やや古い話になってしまいますが、オリンピック柔道の試合判定に、ゴールデンスコアが採用されて、しみじみ思うことがありました。
ほとんど気力だけで畳のうえに立っている選手の姿を見て、「美しい柔道」を標榜するような考え方を封じてしまうような迫力を感じます。それはスローガンに逃げ込むよりも、よほど健全な姿だと思いました。
「正しい心」が正しい勝利をもたらすといった説教は昔からありましたし、それを嗤うことだけを取り柄にする「現実主義」も同じように古い考え方です。そういったものとは無縁の、人間の「底力」というものを、デカルトについて論じた本(『新しいデカルト』春秋社)のなかで、渡仲幸利は次のように述べています。
ボクシングの選手は(中略)訓練の成果が出し切れたからといって、かならずしも自分の持っているすべてをしぼり出せた試合とは いいきれないらしい。聞く話では、事前の計画も崩され、あれやこれやの技術がもはや役に立たず、いわばすっぱだかで相手と向き合わねばならないときが、来ることがあるそうだ。(中略)もし、そういうときが来るような試合であれば、それは自分のすべてを出し切った戦い、といえるのだろう。
じつは、デカルトが考える姿というのは、そういうものだ。デカルトの「懐疑」を説明しようとして、まるで「懐疑」という衣を着込んだかのようなデカルトをこしらえてしまうのでは、まちがっている。懐疑とは脱ぐことだ。そして最後に「わたし」の底力が立ち現れる。(前掲書)
デカルトは既存の学問のすべてを疑い、自分のからだひとつを頼りに旅に出て、時には傭兵になって戦いながら、考える「わたし」にたどり着きました。その「わたし」とは「目覚めよ」と声を掛け続ける、生きる姿勢のようなものです。
「物」と「精神」とをふたつ並べて、その関係を説くのではなく、渡仲によれば「デカルトは、物の前に立とうとした人であり、物と向き合って自覚的に存在しはじめた精神に帰ろうとした人」でした。
「物と向き合って自覚的に存在しはじめた精神」とは何か。悲しみや嬉しさといった感情や、それらがスローガンの類で操られることが、所詮は「物」を通じて説明できる「物」の関係に過ぎないことを自覚して、そこから抜け出すことを志す力のようなものです。そして、その精神こそが「未来」をつくりだすことができるのです。
精神は自分を感情と混同する。そうやって精神はしばられ、自分を感情のままに細切れにして、変えられない周囲の事物にのまれる。が、精神とはなにか。おそらくそれは、変えられない世界からあたかも分離するようにして生まれ出た、変えられる世界である。いいかえるなら、機械的に自動的にできあがる未来しかもたない世界から身を起こして、ぼくによってつくり出される未来である。(中略)精神というのは、変えられぬ世界からもし身を起こせ、もしそこから身をふりほどく状態があり得たとした場合、その状態をいうための名である。(前掲書)
疲労や痛みや恐れといった「物」を見極め、そこから自らを引き離すような精神の目覚めによって、未来をつくりだす。それが冒頭に述べた「底力」ではないかと思います。
前に触れた歌人笹井宏之にしても、感覚器官から受容したデータを、心のなかであれこれ変換してポンと出てきた「感情」を歌に詠んだのではないのです。そんなものは「機械的に自動的にできあがる」ものでしかありません。そこから身を起こし、身をふりほどいて、未来をつくる力こそが精神の働きであり、笹井宏之の「永遠解く力」だったと思うのです。
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