犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

「無事」であること

2023-12-29 07:55:55 | 日記

歳末のこの時期に、茶室では「無事」や「無事是貴人」の掛け軸をよく拝見します。
一年間、無事に過ごせたことを寿ぐという意味合いなのでしょう。私はしかしこの語を、一年を振り返るためではなく、来年に向けてみずからを律する言葉として味わいたいと思います。

禅語で「無事」というとき、日常使われるような、変化のないつつがない様子を指すのではなく、もっと奥深い能動的ですらある解釈をします。一切の作為を離れた自然な心持ちですべてを受け入れる、といったところでしょうか。

気に病んでも仕方がないことをいつまでもクヨクヨ考えていないで、つまり作為をめぐらせることばかり考えないで、起こること全てを虚心に受け入れようとすると「無事の人」になります。そうすると、無事の人は「何事も起きない人」ではなく、むしろ思いがけないことが沢山起こる、大忙しの人なのだと思います。
大切なことを相談するときには忙しい人に尋ねよ、などとよく言いますが、これは単に場数を踏んでいる人ほど、手際よく物事を差配できるという意味ではなく、その人ならではの惹きつける磁力のようなものを発しているからだと、仕事をするうえでも感じることがあります。
これは玄侑宗久の受け売りですが、ハプニング(happening)とハッピー(happy)は同じ語幹の”happ ”を持ち、ハッピネス(happiness)は前触れもなく突然舞い降りるものです。作為によってではなく「無事」の心が、思いがけない幸せを引き寄せるのです。

もうひとつ、玄侑さんの著書『華厳という見方』のなかで、面白かった話があります。
今はほとんど使われなくなった諺に「犬も歩けば棒にあたる」があります。犬が用もないのにふらふら出歩くと、不意に棒で叩かれるような災難に遭うので、無闇に外に出かけないことを諭したものなどと解釈されています。ところが、これが全く違うのだと玄侑さんは次のように言います。

駕籠の前と後を担ぐ駕籠かきは、一本の棒を介して気が合っていないとうまく担げない。二人の体格も合っていないと担ぎにくい。こうした体格も気持ちもぴったり合ったコンビを、昔は「棒組」とか「相棒」と言いました。犬も出歩いていれば、そういう気の合う友達(相棒)ができるかもしれない、出歩かなければその可能性もないのですから、出歩きましょうと言っているわけです。(前掲書 60頁)

外を出歩いていても、そこで出会った人をこちらの思惑どおり動かしてやろうと思うと、その人は相棒にもならず、幸せにも見放されます。しかし、天恵のようにめぐり逢った相棒に対して、そういう気持ちは起こらないはずです。作為の心なく、ふんわりと受け入れるような心持ちにこそ、幸せは訪れるのだと思います。受け入れたくないもの、とりわけ自分自身の老いや家族の病気も含めて受け入れる「無事の人」を、そこで生じるハプニングをも楽しむ心を、来年は目指したいと思います。


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