腰痛克服の一環として年明け1月中旬から趣味であった散歩を再開した。以前は週末散歩であったが、久々再開の散歩は天気が良ければ2日連続3日連続でもやっている。歩いて体を元気にする算段だが、森の風、海の風に吹かれることも元気の元になる。
ところが、このところ天気が悪く、2月に入って昨日まで1時間以上の散歩ができたのは5日間しかない。先週木曜日(14日)に浦添大公園を1時間半ほど歩いて以降、昨日21日まで買い物で10~30分歩く以外は歩いていない。散歩せずほとんど家にいる。家にいてブログの記事書きやら薬草の勉強やら写真整理などをしている。特にこの1週間は写真整理を主にやっている。パソコンに溜まっている植物動物写真の取捨選択。
散歩をしないと体の調子が良くない。それに加え、パソコン作業を長くやると体の調子が悪くなる。目が痛くなる、首・肩が痛くなる、頭痛もしてくる。
などという、私の体の調子はこの頁の話にあまり関係ないので置いといて、
家にいる時、私はほとんどラジオを点けっ放しにし、聞くとは無しに聞いている。それでも時には「おっ」と思い、しばしパソコンの手を休めラジオに耳を傾けることもある。最近(ここ数ヶ月)では「異才発掘プロジェクト」、「発達障害」、「伊是名夏子」などに興味を持った。・・・これもこの頁の話にはあまり関係ないので置いといて、
さて、このところ国会中継もたまに聴いている。聴いて文句言っている。昨日は「大臣が3分遅刻したくらいで審議拒否すんなよ」と、よく遅刻するウチナーンチュの私はブツブツ呟いた。その前に、私はけして短気な方ではないと思うのだが、質問に対する大臣等の答えにイライラしていた。例えば、「これはAということですか?」と訊く野党の議員に、「そうですねぇ・・・、Bということではないですね」というような答え方をする。質問に答えていない。議会が紛糾する。話が前に進まない。無駄に時間を潰している。
「これはAということですか?」
「そういうことです。」
「であれば、こういうところに不備があると思いますが、いかが?」
「あー、そうかもしれません。事務方と相談し、後日報告します。」
などという議論を経て、1つの法案が国民にとってより良い法案となる。そのための国会であり、そのための議員なのだと私は思っていた。・・・と、ここで気付いた。
「国民にとってより良い法案」というのが私の勘違いであった。国民のための政治を基本姿勢としている政党であれば「国民にとってより良い法案」を目指すであろうが、「国にとって良い法案」を目指す政府にとっては必ずしもそうとはならないみたいである。
他所の国の国会審議はどうなんだろう、少なくとも日本の国会審議は、少なくとも私は聞いていてイライラする。話がなかなか前に進まないのでイライラするのだが、与党議員が質問者である場合も、時に私はムカッとしている。疑問を問う、不備を問うのでなければ、ヨイショ質問だけなら質問に立つな、時間の無駄、その時間を野党に譲れ、疑問に答え、不備を確認したら修正に応じ、国会議員全員で「国民にとってより良い社会」作りに努力してチョーダイと、数日間国会中継を聴いて得た私の感想。ウヌゲーサビラ。
記:2019.2.21 島乃ガジ丸
日本国からすると「国を守るために必要、他府県で受け入れるところは無いので沖縄に押し付けたい」、沖縄県民からすると「沖縄にこれ以上の基地強化は止めてくれ」と意見対立している辺野古の新基地問題。その是非を問う県民投票が近く実施される予定。
県民のほとんどが新基地建設反対であれば国も少しは考えてくれるのではないかと、あるいは、国際的な人権団体などが注目してくれるのではないかと知事と知事のブレーンたちは考えているのかもしれないが、しかし、県民投票に反対する首長のいる自治体がいくつか(一昨日もうるま市が協力しないとなった)あり、一部の県民が投票に参加できないことになるとラジオのニュースから聞いた。県民投票に反対する首長側の反対理由の1つは選択肢が「反対、賛成」の2つしかないということ。ただ反対だと普天間基地の固定化に繋がりかねない、普天間基地撤去のためには「やむを得ない」という選択肢、あるいは「分からない」という選択肢があってもいいじゃないかとのこと。
