正月の3連休に予定されていた初釜茶会が中止になったので、この土曜日が今年最初のお茶の稽古になりました。
床の間には「平常心是道」(へいじょうしんこれどう)の堂々とした書が掛けられています。コロナ禍に振り回される日常で、平常心を心がけようという、師匠の年頭の呼びかけだと受け取りました。
11月の炉開き以来、久しぶりの着物を着ての稽古なので、袴さばきがうまくいきません。裾を踏んだまま立ち上がろうとして、そのままバランスを崩しそうになったり、まるで下半身が反乱を起こしているような具合でした。
山東京伝は『笑話於臍茶(おかしばなしおへそのちゃ)』という黄表紙で、優遇されやすい上半身に抗議して下半身が反乱を起こす物語を書きました。最後は「臍の翁」(へそのおきな)が下半身を諭し、まるく収めるという荒唐無稽な話なのですが、臍のあたりが体全体の調和を保つ重要な位置なのだという、我々が漠然と抱く感覚をうまく表しているように思います。
そう言えば、臍下丹田を意識しながら呼吸を整えると矢筋が安定するのだと、高校時代の弓道部でずいぶん練習したものです。
能登門前町に總持寺を開いた瑩山禅師は「平常心是道」の意義を問われて、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えたそうです。つまり三昧の境地を指すのでしょうが、雑念を交えずに喫茶三昧の境地に達するのは、そうしようと思ってできることではありません。作為の意図をもって体や心を操作しようとするのではない、もっと別の感覚が必要だとわたしは思っています。
臍下丹田に意識を集中し呼吸を整えると、体全体がひとつの器になった感覚を覚えます。矢を射るにしても、茶を点てるにしても、「自分が」何かを成そうとしているのではなく、自分という器のなかで何かが起こる感覚です。三昧とは、この「器のなかで何かが起こる」感覚に近いものだと思います。
山東京伝の話の、「上半身の優遇」を「自分が何かを成すという感覚」と置き換えて、「臍の翁」による説得を臍下丹田に意識を集中して三昧の世界に入ることと置き換えてみると、荒唐無稽なだけの話ではないように思えてきます。臍の翁が下半身の反乱を抑えて調和を保つというオチは、意外に深淵な思想を示唆しているのかもしれません。