会社勤めをしてからは仕事関連、パソコン関連の本を読むことが増え、15年ほど前に沖縄の植物動物を紹介しようとホームページを始めてからはそれらに関する書籍や図鑑を開くことが主となって、文芸作品の読書は、はっきり覚えてはいないが、おそらくここ20年ほど無い。20年程前に何を読んだかも覚えていない。だいぶ前に断捨離で書籍類はほとんど処分したので確かめようもない。
過日、友人のKYに「持っているけど、読む?」とメールがあって、そのタイトルを聞いて、その評判は前から聞いていて、沖縄が舞台であることも知っていたので「読む」と即答し、3月22日に借りて、その数日後から読み始める。久々の読書。
読み始めてから3週間近く経った4月14日にやっと読み終えた。時間がかかったのは読書になれていないからというわけではなく、長時間読書に私の目、首、肩が耐えきれなくて読書時間が1日1~2時間だったのと、本が分厚かったという理由。
分厚かった本、その内容に退屈してページを捲る手が鈍っていたということもまったく無い。主人公(4人いるがその内1人は早々に行方不明となり残る3人)たちの変化が興味を引く。「次どうなる?」と興味が沸き次のページ、次のページへとなる。
涙腺の緩んだオジー(私)はまた、読んでいる時、数か所で目頭が熱くなる。悲しい女たち、悲しい子供たちが映像として浮かんできてウルウルする。1971年、ニクソンと佐藤による沖縄返還協定調印のことも作品に書かれているが、沖縄県民が望んだ「核抜き・本土並み」は全く裏切られ、本土復帰運動に希望を持って熱心に闘って来た人々にとっては祖国と思っていた日本国に裏切られたという思いで、絶望さえ感じたかもしれない。
1969年の日米首脳会談で沖縄返還は決まったようだが、1971年に沖縄返還協定調印があり、1972年5月15日に沖縄は日本国となる。その間、
1969年 毒ガス漏洩事件
1970年 糸満轢殺事件
1970年 コザ暴動
1971年 毒ガス(主要成分はサリンやVXガス)島外撤去
などという出来事が沖縄で起こっていた。それらのことは本書『宝島』でも描かれ、物語全体の流れの中で重要なトピックとなっている。
その頃私は中学から高校にかけての頃で、女のおっぱいが何よりの関心事であったというまだまだガキの頃、「祖国復帰」がどういう意味を持つのかしっかりとは認識していなかったと覚えている。デモにも参加したことなく、日の丸を掲げた覚えもない。私にとって復帰は「ドルから円になる」といった程度のお祭り気分だったと思う。
私より上の世代、『宝島』の主人公の1人である「やまこ」のように復帰運動を熱心に闘ったきた人々にとって希求の本土復帰、希望の本土復帰であったはずなのに、不沈空母の役割を押し付けられたままの復帰となり、日本国に裏切られた、騙された、見捨てられたなどという想いが、おっぱいが何よりの関心事であったガキであった私にも伝わる。
中には、「日本にとって俺たちは、遠い南の島の土人ということか?どうでもいい奴らということか?」と思った人もいたであろう。そんな悔しさが私にも伝わった。
記:2019.4.25 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
3週前『漫画虫』、先週は『懐かしの漫画青春』と漫画の話が続いたが、漫画だけでは無くアニメも私はよく観ていた。子供の頃夢中になったものを挙げれば『鉄腕アトム』、『エイトマン』、『ゲゲゲの鬼太郎』、『巨人の星』、『あしたのジョー』などがある。アメリカ産の『ポパイ』や『トムとジャリー』も大好きだった。大人になってからもアニメは観ている。『サザエさん』、『アラレちゃん』、『クレヨンしんちゃん』、『ドラゴンボール』など。中でも『ドラゴンボールZ』は、べジータのシリーズまでは夢中になって観ていたといっていい。映画でも宮崎駿監督作品はその多くを観ている。
大好きだったアニメも、『クレヨンしんちゃん』、『ドラゴンボールZ』(べジータのシリーズまで)以降のテレビアニメは、テレビを観る時間がそもそも減ったということもあって、観なくなった。映画アニメは『千と千尋』が最後。