県知事側のどこに頑固者がいるかしれないが、何故2者択一に固執しているのか私には疑問。先方の望み通り選択肢を3つ4つにしても良かろうと思う。「何が何でも反対」にしなければならない理由は何なのか?たとえ三択にして3つめを「どちらとも言えない」にしたとしても、それでもおそらく新基地建設反対は過半数を超えると私は思う。
もう1つ疑問がある。いや、その前に誤解が無いよう言っておくが、私は辺野古に新基地を作ることについてはずーっと反対の立場である。その上での疑問。
県民投票の設問は「辺野古米軍基地建設のための埋立てについて賛成か反対か」のようである。この設問の中で「のための埋立て」は不要だと私は思う。埋立と基地建設は別個の事。埋立てという言葉を入れたことがもし、きれいな海が好きな人、自然保護に熱心な人を取り込もうとしている手段なのであれば、あまり気持ちいいものではない。
デニー知事にはもっと自信を持ってもらいたい。自然保護を棚に上げて新基地建設の是非だけ問うてもきっと大丈夫。選択肢に「どちらとも言えない」を加えてもきっと大丈夫だと私は思う、そう期待している。そして、不利な条件が多少あったとしても堂々と真っすぐな態度で前へ向かっていく。その方が多くのウチナーンチュの心を捉えるはず。県民投票の結果がどうであれウチナーンチュの多くが知事を支えるはず。
隣近所の国々とのちょっとした諍いを大げさにして、ケンカして、この先大丈夫か?と不安になるような今の日本。北朝鮮とは噛み合わないかもしれないが、韓国、中国、ロシアとはこれまで何とか上手くやってきたではないか、何かあったとしても大げんかになる前に上手く収めてきたではないか、何故、今ギクシャクしているのか。
さらに、「何ていう国なんだ日本って」とフランスからも思われているようである。韓国と仲違いし、中国、ロシアとも仲が悪くなる。隣近所から嫌われてしまう。隣近所からどうでもいい国と思われてしまう。「遠くの親戚より近くの友」という諺があるが、近くに友がいなくなる。何かあった時、遠くの友に助けを求めようと思った時、日本が友と思っているアメリカは後ろ盾となってくれるだろうか?・・・アメリカのリーダーが今のままならそれは怪しい。今のアメリカは不安定な後ろ盾だ、見捨てられるぞ日本。
その点、デニー知事を支える後ろ盾は大丈夫、ウチナーンチュには情けがある。
記:2019.1.16 島乃ガジ丸
過日、私が使っているブログサーバーのページを開いたらそこに「コスパの良い神コスメ」という1文が現れた。その文に興味を持ったわけでは無い、何の意味か全く不明だったので「何じゃ?」と思って目が行った。「コスパって何?地名か?コスパという場所に良い神様がいて、その名前がコスメっていうことか?」とまで考えて、すぐに、「違う違う、コスパはコストパフォーマンスの略だろう。安上がりに済む神様だ、お賽銭が100円でも願いを叶えてくれる神様で、その名はコスメ」とまで考えて、またすぐに、
「違う違う、コスメってあれだ、コスメティックだ、化粧とかっていう意味だ・・・なら、神コスメって何だ?」とまで考えて、「あれか?神ってちょっと前の鬼とかヤバイとかチョーとかと同じような意味かも」と考えが至る。たぶん、当っている。
このようにテレビ観ない、新聞や週刊誌の類も読まないオジサンは新しい言葉に疎く、時代についていけていない。「時代についていけていないなぁ」と思いつつも、しかし本心は「そんなのどーでもいいや」と思っている。上述のように「これ、どういう意味」などと考えることも滅多にない。だいたいが、今の流行り自体をほとんど知らない。
インターネットを開くと先ずホームサイトなるもののページが現れ、そこにあれこれの情報、広告、ニュースなどが映し出される。芸能やスポーツのニュースの概ねに私は興味は無いのだが、画面にはそういう類が多く出てくるのでいつも煩いと思っていた。芸能ニュースを見て読んだのは、最近では安室奈美恵の引退の時の1つ2つくらい。
そんな時代遅れのオジサンでもしかし、日本社会の今、将来、政治の動きなどには興味を持っていて、政治のニュース(ゴシップは除く)についてはよく読んでいる。最近気になったニュースは「水道法改正」、「入管法改正」、「韓国の徴用工判決」など。
