、続いてハゼを絵にした。生き生きとした絵だった。
 ハゼの赤ちゃんをどうするかということになって、メダカと一緒に住まわせることにした。
 ぼくはよく知らないので、ハゼ用の住みかを用意して大きな容器に入れた。このまま育ったら、ハゼは簡単にメダカを食べるほどの口になる。まあ、しばらく様子を見るか。
 3時になって銀次さんと会った頃には雷みももっと遠くへ行き、銀次さんに魚飛の様子を詳しく説明した。特に、車の駐車と淵へ入り方である。
 相変わらず7月のような気温が続いている。それでもなんだか熱気も弱くなっているように思える。
 尾鷲はいいところだ。川があり、砂浜有り、磯がある。山があり海がある。湖もある。これは宝だ。

絶対に戦争をしないと世界に訴える

2018年08月12日 | 文学 思想

 八月になると先の戦争と核問題が話題となる。現代社会は使える核開発競争という馬鹿げた政策が行われている。ヨーロッパやアメリカはイスラム国家に脅威を持ち、たとえ戦争がなくても政治の意識の根本に戦争、防御、報復をもっている。これは彼らの原罪のようなものだ。

 戦争を克服できないホモ・サピエンスは滅亡のカードを持ってしまったことになる。戦いの連続だったキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の歴史を見ても、その遺伝子は脈々として現代に繋がれている。
 ときどき、われわれはそういう世界に背を向けて、慎ましく生きていけばいいではないか、世界経済三位などということに執着する必要もないこと(-。-)y-~ではないか、と思うことがある。白人には付き合い切れんぜ、と思う。
 キリスト教も、イスラム教、ユダヤ教も同じ神を崇めるというのだから呆れる。少々は自らの宗教を考えてみたほうがよいと思うが、ぼくには到底わかり得ない超越した神の存在があるのだろう。「戦争の放棄」という理想的な憲法を日本において提案したというのは、戦争という概念そのものがダメなのではなく、日本に戦争を放棄させて二度と米英など連合国を攻めるなという、やはり戦争が前提の要求だったのではないか。はエジプトからシナイ半島、やがてローマ帝国、帝国の分裂、ヨーロッパ国取り合戦、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経ている彼らは、自衛と報復の意識がぼくらには考えられないほど記憶としてあるのかも知れない。

 しかし、もうそんな記憶は軽蔑、憐れとし、歴史を完全にリセットをした方がよいと思う。
 戦争放棄は未来へのメッセージである。個個人は心の中ではそう思っているだろう。コスタリカだっと思うが国は軍隊もなくした。もちろん戦争も放棄した。永世中立国を目指している。(※非常時には自衛隊ために徴兵ができるようになっているが、現在の高度な技術力を必要とする戦争においてこの制度は事実上意味がないという意見がある) 
 このような国々が現れればいい。馬鹿な、とリアリストhは言うかもしれない、しかし、「絶対に戦争はしないのだ」という精神を徹底して世界に訴えたほうがよい。

 


甲子園 白山高校

2018年08月11日 | テレビ
 三重県の白山高校が今日の第四試合だったので、早めに幾つかの用事を済ませて、テレビ観戦に臨んだ。さぞかし白山町の人達はわくわくしていることだろう。ブラスバンド部に応援がきてくれるという。甲子園に応援いってほしいと涙をこぼして毎日各戸を訪問して、ついにバス50台を用意することができたようだ。
 十年前は部員が5人だったそうである。十年で甲子園にいけるまでの力をつけたのには何か特異なことがあるのだろう。監督の指導力かもしれない。たまたま優秀な生徒が入部してきたのかもしれない。他に何かあるのかもしれない。
 町としては嬉しいびっくりだろう。みんなで応援す興奮も人生の中で経験することができる。暑いと言ってられない。
 テレビでは白山の雲出川やコシヒカリの米を紹介していた。応援団結成にかけずり回っていご老人もいるのだろう。相手は愛工大名電という、いわば野球の名門であり、ブラスバンドでは世界の名門であるらしい。何を名門というのかわからないが、アナウンサーはそう言う。
 相手が何であれ、勝つと嬉しく、負けると、残念ということになる。さて、これから、これから。

 

