永田和宏著『現代秀歌』(岩波新書)にこんな話が載っています。
大学を卒業したばかりで太平洋戦争の南方戦線に配属された将校は、ポルトガル領チモールで理想社会の建設を夢見ていました。現地の人たちと親しく交流し、島の子供たちには日本語を教えています。王女四人にも慕われるような間柄だったそうです。
やがて敗戦の時が来て、多くの将兵がオーストラリア軍に召喚され、戦犯としての取り調べを受けることになります。捕虜として王宮前に引き出されたこの将校の取り調べにあたって、通訳をしたのがこの将校が日本語を教えた少年だったのだそうです。
その時のことを、この将校はのちにこう詠んでいます。
通訳の少年臆しつつ吾に訊(と)ふ吾が教へたる日本語あはれ
(前田透『漂流の季節』)
皮肉な歴史の巡り合わせで、お互いが不本意な役割を強いられている。「吾が教へたる日本語あはれ」とは紛れもなく悲しい光景です。それでも、戦争のもたらす悲惨さを物語る数々のエピソードとは違って、この歌が気の滅入るものではないのはなぜでしょうか。
少年が臆しながら、かつての先生に接していること、先生もその痛みを我がことのように感じていることが、陰惨な印象から遠ざける理由のひとつとして考えられます。
そして同時に、言葉を教える側と教えられる側の、取り替えの効かない立場の違いが二人の関係の基底にあって、それが言葉を生み出す「ふるさと」のようなものとして、働いていることを思い起こさせるからではないでしょうか。
むろん植民地支配における言語同化政策の罪深さはぬぐいようもありませんが、我々が普通イメージする平板なコミュニケーションの底には、このふるさとの磁場のようなものが伏流していることを、気付かせてくれるように思うのです。
前田は終戦後もしばしこの島にとどまって、帰還したのは翌年になっていたといいます。おそらくこの歌人はこの、ふるさとのようなものから、離れ難かったのではないかと思います。