「水道法改正」については、人が生きる上で水は無くてはならないもの。少なくともそれは公共で管理してもらいたい。貧乏人の私は美味いものが食えなくてもいい、人生の楽しみの筆頭にある酒がなくても何とか我慢できる。電気も大事、ガスも大事だが、それらが無かったとしても何とか生きる術は探せる。でも、水は無くてはならない。公園の水道を使う手もあるが、それも自由に使えない、飲み水には不向きとなったらお手上げ。水道料金が、「貧乏人は風呂に入れない」ほどの値上げとなっても大いに困る。
「入管法改正」については、ラジオの国会中継(たまにだが聴いている)を数回聴いた限りの私の感想では、賃金の安い労働力を手かせ足かせの法で縛って外国から呼び寄せ、日本国のために働かせてやろうという法律のような気がする。
「韓国の徴用工判決」については、「何で他所の国の司法判断にいちゃもん付けるんだろう」というのが最初の感想。「三権分立だろう、司法の判断は尊重すべき」と思う。それで日本に不利益が出るなら、その不利益は日本国に「解決済み」と約束した韓国の国の責任、韓国の政府が日本の不利益を肩代わりすべきと私は思った。
まあ、私みたいな暢気者の考えることなので浅はかな考えなのかもしれないが、韓国だけではない他国とのギクシャク、他所で起きている他国と他国とのギクシャクが増えているのではないかと、最近のネットニュースを見ていて感じている。少し不安。
記:2018.12.13 島乃ガジ丸
御近所同士でいがみ合ったりケンカしたりしたという経験が私には無い。私の両親も祖父母も近所付き合いは良好であった。父母や祖父母が近所の誰かと言い争いなどしているのを私は見たこと聞いたことがない。諍いの種はあったかもしれない。ただ、何かあったとしても互いに丸く収める努力をしていたのだと、今から思えば思う。
「御近所同士でいがみ合ったりケンカしたりしたという経験が私には無い」のは、近所の誰かに嫌な思いをさせられたという経験が無かったからなのかもしれない。しかし、言いたい放題、好き勝手に生きてきた私なので、隣近所の誰かに嫌な思いをさせたことはあったかもしれない。自分自身ではそれに気付いていないかも、と今から思えば思う。
相手に嫌な思いをさせないのが第一だが、そうするつもりはなくてたまたまそうなってしまった場合は誠意をもって謝る。そうやって互いに信頼関係を築いていけば、多少のことは「お互いさま」ということで、争いの種は芽が出ることなく消えていくはず。
ところが、最初から互いに利害がぶつかって、その上、互いに信頼関係は無いということであれば、何かちょっとしたムッとするきっかけがあると喧嘩となる。隣同士だからこそ嫌な部分が目に付くなんていうこともあるだろう。嫌な奴だと普段思っていたら、ちょっとしたこと、例えばテレビの音が煩いというだけで喧嘩になるかもしれない。
近い関係だからケンカするというのは夫婦喧嘩、親子喧嘩、兄弟喧嘩、嫁姑のいがみ合いなどをテレビドラマなどでよく目にしていたし、私も家を出るまでは親子喧嘩は時々やっていた。毎日一緒にいるから互いの感性の合わない部分でぶつかり合うし、近い関係だからこそ互いに遠慮無く感情をぶつけ合って喧嘩になる、のだと思われる。
私は喧嘩が嫌いである、言い争うことも嫌いである。なので、家を出て1人暮らしをするようになってからは親と喧嘩することはなかった。実家へ行って親と話をして嫌なムードになったら「もう帰るよ」と言って終わっていた。今から思えば「関わることを避けていたんだなぁ、淋しい思いをさせたかなぁ」と反省する。「言い争うことが嫌い」なのは単に面倒臭いだけのこと。人のために心を使うのをケチっているだけのこと。
かように、喧嘩も悪いことばかりでは無いと、今から思えば思う。喧嘩することで互いに理解を深め、人としての関わりを深めるのかもしれない。互いに理解を深め、関わりを深めれば、多少のいざこざは「この程度はいいじゃないか、お互いさま」となるのかもしれない。その逆に、互いに理解が無ければちょっとしたことでも大喧嘩に発展するのかもしれない。大喧嘩は暴力になるかもしれない。それが国同士だとどうなる?
