『論語』の「学而」にある孔子の言葉であるが、書き下しが分かれている。
「朋有り遠方より来たる」は、『漢文大系 第一巻』によるもので、教育出版の教科書が採用している。
「朋遠方より来たる有り」は、『新釈漢文大系 1』によるもので、光村図書の教科書が採用している。
学年の違いはあるが、共に中学の国語の教科書である。
このように読み下しの分かれるところはほかの漢文にもあり、高校・大学あたりで「ここはどのように習いましたか?」と聞かれることもあるのだろう。
今朝、ふとこの「学而」の言葉を思い出したのは、昨日中学の同窓生から電話があったからである。
中学のころに付き合いがあったわけでもなく、卒業後も接触は全くなかった。
なのに、急に電話があった。
ある中国の人は、この学而篇の言葉について次のように言った。
わざわざ遠くから訪ねてくるには中国人だったら何か頼みごとがあってのことに違いない。
何もないのにわざわざ訪ねるわけがない。
中国人に限らず、日本人だってそうである。
何十年ぶりにわざわざ電話をしてくるには頼みごとがあってのことであった。
新しい総理が誕生し、政局は動いている・・・
と言う状況に絡んでの依頼である。
折悪しく調べ物をしていた私の思考は分断され、元に戻るのに数時間を要してしまった。
「亦楽しからずや」とはとても思えない状況であった。

「朋有り遠方より来たる」は、『漢文大系 第一巻』によるもので、教育出版の教科書が採用している。
「朋遠方より来たる有り」は、『新釈漢文大系 1』によるもので、光村図書の教科書が採用している。
学年の違いはあるが、共に中学の国語の教科書である。
このように読み下しの分かれるところはほかの漢文にもあり、高校・大学あたりで「ここはどのように習いましたか?」と聞かれることもあるのだろう。
今朝、ふとこの「学而」の言葉を思い出したのは、昨日中学の同窓生から電話があったからである。
中学のころに付き合いがあったわけでもなく、卒業後も接触は全くなかった。
なのに、急に電話があった。
ある中国の人は、この学而篇の言葉について次のように言った。
わざわざ遠くから訪ねてくるには中国人だったら何か頼みごとがあってのことに違いない。
何もないのにわざわざ訪ねるわけがない。

中国人に限らず、日本人だってそうである。
何十年ぶりにわざわざ電話をしてくるには頼みごとがあってのことであった。

新しい総理が誕生し、政局は動いている・・・
と言う状況に絡んでの依頼である。
折悪しく調べ物をしていた私の思考は分断され、元に戻るのに数時間を要してしまった。

「亦楽しからずや」とはとても思えない状況であった。