先週の『懐かしの青春漫画』で記した私の漫画履歴でも、よく読んでいたいしいひさいちややまだ紫、その他も含め、それらは1990年代の作品だ。2001年公開の『千と千尋』以降、私は漫画からもアニメからも遠ざかっている。
過日、友人から送られてくるメルマガに星新一、筒井康隆の名前があったので思い出した。私も若い頃は小説も多く読んでいた。純文学からSFまであれこれ読んでいた。
思い出すままに作品、または作家の名前を連ねると、子供の頃は「シャーロックホームズ」、「怪盗ルパン」、「怪人二十面相」など、高校生になってからの青年期になると星新一、筒井康隆の他、安倍公房、小松左京、平井和正、北杜夫、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、三浦朱門、阿川弘之、瀬戸内晴美、三浦綾子、有吉佐和子などの作品をよく読んでいた。あー懐かしや我が青春。もう40年ほども前の話だ。
その頃は月に数冊は本を読んでいたと思う。文芸書は、30歳過ぎてからは年に1冊読むかどうかとなり、40歳過ぎてからはほとんど読まなくなった。読むのは仕事関連の参考書、パソコン関連の参考書がほとんどとなる。このガジ丸HPを始めるようになってからは動物図鑑、植物図鑑、百科事典などが私の愛読書となっている。
さて、「2001年公開の『千と千尋』以降、私は漫画からもアニメからも遠ざかっている」と上述したが、漫画を全く読まない、アニメを全く観ないというわけではない。時々通っている宜野湾市民図書館には漫画本もアニメDVDもあり、ここ数年間で2~3冊の漫画本を借りて読み、数本のアニメDVDを借りて観ている。
漫画本は沖縄関連の漫画、アニメDVDは沖縄関連の他、『千と千尋』以降のスタジオジブリ作品をいくつか観ている。そうやって読んだり観たりしているが、漫画もアニメももう夢中にはなれない。アニメだけではなく邦画、洋画など古いものから新しいものまで時々借りて観ているが、いずれも以前のように夢中になれるものはごく少なくなった。精神の老いということだろうか、淋しい気もするがしょうがない。
いやいや、実を言うと、淋しい気はちっともしていない。漫画を読まないアニメを観ないからといって私はちっとも退屈していない。漫画やアニメより面白いものが畑には多くいる。畑には今そこに生きているものが多くいて、様々な姿を見せ、様々な動きを見せてくれている。それらを見て、妄想するだけで、私に退屈する時間は少しも無い。
記:2016.6.24 島乃ガジ丸
子供の頃マンガオー(漫画王:漫画虫という意)であった私は、青年期になっても、オジサンと呼ばれる歳になっても漫画を買って読んでいた。
学生の頃は青年漫画雑誌と呼ばれる「アクション」や「ビッグコミック」、「ビッグコミックオリジナル」などの週刊誌を購入し、『じゃりんこチエ』やら『ゴルゴ13』などを好んで読み、また、月刊誌の「ガロ」もよく読んでいた。
どの雑誌に掲載されていたかは記憶が定かでないが、大友克洋の『AKIRA』、いしいひさいちの『タブチくん』、白土三平の『カムイ外伝』などを好み、作品はどれでも構わずいしいひさいち、大友克洋は大好きで、彼らの単行本を買い揃えていた。
今は無いのだが私の部屋の本棚には漫画本がいっぱいあった。10年ほど前に私の漫画蔵書を調べ記録している。それによると、私の蔵書で多い作家から順に記すと、
1、いしいひさいち 『問題外論』など67冊
2、手塚治虫 『火の鳥』など29冊
3、ますむらひろし 『アタゴオル玉手箱』など23冊
4、大友克洋 『AKIRA』など19冊
4、白土三平 『カムイ外伝』のみ19冊
6、魚戸おさむ 『家裁の人』のみ12冊
6、東海林さだお 『ショージ君全集』など12冊
8、山本おさむ 『はるかなる甲子園』のみ10冊
8、やまだ紫 『やまだ紫作品集』など10冊
10、谷岡ヤスジ 『アギャギャーマン』など9冊
