恐山の住職で知られる禅僧、南直哉さんの最新エッセイ集『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)を読みました。
最近、ブラタモリ恐山の回に出演されているのを拝見しましたが、著書を読むのは、小林秀雄賞を受賞した『超越と実存』以来、久しぶりのように思います。
南直哉さんは、生まれ年は一年早くはあるものの、私が早生まれで同学年ということもあり、南さんが描く子ども時代の風景は、そのまま自分の子ども時代につながります。そのうえ南さんが繰り返し書かれる、子ども時代の死に対するこだわりも、青年期の生きづらさの煩悶も、自分の経験と重なることが多く、ついつい感情移入して著作を読んでしまうのです。
今回の著作のなかでは、南さんの父親について触れていたのが、とても印象に残りました。大正・昭和初期生まれの、あまり家庭を顧みない、いわゆる厳父に育てられた最後の世代だろうと思います。
教員でありながら、家庭では一切勉強の手助けをしなかった南さんの父親が、ある日このように言ったのだそうです。やや前後関係を調整して引用します。
「オマエな、他人が『オレはうまくいった、得をした、褒められた』というような話を聞かされて、面白いか? そんなわけないだろ? いいか、他人が面白い話は、オマエが失敗した、損をした、怒られた、酷い目にあったという話だ。だから、そういう経験を大事にしろ。ただし…
ただの苦労話は自慢話と同じだ。聞いて面白いと思うヤツは誰もいない。頼まれない限り、するな。どうしてもしなければいけない時には、全部笑い話にしろ」(前掲書143-144頁)
失敗した経験は、必ずそこに教訓があり、人に話す価値がある。身に染みる失敗の切なさは、実感の最たるものだ。けれども、その切なさを笑い話に変えるには、相応の教養が必要なのだと、南さんは述べます。失敗をも笑えるようになるには、その失敗を全く違う観点からとらえ直さねばならず、それを支えるのが教養なのだと言うのです。
本書のなかで、もうひとつ心に残ったのは「正直さ」と「孤独」という言葉です。これについても長くなりますが引用します。
私にいわせれば、「コミュ力」など要らない。というより、そんなものは幻想である。必要なのは、「この人ならば話してみよう」「この人の話ならば聞いてみよう」と相手に思わせるような、ある種の正直さである、意思疎通の土台には信頼がある。そのまた土台が正直さなのだ。
正直さは能力ではない。人間の失敗と、その失敗の反省の深さから生まれる態度である。
つまり、それは孤独から生まれる。孤独を知らない者は、正直にはなれない。(前掲書73頁)
失敗の切なさを、人に伝えることで「信頼」は生まれますが、人に伝えるためには「教養」という下地が必要です。そして深い反省で失敗をとらえ直す「正直」さこそが「教養」の母であり、それを支えるのが「孤独」という父なのだと、南さんの言葉を理解しました。
厳父というものの存在が有難いと思えるのは、ある種の覚悟によって、今まで見えなかった世界の見方を獲得できることを、身をもって示してくれることではないかと思います。南さんの父親の言葉に触れてそう感じました。