犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

茶道における「弓構え」

2021-10-11 20:59:50 | 日記

お茶の稽古が再開され、およそ2か月ぶりに師匠の稽古場に向かいました。
柄杓に残ったお湯を釜に戻すときの水音、濃茶を練るときの茶筅と茶碗の擦れ合う音、しだいに立ちのぼるお茶の香り、どれも懐かしく気持ちの引き締まる感覚です。

夏場の点前は、客から炉の熱さを遠ざけるため、客から遠い場所に「風炉」を置きます。これが10月までで、11月には客との間に切ってある「炉」の点前になります。風炉最後の今月の点前は「中置」と言って、畳の上の風炉の位置を客の方に少し寄せます。客の近くに暖を寄せて秋寒を凌いでもらうことと、やがて来る「炉開き」に思いを馳せてもらうという趣向です。
風炉の位置が右側にずれることで、道具全体の配置も変わるので、点前の人と道具との関係も再構築しなければなりません。しかし、道具の位置ばかり気にしていると、腕だけが宙をさまようことになってしまうため、点前の基本姿勢に立ち返ることを心掛けました。

基本姿勢というのは、正座してそのまま大木を抱くような心持ちで両手を前に掲げる姿勢です。
私は高校時代弓道をやっていたのですが、弓に矢をつがえてちょうどこの体勢で上体を固めて息を整えると、不思議と矢の飛ぶ方向がブレません。
茶道の点前でも、この姿勢を崩さないで上体を倒して道具に向かい、道具を取り上げるときには腕ではなく上体ごと起こします。そして、その姿勢を保ったまま再び上体を倒して道具を定位置に戻すと、手だけを動かす動作がなくなります。こうすると点前がきれいに見えるのですが、私はこの姿勢には見映えとは別の意味があるのだと思っています。

茶道の醍醐味は、主客のこころの交わりと同時に、道具と人との同期を経験することだと思います。その同期の感覚をも主客が共有することで、茶道具という物を介した、より深い交流が可能になるのです。
先ほどの基本姿勢は、道具を「操作」の対象ではなく、同期の対象とすることを目的としていると考えています。同期の感覚は自分があたかも道具の延長であり、道具が自分の延長でもあるような感覚です。
点前は湯の沸き具合、その日の湿気、茶入や茶杓に付く茶の粘り気、香りの立ち方などを通して道具に接するうちに、物に沿いながら物に振り回されない心持ちに達します。

弓道で弓矢をつがえて円相を描くように構える「弓構え」も、弓や矢という道具を持っているのではなく、円相のなかで体と道具とが一体になるような感覚を抱きます。その感覚は矢筋の正確さを生み、矢の的中を生み出します。
茶道において、点て終えた一杯の茶を献ずることは、弓道の「離れ」(矢の発射)に当たるのでしょう。茶が客の喉を通り、香りが鼻腔をくすぐって、やがて道具との同期が客と共有されたとき、それは「的中」になるのだと思います。

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