犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

節目を迎える

2022-09-01 07:27:36 | 日記

9月に入ると、一年のとても大きな節目を迎えたように感じます。
この日を境に、終わりかけていた夏は終わりを宣言し、子供たちは長い夏休みが終わってしまう切なさを味わいます。陽は次第に衰えてゆき、自然は休眠に向けて静かな準備を始めます。われわれ人間も、こうやって季節の節目を迎えながら、人生を変えるほどの大きな節目の準備をしているのではないでしょうか。

「竹に上下の節あり」とは、儒教的な礼節を重んじる喩えとして使われますが、「節」を人生の節目と捉えれば別の味わいを持つ言葉です。節目があればこそ、竹はしなやかに伸びることができるし、枝を広げることもできるのです。
季節の節目、人生の節目の時に噛みしめるようにしているのが、玄侑宗久の次の言葉です。

自分にとっての大きな節目。たとえば親の死、自分の入院、大切な人との別れなど。そんな人生上の節目は、成長途上にどうしても必要な試練と思える。そういった節があるからこそ柔軟に曲がれるわけだし、しかもそこからしか枝は生えない。哀しく辛いとき節ができるほどに悩み苦しめばこそ、新しい枝がそこから生えるのではないだろうか。(...)風も、別れも、あるいは自らの病気も誰かとの死別も、全て「希望」と共に受け容れることで佳いご縁になるのではないか。因果律だけでは理解できない突然の出来事も、そうして受け入れる人こそ君子なのであり、そこにこそ涼しい風が吹き渡るのではないだろうか。(『禅語遊心』ちくま文庫 110-111頁)

とうてい受け入れ難いことを全て含めて「希望」と共に受け容れることができるのならば、人生の景色は変わって見えるはずです。不意にやってくるその節目の時のために、人はほんの少し季節を先取りして句や歌を詠み、花を生けて「節目」の訪れを祝福するのではないかと思うのです。

節目についてもうひとつ、私にとって忘れることのできないのが、志村ふくみの言葉です。自らの人生に重ね合わせた言葉には、鬼気迫るものがあります。長くなりますが引用します。

人生には何度かそこを通過せずには先に行けない関門がある。竹の節のようなものだ。苦しいからといってそこを避けては通れない。一節一節のぼることによって、もう下へ落下することはないのだ。自分ではなかなか気付かないが、ただ夢中でそこをかけ抜けるだけである。私もかつて、そんなところを通った経験がある。自らが招いた業火だったかもしれない。両側に火が燃え、後にも火、ただ先へ進むしかない窮地に追い込まれた。両方の翼に一人ずつ子供をかかえて一気にそこをかけ抜けた。遠い昔のことになったが、荒野にぼうぼうと火が燃え、呆然とした印象だけが鮮明に今ものこっている。私はそこで多くのものを捨てた。そこを突き抜けた時、仕事を得た。仕事は私を裏切らなかった。裏切るのは私の怠慢だけであった。(『語りかける花』人文書院 194頁)

子ども二人を抱えてひとり生きていかなければならなくなったとき、柳宗悦の民芸運動から破門同様の扱いを受けたとき、文字通り荒野に火の燃え盛る風景だったに違いありません。
しかしそんな風景さえ、志村は「竹の節のようなもの」と呼んでいます。志村ふくみという、端正で巨大な竹を知るものとして、これほど励みになる言葉はありません。


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