国同士の暴力だと、それは戦争ということになる。それは「オシマイ」、やってはいけないこと。なので、暴力の喧嘩になる前に口喧嘩で解決しなければならない。相手を侮蔑するようなことを言うと後に禍根を残すので、そこは互いに大人の対応をし、多少の我慢をし、多少の譲歩をし、そしてその後、多くの平和を得ることができたらいい。
周りは敵ばかり、いつ襲われるか分からないと思えば武器は必要、時には好まぬ戦争もしなきゃならないかもしれない。しかし、周りは信頼できる友人ばかりであれば、武器も不要。戦争の心配もない。隣近所の国々とそんな関係になれたらいいなぁと望む。
記:2018.11.9 島乃ガジ丸
台風24号が急に向きを変え沖縄島へ向かい、沖縄島は明日から暴風とのこと。明後日は沖縄県知事選、及び宜野湾市長選の投票日、で、今日これから期日前投票に行く予定。去った9月9日は宜野湾市議員選挙の投票日であった。なわけで、9月の初めから選挙宣伝カーが家の周りを回っていて、今日も回っている。9月は選挙の月となっている。
若い頃、選挙宣伝カーは煩いと思っていた私だが、齢取って寛容の心も供えるようになって、その煩さも少しは許せるようになったのだが、それでも「少しは」だ。選挙宣伝カーが煩いことに変わりは無い。セミの声は煩いと思わなくなったんだけど・・・。
選挙カーが煩いのは何故か?・・・セミの声は音でしかないが、拡声器から出て来るウグイス嬢の声は言葉だからだ。セミの声は耳に入ってくるだけなので特に何か考えるということは無いのだが、言葉は「何言っているんだろう」と脳が動いてしまう。脳が動いてしばし聴いてしまう。聴いて、概ねはガッカリして「煩せーよ」と思う。
選挙宣伝カーのウグイス嬢によるアナウンスが、それは必要だろうと言う人も多いかもしれないが私は無くて良いと思う。特に、名前ばかりを連呼するアナウンスは煩い。「私の名前は○○です」だけでは、「お前の名前が○○だからって、それが何だというんだ」と私は思ってしまう。いや、もちろん名前を言うのは大事なこと、主語がなければ誰が何をどう考えているかということの、最も大事な箇所である「誰が」が抜けてしまう。
ただ、私としては、「私の名前は○○です」の後に「私は○○問題についてこう思います」といったことを、あれこれの問題について語ってくれれば「ほう、この人はこういう考え方の人だな」と思考ができ、アナウンスを聞いている時間も無駄にならない。
選挙宣伝カーの中には、ちゃんと所属政党名を言い、「私は○○問題についてこう思います」と言って自身の立場を明確にしているものもあるが、多くは、ほとんど候補者の名前ばかりを連呼し、その合間に「一所懸命がんばります」やら「誠意を持って市民のために尽くします」やらの抽象的なことを言うだけ。選挙カーのアナウンスには全政党共通のマニュアルでもあるのか、と思うくらい似たようなセリフ回しとなっている。
名前の連呼が有権者の投票行動にどんな影響を与えるのだろうか?投票所へ行って投票用紙を貰って、鉛筆を手にし候補者の名前を記入する時、最も多く耳にした名前が浮かんでくるとでもいうのだろうか?サブリミナル効果ということか?
相手候補を誹謗中傷した怪文書のようなビラが郵便受けに入っている。陰口みたいなもので気持ち悪い。「堂々とせんかっ!」と思う。例えば、選挙宣伝カー同士が近くで顔を合わせる。その時、お互いにエールを送って静かにその場を去るのが一般的なのか知らないが、その時その場で討論しても良いじゃないかと私は思う。お互いの意見を闘わせる、それが政治の本筋だと思う。聴衆がそれを聴いてどちらが良いか判断できる。
バッタリ出くわして討論になり、その時、互いに罵り合う程度は構わないと思う。その程度は選挙という闘いの場で許される範囲内だと思う。陰でコソコソ怪文書を配っているよりはずっと増し。根拠のないデマを振れ回ることを武器としているのなら、陰口を叩くことが闘いなんて思っているようなら、沖縄の政治家は下品で無能であると言っているようなもの。政治家が凛とした姿勢でいれば、政治は信頼され市民もついていくはず。
記:2018.9.28 島乃ガジ丸