まん延防止等重点措置の実施で、今週からしばらくお茶の稽古もお休みです。
観るともなくテレビを付けていると、地方局の女子アナ3人がそれぞれにとっての「格言」を披露しあうという短いコーナーをやっていました。
そのなかのひとつがこれ。
「恋は液体、愛は固体」
他の2人から「どうしたの、何かあったの?」と突っ込まれていましたが、言った本人はこう説明していました。
恋している間は、受け取る相手の器の大きさに応じて、与えられるものも「たったこれだけ」だったり「こんなに沢山」だったり、液体のように変化する。
なるほど、それでは愛の固体は、と想像を膨らませて、テレビ画面に思わず向き合ってしまいました。
するとフリップに書いた文字が、「個体」と誤記されていたので、皆で大笑いというオチでコーナーが終わってしまいました。
消化不良も甚だしい終わり方です。
残された格言が、とんでもなく深淵なもののようにも思えてきます。
彼女は何を言おうとしたのだろうと考えて、次のような想像をしました。
相手を愛してしまうと、相手のキャパを考えずに、宅急便を送りつける具合に思いの丈を送ろうとする。つまり送る側の都合によって大きさが決められてしまいます。それは際限のない贈与にもなり得るし、相手の都合を顧みない勝手な贈り物にもなり得る。
そんなところでしょうか。違うような気もします。
さて、固体と液体が出てくれば、「気体」も当然、用意してあげなければなりません。
相手のキャパに左右されず、こちらの都合で大きさを決めることができない、気体のようなものとは何でしょう。
千手観音の手がなぜあのように沢山あるのかという問いに対して、「闇の中、後ろ手で枕を探す」と答える禅問答があるのだそうです。南直哉さんの著書『刺さる言葉』(筑摩選書)に載っていました。
観音様の慈悲とは、救うべき人とその苦悩をあらかじめ熟知していて、超能力で片っ端から片付けていくようなものではなく、闇の中で枕を探すような当てのない行動だというのです。他者の苦悩に導かれて、失敗を繰り返しながら、それでもあきらめずに、その手がようやく苦しみを癒すところにたどり着くのです。
「慈悲は気体」
興ざめでしょうか。
それにしても「愛は固体」は何を意味していたのでしょう、気になります。