先日、淡交会博多支部の記念式典で、裏千家家元坐忘斎宗匠の講演会を拝聴しました。
そのなかで、三代にわたって千家の月はじめの茶懐石を受け持つ料亭「辻留」のご主人の話が印象に残りました。
家元がまだ成人する前のこと、「ぼんさん(坊ちゃん)なあ、ごっつお(ご馳走)いうのは,一里四方のもので賄ったらよろしいんでっせ」と諭すように教えてくれたといいます。その言葉どおり、月末に届けた献立表の食材が手に入らなかった場合、手を回して、あちこちから取り寄せるのではなく、今ある食材の中で精一杯のものを月初に届けるのだそうです。「一里四方」の哲学を今日に至るまで曲げないのだと。
それが家元の「ないものは使わない」茶の道に通じるのだと語っておられました。今あるものを精一杯に使う、無い道具を無闇に追い求めたりしない、あるいは分を超えて自らを大きく見せようとしない、という意味にも通じるのだそうです。
「三里四方の食によれば病知らず」などと昔は言われていて、半日かけて採って帰って来れるくらいの食材が、ちょうど鮮度も保てるし、安全性の管理もしやすい、という意味にとらえていました。家元の話によれば、それよりもずっと狭い「一里四方」に対象を絞っています。
人間の妄想は放っておくと際限なく拡がって、それを形にしようとすると、素材を遥か彼方に追い求めざるを得なくなります。それは素材そのものの良さを引き出すことよりも、おのれの妄想を大切にすることに繋がります。一里四方とは、そのことを強く戒めた言葉として受け取りました。
志村ふくみの『語りかける花』(人文書院)を読み返していて、ちょうどこれと響き合うような記述を見つけました。ある若い女性が自分の思う通りの色にならない、と言って織ったものを持ってきた時に、その女性に向けて語った言葉です。
色は植物からいただくのです。どんな色になるのか、その年の、よい時期に採れた植物から最も無理なくいい状態で色をいただくのです。(中略)今年は団栗から思いがけずいい茶色をもらいました。自分で色を出そうと思わずに、あなたのまわりの植物から色をもらってください。そうすればその色が大事になりますよ。その色にもう一色かけて殺してしまうようなことは決してできないでしょう。団栗は、輝く栗茶色や鉄色をもっていて、もうそれだけで秋の森の中に入っていた気分です。色からの発想がきっと湧いてきて、一色一色が息をするのがわかるでしょう。(前掲書 88頁)
一里四方にこだわるということは、対象にこだわるといった意味ばかりではないと思います。その対象が今この時期に、色やかたちや輝きを見せている、そうあらしめている一里四方にも思いを馳せるということではないでしょうか。それを仏教では「縁起」とも呼んだのだと思います。