犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

「渋さ」が開く美しさ

2022-09-11 12:24:47 | 日記

志村ふくみの袱紗を、大切なブロ友さんから頂戴しました。本当に有難うございます。

袱紗の一番濃い部分は藍色で、白よりやや色づいているのが黄色です。藍色と黄色とが織り合わさって、緑という生命の色が紡ぎ出される、そのドラマが一枚の袱紗に表現されています。
植物にもっとも多く見られる緑という色は、植物から直接引き出して、糸に染め出すことはできません。太陽の光をいっぱいに浴びて育った苅安から採られる黄色の糸に、甕で発酵させてできる藍を掛け合わせることによって、緑という生命の色が生まれます。
志村ふくみが語る色の不思議のなかで、もっとも神秘に満ちた世界です。

袱紗を飽かず眺めていると、もうひとつ不思議なことに気付きました。苅安で染められた黄色の糸は、陽の光のもとでは鮮やかな黄色を発色するのに、室内のLED光に当てると、白色に同化して黄色が消えてしまうのです。苅安によって再現された陽の光は、陽の光に照らされることよって、はじめておのれの姿を現すのでしょう。(前掲写真も太陽光で写したものに色補正を加えることで、ようやく黄色を引き出したものです)

色は単色では発色しないこともあるし、光の種類によって発色しないこともあります。とりわけ生命の色「緑」と陽の光の色「黄」は、丁寧に条件を整えてあげて、ようやくその姿を表すのです。

志村ふくみの袱紗と一緒に、金城次郎の絵皿も頂いてしまいました。

その魚紋は「笑う魚」とも呼ばれ、なんともユーモラスです。見ていてゆったりとした気持ちにさせられます。

志村ふくみも金城次郎も、柳宗悦の「民藝運動」の影響を強く受けた人たちです。日常使いの道具のなかにこそ美を見出した柳宗悦は『茶道論集』のなかで、茶の本質を「わび、さび」ではなく「渋さ」という民衆の言葉で語っています。「渋さ」とは、無限なるものに自らを開くために、「足らないこと」や「陰り」に自らを置いてみる心を指しています。自らを開くことは、思弁のなかに自らを閉じ込めることとは、逆のことを言います。

柳宗悦は庶民づかいの井戸茶碗をこよなく愛する一方、楽茶碗を「作為」の産物として認めませんでした。志村ふくみの袱紗や金城次郎の絵皿を見ていて、「作為」とは正反対の自然に対する謙虚さ、そして表現にあたっての大胆さを同時に感じるのです。


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