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犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

完全な幸福ではなく

2022-09-17 09:23:24 | 日記

湯布院から帰ってきた娘たちが、旅の話をしてくれました。
遅くにできた娘たちは、ようやく成人したばかりで、旅の感想がやや子どもじみているのが、逆に嬉しかったりもするのです。娘たちのように、純粋に楽しい思いをしたのは、どのくらい昔だろう、などと思います。

歌人の穂村弘のエッセイには、大人になるにつれ幸せから遠ざかるような、切ない感覚がよく登場します。

子供の頃は、簡単に幸せになれた。
夏休みに海に連れて行って貰ったり、欲しかったおもちゃを買って貰っただけで、「完全な幸福」を感じることができた。
ところが、年をとるにつれて徐々に状況が変わってきた。
健康・家族・お金・恋愛・仕事など、自分を取り巻く要素のどれかひとつにでもネガティブな問題があると、他が大体うまくいっていても、それだけで不安だったり、暗い気持ちになったりする。(穂村弘著『これから泳ぎにいきませんか』河出書房新社)

確かに子供の頃、満ち足りた気持ちになるのは、たやすかったように思います。いまから振り返って、大人たちはずいぶん理不尽なことをしていた、と思ったりもするのですが。世の中のプラス・マイナスの「プラスに対する感受性」が高いと言うか、不自由で、弱くて、受け身な分、幸せでないと、生きて行けないのが子供なのかもしれない、などと思います。
とすると、自由で、強くて、自分勝手に振る舞うことができるようになると、人は幸福から遠くなるのも理屈に合っているのか、とも思います。

不況とか格差社会とか云われながらも、誰もがそれなりに強く明るく暮らしているようで、なんだか騙された気持ちになる。それとも、表面上そうみえるだけなのか。みんなそれぞれの不安や焦りや苦痛を隠して日々を生きているのだろうか。
日常の風景は奇妙な滑らかさに覆われていて、いくら目を凝らしても、ひとりひとりの生の実相を読み取ることができない。かといって、テレビや雑誌を見ると、ますますよくわからなくなる。
みんなの人生の本当のところはどうなんだろう。(前掲書)

穂村弘が言うように、横を向くと皆屈託なさそうに見えるので、やはり自分だけ損をしているような気がしてきます。いつまでも、不自由で、弱くて、受け身なのに、プラスへの感受性だけが衰えてゆくのだと。

前掲書所収の書評の中で、穂村は難病の婚約者と別れた過去を持つ女性について触れています。自分は逃げたんだという思いにさいなまれると言う彼女は、ふとこんなことを口にするのです。

「なぜかシャンプーをしてる時に、いろんなことを思い出すんです」

穂村は、いいことも悪いことも分たずに思い出させる、この「シャンプー」に「分類不能な生の手触り」を感じると言います。難病の婚約者から逃げたとか、逃げなかったとかいう価値判断は一切保留にされて、シャンプーという細部が迫ってきます。想像では決して書けないことだからこそ、手触りを残すのです。そして穂村は次のように述べます。

みんなの人生の本当のところははどうなんだろう、と私は思った。でも、人生における本当などは、どこにもないのかもしれない。強いて云うなら「シャンプー」のようなギリギリの手触りだけが「本当のところ」なのだ。(前掲書)

不自由で、弱くて、受け身な大人でいることも受け入れるなら、プラス・マイナスだけの世界から降りるしかないのでしょう。だとすると、ギリギリの手触りだけを頼りに、そこに錨を下ろすように生きてゆくのが、唯一残された、したたかさへの道なのではないか、などと思います。歌を詠むとは、もともとそういうことなのではなかったでしょうか。
娘たちに「楽しいことばかりではないと思うけれど、したたかであるように」と言う日も、いつかは来るのでしょう。


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