苦しい時の絶対神

2018年08月10日 | 文学 思想
 宗教という言葉が入ってきたのは明治になってからである。それまでは日本人の意識は八百万の神と仏が合体しているようなうっすらとした信仰はあったようである。仏教の経典な読める庶民などはいなかった。ただ「南無阿弥陀仏」や「なん妙法蓮華経」とかを唱え手を合わしたり、神社では柏手をうっていたのだろう。ニ礼二拍一礼の作法も宗教という言葉が出てきたことで、神道も慌てるように様式決めた明治のことである。キリスト教という厳しい信仰が入ってきて、それを宗教と呼ぶのなら、日本列島人はどのようにして道徳心をもつにいたったのだろう。
 新渡戸稲造はクリスチャンであったが、その点で悩んだらしい。それが「武士道」を書くに至らせた。新渡戸稲造にとって武士道はキリスト教の厳しい教えによく似ていたらしい。

 クリスマスを楽しみ、キリスト教の結婚式をあげ、正月や七五三となると神社に詣でる。人が死ねば葬式をする。一部神教の信者から見れば訳がわからないだろう。日本列島人の多くは信心がないのか、と問われたら、ない、とは答えられないだろう。ただ超越した絶対神に服従するか、と問われたら、それはない、と多くの人が答えることだろう。
 ぼくらの意識の世界は無意識も含めて一体どうなっているのだろう。

 明治期に伊藤博文が憲法を考えた時、日本の憲法の軸を天皇においた。万世一系だと天皇のこと定義した。神武天皇は神話の第一代天皇である、とした。天皇が司る国を日本だとした。短い期間であったが廃仏毀釈までみ明治の初期に行われた。西洋の方式が利用された。この国体は長く続かず、米英中ロらの連合軍によってこてんぱんにされた。しかし多くの若者は「天皇陛下万歳!」と叫んだ。天皇は絶対的な神そのものであった。

 戦後天皇は江戸期のような象徴となった。そして人々の間ににこやかに顔を見せるようになり、国内外各地で人々に寄り添うように慰霊の訪問をした。
 仏教は葬式仏教になり、ほとんど解体されているように思える。神社も静かに粛々とある。江戸期に戻ったようである。宗教色が薄まっている。それは経済の成長を伴っている。自分で自分の未来をある程度見通せるようになって、どの宗教薄まった。
 日本列島は地震や津波、水害のよう災害はあるけれど、もちろん天変地異による飢饉はあったが、平均すれば西南アジアやヨーロッパよりは豊かに暮らせたのだろう。海に囲まれていた。四季のある温暖な地域であった。

 いわば絶対神に救いを求めなくてもよかったのである。日本列島人の意識深層には一万年に及んだ縄文人の文化がある。その上に弥生人がもたらした文化がある。朝鮮、中国からもたらされた文化も層を成している。明治になって欧米の文化が入ってきて、僕らに意識の表層部分を作った。それが崩れた。明治以降に積もった表層の部分が崩れたのか、もっと深いところから崩れたのか、日本列島人はまだ総括をしていないように思う。


イゾラド、ヤノマミ、ピダハン

2018年08月09日 | 
  以前に図書館で借りて読んだ国分拓の「ヤノマミ」には驚嘆した。アマゾンの奥深くで移動して暮らしている原始の民族の生活、NHKのディレクターが6ヶ月ほどを一緒に過ごして取材したものだ。ヤノマミの生活にも驚いたが、ぼくはそこへ行き、取材をするディレクターやカメラマンに驚嘆したのだった。彼らはヤノマミと同じ生活をして確かな取材をした。
 次にぼくはまた図書館でやはりアマゾン奥地に住む「ピダハン」を読んだ。これはアメリカの宣教師が宣教のため行き、書いたものだ。彼らは、精霊の概念も神の概念もなく、右左の概念もなかった。ピダハンの言語を、ピダハンの村から少し離れたところで、コーヒーやハンモックを持ち込み、我が生活様式は頑なに守ってピダハンを知ろうとするのでだった。結果、彼は信仰を捨てた。ピダハンの言語研究者になった。
 
 「イゾラド」というまた別の民族があることを息子から知った。またヤノマミを取材したディレクターが「ノモレ(仲間)」というタイトルで書籍にした。ヤノマミの取材を終え、熱をだし、入院した男だった。
 懲りずにまた別の民族の実像を調査しにいく。この男はどういう男だと驚きもし、尊敬もする。
 ぼくらは彼の取材により、きっと人類にとってとても大事なことを教えてくれると思う。
 ぼくはとりあえず、かれらの共同幻想、個人幻想、対幻想を知りたい。