以上がベストテン。その他、黒鉄ヒロシ、吾妻ひでお、古谷三敏、杉浦日向子、近藤ようこ、安西水丸、原律子、高信太郎などが複数冊あり、好んで読んでいた。
前回の『漫画虫』で「私は大きな目にキラキラと星が輝いているのが苦手で、少女漫画はほとんど読まなかった」と書いたが、女流作家が嫌いと言う訳では無い。女流作家が少女漫画家であるとは限らないのだ、文学的漫画家も数多くいる。上に挙げたやまだ紫、杉浦日向子は大好きで大ファンと言っていい。他にも上記の近藤ようこ、原律子に加え、萩尾望都、高野文子、赤星たみこ、内田春菊などの本も持っていた。
漫画単行本の蔵書の総数は、家にあったものだけで243冊、実家の自分の部屋にも本棚があり、そこにも『じゃりんこチエ』の十数冊を含め4、50冊はあったと思う。
そんなたくさんの中で、私の青春漫画を挙げるとすれば、第一位はやはり、蔵書の数も飛びぬけて多いいしいひさいち。いしいひさいちの笑いのセンスは私の壺にピッタシカンカンであった。笑いでは他にも、東海林さだお、谷岡ヤスジ、黒鉄ヒロシ、吾妻ひでおなどにも大いに笑わせて貰った。いずれも大笑いでは無く、ニヤリとした笑い。
上に挙げた漫画家の名前を見ている内に思い出した。白土三平を筆頭に、ますむらひろしや安西水丸、そして、女流漫画家のほとんどはガロで知った人たちだ。ガロで知った人には永島慎二やつげ義春もいた。ガロはアンダーグランド的雰囲気を持った漫画雑誌で、私は若い頃好んで読んでいた。ということで、ガロが私の青春漫画だと言える。
記:2016.6.17 島乃ガジ丸
虫は昆虫の虫であるが、広辞苑によるその第9義に「ある事に熱中する人」とあり、例として「本の虫」を挙げている。表題の『漫画虫』の虫はその意。沖縄ではその意で虫も使うが、オーを使うことがより多い。オーはおそらく王の意、漫画の王様ということになるが、良い意味では無く、漫画を読んでいるトップということ。私は父に「漫画オー」とよく怒鳴られた。ちなみに、「ヤーサオー」ともよく言われた、ヤーサはヤーサンで「ひもじい」という形容詞だが、ヤーサオーで沖縄語辞典にあり、「すぐ腹の減る人=食いしんぼう」のこと。今の私は小食だが、子供の頃はよく食っていたかもしれない。
私は子供の頃から青年期まで漫画王だった。子供の頃、両親はなかなか漫画雑誌を買ってくれなかったが、友人が持っているものを借りたりして読んでいた。小学校の頃は少年サンデー、少年マガジン、少年キングという漫画週刊誌があり、少年とか少年画報とかの漫画月刊誌があった。その他、小学○年生といった学習雑誌にも漫画は載っていた。
サンデーに『おそ松くん』、『オバケのQ太郎』、マガジンに『巨人の星』、『ハリスの旋風』があったのは覚えている。どの雑誌に載っていたかは定かでないが、漫画の神様手塚治虫作品の『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』、ボクシング漫画の大傑作、ちばてつやの『あしたのジョー』、ロボット漫画の大傑作、横山光輝の『鉄人28号』、妖怪漫画の大傑作、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』、ギャグ漫画の大傑作、赤塚不二夫の『天才バカボン』、忍者漫画の大傑作、白土三平の『サスケ』、サイボーグ漫画の大傑作、石ノ森章太郎(当時は確か石森章太郎)の『サイボーグ009』、その他にも、藤子不二雄の『忍者ハットリくん』や『怪物くん』などなど、よく覚えている。
タイトルだけ覚えているものならまだある。『エイトマン』、『伊賀の影丸』、『少年忍者部隊月光』、『紫電改のタカ』、『バビル二世』、『柔道一直線』など、まだあるがキリが無い。これらの作品の作者はおぼろげである。漫画家の名前だけ覚えているものを挙げると、望月三起也、永井豪、松本零士、やなせたかし、その他たくさん。
漫画雑誌は上記の他、マーガレットとかリボンとかの少女漫画雑誌もあった。私は大きな目にキラキラと星が輝いているのが苦手で、少女漫画はほとんど読まなかったのだが、赤塚不二夫の『ひみつのアッコちゃん』、手塚治虫の『リボンの騎士』、横山光輝の『魔法使いサリー』の3作品はよく覚えている。何度か読んだと思う。
