若人にも、年よりにも、幼い子にも、受難続きの昨今。
タケノコ採りにでかけた78歳の男性が、20ぶりに、無事救助されたそうな。
チョコレートやおにぎりで、しのいでいたらしい。
農業をしているらしいが、落ち着いて、自分の体力を過信せず、地道に、救助を
待っていたのが、よかったのだろう。
短い命も、長生きの命も、そもそも運命なおだと、思っているが、無事、助けられた報は、
他人事ながら、嬉しい。
毎日のように、「こどもに支援を」「一日ペットボトル一本分で救える命」という広告を目にするが、
矛先が違うという気がしている。
戦後の、貧しい時代。
窯に、募金を集めて、より貧しい人たちへの支援をという動きが起こって、少し、お金にゆとりがある者が
なけなしの中から寄付をした。
その寄付金が、たくさんの命を救った。
戦後、日本が復興を遂げ、貧しい者は、一部になった。
けれども、バブルがはじけ、ボーダーライン層が増え、一部の富裕層以外は軒並み、苦しい層になった。
それでも、寄付とか、善意という言葉に、動く日本人は、多く。
善意の輪がなくなることなく、続いている。
金の使い道を、的確に動かしていけば、こんなことにはならないだろうと、いつも思う。
落とす場所が不適切だから、一方には、ばら撒かれ必要なところのは、削られ。
経済的に貧しい国民が増えている。
それなのに、その貧しい国民から、さらに金を落とさせようとしている、やり方に、協力する気持ちには
芽生えない。
阪神大震災の頃は、他人事でないと、せっせとなけなしの小銭を寄付してきた。
最近まで、日々の暮らしさえ、、爪に灯を灯す状態だったので、食費を削るしか、やって行けなかった。
一回の食費が100円を目安にしていて、一日、100円や150円の寄付はできない。
なので、目をつぶってきた。
赤字分は、カードでの先取り。
毎日、借金。給料をもらった1週間くらいで、すぐ、借金生活。
そんな状況で、寄付なんかできないと思っていた。
ここの所、少し収入が増え、謝金の日数が少し減った。
そんな中で、最近考える。
命の長さは抗えないが、寄付や善意だけに頼る施策は、止めて欲しいと。
生活保護もここの所、伸びているそうだが、「生保」を受けるのは、恥とか、そこまで落ちたくないとか
けなげな人が多いことが、結局、善意に頼っている施策しか発展(?)しないことに何かしら、影響を
与えているのかもしれないと思う。