 旧約聖書の歴史は収奪と人殺しの歴史である。エジプトやメソポタミアの文明から遠く離れて、アマゾンの上流域にたどり着いた幾つかの集団は文明の外にいた。闘いの歴史を刻みこまれた現代の文明である。特に西南アジアからヨーロッパ、北アメリカがすごい。そういう歴史など無関係に生きてきたアマゾンの奥地の集団である。
 「ヤノマミ」も「ピダハン」も手元に置いておこうと思い、「ノモレ」も読もうとAmazonで注文したにが昨日だった、そしたら翌日4時にまず「ピダハン」が届いた。文明最先端時間の速さでぼくは書物を手にしたのだった。これも驚嘆。続いて翌日「ヤノマミ」「ノモレ」「言語が違えば世界も違って見えるわけ」「ことばと思考」が届いた。

 聖書に始まった6月からの読書の旅はいくつかの聖書関連本、人類の起源、日本人の信仰、と走破して、今アマゾンの支流奥地で暮らす人々の暮らしをもう一度読もうという気にさせている。
 

早坂 暁の作品

2018年08月08日 | 映画
 昭和のテレビドラマで何がよかったか、もう一度見たいかと言えば、「花へんろ」と「夢千代日記」そして「事件」を挙げる。ほかにもあるのだろうが、思い出せない。この三作とも早坂曉の脚本である。悲しみも、おかしみもある。何と言っても、「花へんろ」では俳句が「夢千代日記」では短歌が出てくる。そして「花へんろ」では桑原研朗が音楽を、「夢千代日記」では武満徹が音楽を担当している。これが映像とよく合うのだ。セリフ、ナレーション、映像、音楽どれもマッチしている。行間を読む、と言われるが、映像と音楽が行間を読む手助けをしてくれる。
 桃井かおりは彼女の俳優人生で代表作だろうし、吉永小百合も、もはや「キューポラのある街」よりは「夢千代日記」が最高の代表作だろうと思う。吉永小百合はこれがなかったら、青春ドラマ俳優で終わっていたかも知れない。
 若山富三郎も「事件」がなければ、「子連れ狼」かヤクザ物で終わっていたかもしれない。
 
「花へんろ」は渥美清がナレーションをやっていた。
 早坂暁と渥美清は仲がよかったらしく、渥美清に、尾崎放哉を演じてみないかと相当説得し、渥美清も乗り気になったらしい。寅さんからの脱皮を考えていた頃だ。ところがこの企画は関西で尾崎放哉のドラマが橋爪功を主人公としてつくられたというニュースがあって流れてしまった。渥美清の脱皮もできぬまま寅さんで役者人生を終えた。渥美清の自由律の俳句にいい句が多くある。
 
 文学の香りがする早坂暁の作品を考えてみると彼の物語の源泉が太平洋戦争期の思春期時期にあり、彼のユーモアは商売人の一家でありながらも句会を主宰する親たちの風雅さである。
 太平洋戦争まではまだ庶民にはピンと来ていない戦争であった。太平洋戦争までの穏やかな日々のなかでいろいろなことが起こるが、それが国家による犠牲をあからさまに強いるものではなかった。
 昨日「花へんろ」の特別編がNHKBSであった。早坂暁を思わせる主人公良介は愛する義妹が広島のうつ原爆で帰らぬ人っとなってしまったことを知る。
 悲しいドラマであったが美しかった。儚い命であったが、命は尊いとじっくり思わせる脚本になっていた。
 こういう脚本を継いでいく人は誰なのだろう。いるはずもないのだが、そう思ってしまう。

 
 

大騒動日々

2018年08月07日 | 日記
 息子たち家族が帰って、やや喧騒減。海水浴、川遊びと堪能したことだろう。
 魚飛渓に行った。ぼくは送っただけで川にいくのは用心した。絶対に川のそばにいると、鮎がいるかどうか確かめたくなるし、ちょうど棒網を石と石の間に置き、鮎を追い込めば必ず通り道になるはずだ、と想像するのだった。
 異常な暑さのために、冷たい物を飲むせいか、胃腸がくたびれているような気がする。
 今日は京都から大学生たちが12人も来て、いろいろ説明していると、やはり魚がよく釣れる言うと興奮する。「カブトムシはいますか」「庭にいくらでもおるで」と平然としていうと、「ぅオー」と歓声を上げる。こういうやりとりは楽しいことである。昨晩の客はきっちりと後片付けをしてくれ、整頓してくれていた。おかげで次の客へ準備が早く進む。 
 台風が過ぎていったら、娘家族を連れてまた魚飛にいき、鮎を網で取ろうと目論んでいる。「サキ、そこで石を投げろ」「追い込むように次々投げろ」と言うことだろう。孫娘は訳がわからなうが、やがてわかるだろう。体験知となる。

