「3・11」の被災現場を初めて訪れたのは、2ヵ月後の2011年5月11日だった。3日間、宮城県の仙台市と気仙沼市を中心に回った。目的は2つあった。一つは「森は海の恋人運動」を進めていた畠山重篤氏に会うため、もう一つは「震災とマスメディア」をテーマにした取材だった。
気仙沼市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。それを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。午後2時46分に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿が今でも忘れられない=写真・上=。
公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がっていた。気仙沼は震災と津波、そして火災に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街だった。数百㌧はあろうトロール漁船が陸に押し上げられていて=写真・下=、津波のすさまじさを目の当たりにした。
入り江の小高い丘にある畠山氏の自宅を訪れると「さきほど東京に向かった」とのこと。行き違いになった。ご家族の方にアポをとっていただき、翌12日午前中に仙台駅から新幹線で東京駅に行き、畠山氏と二男の耕氏と会った。畠山氏が中心となって、カキの養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流で植林活動を20年余り続けていた。森の養分が湾に注ぎ込むことで、カキを育てる運動の先駆者だった。
コーヒーを飲みながら被災後の近況を尋ねると、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられた。津波で母を亡くし、カキ漁場も失った。それでも、森は海の恋人運動を震災復興にどう役立てるかと一途に想う姿には敬服した。75歳の畠山氏は今もカキ養殖のかたわら講演や執筆活動を通じて運動の広がりに熱意を注がれている。
同日午後に仙台に戻り、KHB東日本放送を訪ねた。私のテレビ局時代、よく語り合った記者仲間が同社にいて、震災当時の様子を聞かせてもらった。局内の部屋を案内されると天井からボードが落ちていて、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。東日本大地震では「地元マスメディアも被災者」ということを実感した。
震災直後の報道現場の様子を生々しく語ってくれた。余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。空からの取材をするため、14時49分に契約している航空会社にヘリコプターを要請したがヘリは破損していた。空撮ができなければ被害全体を掌握でききない。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。
同社の社長は社員を集め指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信に専念せよとの指示だった。また、甚大な被害を全国に向けて発信し、中央政府を動かして一刻も早く救援を呼ぶことも当面の方針だった。全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先した。カメラ用の収録用テープの確保を最優先した。持久戦を戦うために、ロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。
避難所や被災家屋周辺での取材で「見世物にするのか」と怒鳴られること多数回あった。耳障りの良い美談、一部の前向きの事象に偏っていないかという厳しい意見もあった。家族が死亡・行方不明の場合、信頼関係が構築できていないと取材を拒まれることも。「3年後、5年後、10年後を視野に入れた長期戦で臨む。被災地に寄り添うメディアでありたと心がけている」と当時語ってくれた。
あれから8年、彼は定年で報道現場を退いた。自ら被災者であり、そして取材者として、かけがえのない人生経験をした友として尊敬している。
⇒11日(月)朝・金沢の天気 あめ