車に乗ると日差しがあまりにも厳しいので、思わずクーラーのスイッチを入れました。この異常気象で、冬籠りのため身を硬くしていた木々の枝に、花が狂い咲きをするのではと心配になります。
三冬鉄樹満林華(さんとう てつじゅ まんりんのはな)
この時期に、茶室の掛軸に掲げられることのある言葉です。
三冬とは真冬の三か月のことで、六十年に一度「丁卯」の年にしか開花しないという「鉄樹」の樹々に花が咲き誇っている、という不思議な禅語です。人は悟ることによって、あり得ないことがありありと見えるように、世の中が違って見えるということを意味しているのだそうです。
しかし、師走半ばになろうという時にカークーラーを入れるのは、異常気象と、そして私の堪え性のなさのなせるわざで、悟りとは何の関係もありません。
この禅語を引用したのは、実は、異常気象とはまったく別の光景を連想したからです。
伊与原新の小説に科学者の眼で描かれる数々のエピソードは、どれも驚きに満ちていますが、『八月の銀の雪』(新潮社)に描かれる「銀の雪」は息を飲むほど美しいものでした。
地球の中心部にはコアがあって、それは外核と内核という二層に分かれています。外核はドロドロの金属の液体なのに対し、内核は固い塊です。内核は月の三分の二くらいの大きさで、液体の外核に浮かぶもう一つの星とも言えます。熱放射の光を取り除くことができれば、内核は銀色に輝く星なのです。
その金属の星の表面は高さ百メートルもある鉄の木の森で、その森には銀色の雪が降っているかもしれないのだそうです。そうやって外核に漂う鉄の結晶の小さなかけらが、雪のように鉄の森に降り積もり、内核の星はじんわりと大きくなっていきます。
銀色の雪が「鉄樹」に降り積もるのならば、鉄樹の林いっぱいに降り積もった結晶がつくる塊は、花が咲いているようにも見えるのではないでしょうか。まさに禅語に言う「鉄樹満林の華」です。
地球の中心部にコアがあるらしいことは女性科学者インゲ・レーマンによって初めて発表されました。1936年のことで、無名だった彼女の発表は、当初ほとんど黙殺されていたそうです。
彼女のコアの発見を発端に、禅語ではありえないはずの「鉄樹に花が満つる」様子が、我々の足元で営まれている可能性があることが、のちに明らかになります。悟りによってではなく、偏見にもめげず根気よく続けた研究の成果によって、もたらされた知見です。
世界の別の姿を見せてくれる力という意味では、新しい世界が一時的に開示される悟りの力よりも、レーマンの不屈の研究のほうがずっとわれわれに勇気を与えてくれるように思います。