 スーパーで「線香花火」を買おうということになった。日本産が750円。中国産が320円。どれほの違いがあるのか興味があってどちらも買ってみた。夜試すつもりである。
 どうしてこうも価格が違うのだろう。
 年に2回の大騒動が16日まで続く。

 
 

高校野球

2018年08月06日 | 文学 思想
 無様な日本ボクシング連盟のたった一人のこわもて。それを取り巻く連中に、ずっと好き勝手させてきた連盟の会員たち。ぼくはむしろ、終身会長に祭り上げてしまった方に、強面、口達者な男に異議唱えず、従っていたという事実の方に驚いている。

 高校野球もそうだとも言わないが、ぼくは高校野球にずっと違和感感じてきた。全員丸坊主。そして監督という大人がいる。どうして生徒が監督をしないだろう。これが不思議なのだ。教育的見地からでみ生徒が監督のほうがよさそうである。なにか他のもっともな理由を知っている人がいれば教えてほしい。従順なことが美徳なのではない。自分で、あるいは自分たちで考えて決断する。高校生のそんな姿が見たい。大人は命令せず、相談に乗ってあげて、コーチングをすればいいと思う。ぼくはいつもそのように思いながら春夏の甲子園大会を見ている。

 卓球もバドミントンも、テニスもコーチ的な人がいるだけである。
 権力の下、唯々諾々ではダメなのだ。
 権力をチェックするのはマスコミである。これも戦前のようになってしまうこともある。そうなればそれが巡りめぐって国民に災難がくる。軍部が悪い、政治家、官僚が悪い、マスコミが悪い、いや国民も悪いと言って、日本国民は戦争の責任者たちを自ら裁くことはなかった。この無責任体制は戦後の日本を被っている。

 

  

ファウンダー

2018年08月05日 | 映画
昨日、マクドナルドの展開期に大活躍して、創始者と自分を呼んだ男が主人公の映画「(The founder 」を見た。20年以上前に「マクドナルド」というノンフィクション本を読んだことがある。それはいかに効率良く、味を均質化する苦労を取材したもので、フランチャイズ化にとりかかる前の話だったように思う。ハンバーガーショップをアメリカだけでなく、世界に広めたのはレイ・クロークという営業マンだった。マクドナルド兄弟は彼に展開を許し、最後は乗っ取られるような形で、クロークの勝利となった。マクドナルド兄弟は味ややり方の開発ができたのかもしれない。企業の創成期というのはホンダで言えば、技術開発の本田がいて、営業をする藤原がいてこそ発展した。ソニーしかりである。
 今朝、家の前ににシートのようなものが落ちていた。昨夜の花火の帰りに誰かが落としていったのだろう。拾ってみるとマクドナルドのシートだった。偶然の話だ。こんな世界の隅までマクドナルドは進出している。たいしたもんだ。成功の秘訣とは「執着」だそうだ。

15時17分、 パリ行き

2018年08月04日 | 映画
 昨日は川遊び、今日は海水浴場と息子たち夫婦は元気がよい。6歳の娘がいるからしかたないのだろうが。貴重な休みは精神は解放されているはずだから、まあいいのだろう。
 ぼくはすっかり海水浴をするという意欲がなくなっている。こどもが中学生になる頃までだったように思う。
 「今年の花火はやめとくわ」と夕べ母から電話があった。
 「まあ、今から決めんでも、明日になって決めればよいわい」
母の家から通りにでると交通規制になっており、車では運べない。200メートルほどの道を歩くのが億劫なのか、暑さに不気味さ危なさを感じるのか、昨日の熱帯夜を考えると、危ないな、と思うのかもしれない。毎年花火を欠かさず見ていた。
 息子がクリント・イーストウッドの「15時17分、 パリ行き」を見た。列車テロを偶然に防いだ青年3人の話でアメリカという社会がうまく描かれていた。国はキリスト教社会だと再認識した。「あなた、しっかりして、愛しているわ」
「もうすぐお医者さんがくるわ、頑張って、愛しているわ」と愛の連発である。闘うことへの勇気が絶賛される。クリント・イーストウッドの映画はそのなかに解釈を観客に委ねるところがある。
 もうひとつ見ようとなってとりだしたのが韓国映画「悪女」だった。「キル ビル」韓国版といったところだ。
 僕が知るかぎりの韓国映画は、おぞましく、暗く、殺し方も、殺す道具も斧まで使い、えげつない。しかも「恨」という情が絡んでくる。日本はさしずめこんな映画はつくらないと思うが、どうなのだろう。この国は儒教の層の上ににキリスト教が層を作っている社会である。
 大統領への弾劾の様を見ても、財閥の娘の不祥事への弾劾をみてもあまりに凄まじいので、日本とは文化の形成のされかたが違うと思わざるを得ない。どちらが良い悪いではなく、違う、ということだ。
 すっきりしない映画を見て、寝床に入って「日本人の信仰」という島田裕巳の新書を読み始めた。宗教という言葉は明治期に作られた。宗教をキリスト教宣教師のような厳しい信仰心をもたない日本列島人はこんな厳しい宗教については「無宗教」だと思った。宗教にいい加減な日本列島人、というよりはキリスト教と比較しての話である。キリスト教は布教活動が凄まじかった。それは腑に落ちた。
 眠くなったので、そのまま寝入ってしまった。この頃は6時間ほどで眠っていられなくなる。8時間眠ったという記憶がこの一年はない。老化らしい。

台風がくる

2018年08月03日 | 日記
 今日から息子たち家族、3日後には娘家族が重なって来る。台風のようだ。日常のルーティンが崩れる。孫たちと会うのは楽しみでもあるが、くたびれるのも事実だ。
 夏休みは途切れなく客がくる。草は一週間もあれば目につくほど伸びている。バリ島のホテルでガーデンを担当する男が黙々と手入れをしていたのを思い出した。本当は毎日必要なのだ。毎日庭にいるなあと当時は思っているだけだった。
 毎日、掃除、整頓、準備に曽根にいく。前の浜客が本ゴチ、大型のキスを釣ったと喜んでいた。
 九月になったらぼくもやってみようと思っている。

 それにしても、人間は服従してしまうものなんだなあ、とつくづく呆れて思う。一人の男に取り巻きができて、権力となる。おかしいな、と思いながらも声に出せない。ようやく地方幹部たちが立ち上がった。遅いと思う。
 日大も理事会に反省の雰囲気はない。
 LGBT は生産性がないと公言し、謝罪もしない女性議員。子供のいない人は生産性がないと言ってるのと同じだ。二世、三世議員の多さ、権力の集中。良いことは何もない。

 日銀は喘いでいるように見える。政府は日銀との一体化論だから呑気にしているように思える。結局、異次元金融緩和は失敗した。それでどうなっているか。格差の広がりと実質賃金の低下である。ことによると貯金を政府にもっていかれるかもしれない。スーパーインフレになればそうなる。 政治も国民の抵抗力も、日本はまだまだである。

半藤一利の文から

2018年08月02日 | 文学 思想
ガダルカナル島で日本兵は何を見たか(半藤一利「歴史と戦争」より抜粋)

 作者は第二師団経理部所属の吉田嘉七軍曹

「死なないうちに、蠅がたかる。追っても追ってもよってくる。とうとう追い切れなくなる。と、蠅は群れをなして。露出されている皮膚にたかる。顔面は一本の皺もみえないまでに。蠅が真っ黒にたかり、皮膚を噛み、肉をむさぼる。
 その脇を通ると、一時にぷーんと蠅は飛び立つ。飛び立ったあとの、食いあらされた顔の醜さ、恐ろしさ。鼻もなく、眼もない。白くむき出された骨と、ところどころに紫色にくっついている肉塊。それらに固りついて黒くなった血痕。これが忠勇な、天皇陛下の股肱の最後の姿。われわれの戦友の、兄弟の、国家にすべてを捧げきった姿」

 昭和二十年十一月二十八日の山田風太郎(同上 抜粋)

 「解剖実習室に屍体二十余り来る。すべて上野駅頭の餓死者なり。それでもまだ『女』を探して失笑す。一様に硬口蓋見ゆるばかりに口をひらき、穴のごとくくぼみたる眼窩の奥にどろんと白ちゃけたる眼球、腐魚のごとき乾きたる光はなてり。肋骨反り返りて、薄き腹に急坂をなす。手は無理に合掌させたるもののごとく手頸紐にてくくられぬ。指はみ出たる地下足袋、糸の目見ゆるゲートル、ぼろぼろの作業服。悲惨の風景」


 これが戦争の姿である。かっこよく、勇ましく死ぬのではない。マラリア、病気、栄養失調。「しかたのなかった戦争だった」と未だに言う人がいる。

 勇ましく、威勢のいいことを言うものは信用できないとぼくは思っている。尖閣列島のことで勇ましい石原慎太郎や勝谷何某などがいた。彼らは自分が戦争にかり出されるなどとは思っていないのである。
 想像力さえあれば尖閣列島に上陸することの愚かさがわかるはずである。海上保安庁や自衛隊の職員を巻き込んでしまう。外交交渉をするのが政治家、官僚の仕事である。

 日本は西洋に追いつけ追い越せで近代化を図ってきた。江戸時代の平和な文明を壊し、植民地化されるのではないかと恐れ、日露戦争勝利で、精神がおかしくなってしまった。軍部は東北の飢饉を憂い、ロシアの南下を恐れ、緩衝地帯として満州国を作った。情報に疎く、
「負ける」と言えば、「そんな縁起でもないことを言うな」という言霊信仰によって批判は許されなかった。マスコミが煽った。国民も煽り、煽られた。
 日本は強い国。経済大国世界三位などと言っていてはいけない。もう老人だれけの国である。戦争のでき国にしてはもういけない。

 しかし、なんと情けないことか。日本ボクシング連盟のたった一人のボスの言いなりになる大人。多くは教師だというが、一人の権力者に物申せなかった多くの大人たち。彼らは戦後に何を習ったのか。あまりにも情けない。これではまた戦争となっても反対できるものは何人いるのだろうかと疑ってしまう。日大しかり。レスリングしかり。意気地がないもんだ。自分に利すると思えば、人間の感情はそっちに向き、反対するものは排除する。
 戦争はこんなことの積み重ねで起こっていくものである。秘密保護法、共謀罪、安保法制を成立させるという政治的な動きも積み重ねである。こころしてかからなければならない。

超越した存在

2018年08月01日 | 文学 思想
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教。同じ神を実在と信じ一神教の宗教。ぼくはユダヤ教とキリスト教の聖書および関連本を読んでいる、受験の時は世界史を選択したこともあって、奪い合い、殺し合いの歴史は半端ではない。国境が地続きだとこうも侵略、強奪があるものか、凄まじいものだ。人間の欲望とそれを救うべく宗教は一体となって、人々を縛り、自分たちの宗教以外のものは異端とした。
 イスラム原理主義が台頭し、テロを起こす。アメリカではプロテスタントの原理主義「福音派」が選挙に大きな影響力をもつ。彼らはイスラム教を敵とみなしている。 
 ぼくらには超越した神の存在というのは理解を越えることである。
 一神教が続く限り、戦争は地球上からなくならないのではないか、と絶望的な暗澹とした気持ちになる。
 個人個人は優しく、親切で、善良であろうと、教団に属す限りは共同幻想の一員である。この共同幻想には出入り自由で抗議反対自由の扉をつけない限り、集団を個人を犠牲にし、個人と個人が猜疑心の目を向け、サリンまで撒いてしまうこともする。
 鎌倉時代の親鸞は、ここで人を殺せと言われてもできるものではないが、機縁さえあれば100人だって1000人だって殺してしまうこともするよ、と歎異抄の中で述べている。鎌倉時代のこの言葉は表出されただけで、それから800年経った今でも解決されていない。
 新約聖書ができた時代ももう最後の審判の時がくるぞと言って布教していたものの、2000年になろうとしている。
 こう考えると、人間の思いや考えというのはいかに変わらず、いかに救われないかと思ってしまう。アメリカ映画ではバトル映画が繰り返し、製作上映されている。紀元前からの闘いの記憶を呼び起こし、本能に訴えるようだ。
 呆れるばかりの西洋史。宗教にいい加減な日本列島史。どっちがよい歴史を作ってきたかと言えば日本列島だろう。西洋を真似たばかりに昭和の長い戦争となって何百万人と国民が死んだ。