おっと、大事なものを忘れていた。手塚治虫の『火の鳥』、近所の友人が分厚い本を持っていた。それを借りて読み、子供ながら「すげぇ!」と感動した。大人になってから全巻購入し、何度も読み返した。大人になってからで言うと、作品名では『カムイ外伝』、『ブラックジャック』、『ゴルゴ13』、『じゃりんこチエ』などの他たくさん、漫画家名では大友克洋、いしいひさいち、ますむらひろし、東海林さだおなど、これもキリが無いので、大人になってから読んで夢中になった作品については次回ということにして、
子供の頃の漫画経験を1つだけ、赤塚不二夫の『天才バカボン』で涙が出て呼吸困難になるほど大笑いしたことがある。その場面は今でも覚えている。赤塚不二夫はギャグ漫画の天才だと思った。その時と同じ位大笑いしたのはコント55号のコントで1度あったかどうかくらいで、それ以降、今日の今まで、私は大笑いをしたことが無い。
記:2016.6.3 島乃ガジ丸
私は高校生の頃、美術クラブに1年半ほど在籍していた。その間、油絵は確か3枚、水彩画は十数枚描いている。美術クラブは部員同士の仲が良く、男女の仲も良く、卒業生達も折々に顔を出し、彼らとの仲も良かった。なので、平日に限らず、休みの日にも部室に集まって、ユンタク(おしゃべり)し、それぞれ絵を描いたりなどしていた。
夏休みには沖縄の風景スケッチを目的として、沖縄島のヤンバル(中北部の通称)や慶良間諸島、久米島などへ合宿をした。春休みも冬休みも部室へ集まった。で、各人、先輩達から教えを請うたり、それぞれが思うがままに美術に取り組んでいた。
一年半もの間、休みの日も部室に通い、合宿にも参加しておいて、それで、油絵3枚、水彩画十数枚しか描いてこなかったのか?と思われるかもしれないが、一年半の製作活動のほとんどを私は土いじりに励んでいた。轆轤(ろくろ)を回し、碗、壺、皿などを作っていた。絵付けして、焼いて、出来上がった楽焼の作品は、記憶は定かでないがたぶん30を超えたと思う。ただ、一つも残っていない。残す程の出来では無かったようだ。そういえば、油絵も水彩画も残っていない。惜しいとも思っていない。
そういった過去(作品の出来が悪いという過去では無く、美術クラブにいて美術製作に励んでいたという過去)もあって、私は美術が好きである。旅に出ると各地の美術館を観て回るのを趣味にしている。東京でピカソ展があると知ると、わざわざそのためだけに東京へ行った(その時は金があった)こともある。好きな芸術家も何人かいる。ピカソの他にはゴヤ、マチスなど。日本人では熊谷守一、・・・以外思い出せない。
いや、もう一人いる、田中一村。ただ、田中一村はその作品の現物を見たことが無い。図書館にある画集を見ただけだ。その画集も偶然手にしたわけでは無い。もう20年以上も前になるか、NHKの『日曜美術館』で紹介されているのを観て興味を持った。その後になると思うが、鹿児島の友人Nも絶賛していたのを覚えている。
テレビで紹介されているのを観て興味を持ったのは、そういえば熊谷守一もその一人である。熊谷守一展があると知って旅をした覚えがある。記録を調べてみると2004年のことであった。ついでに調べると、ピカソ展は2000年のことだ。
さて、田中一村、テレビに映るのを見ただけで興味を持ったのには訳がある。彼の絵には亜熱帯の風景が描かれてあったから。「あっ、沖縄だ」と思ったから。沖縄の絵描きのことをあまり知らないので、これは私の不見識なのかもしれないが、亜熱帯の気分をこれほどしっかり表現した絵を私はそれまでに観たことが無かった。
芭蕉、アダン、ソテツなどといったいかにも亜熱帯の植物たちはきっと、他の絵描きたちも描いているに違いない。しかし、一村のそれらは「だぜ、芭蕉もアダンもソテツもそんな空気だぜ、そんなオーラを発しているぜ」と感じた。テレビに映るのを観ただけでそう感じた。「こりゃあ、いつか実物を見なきゃ」と思った。そう思ってから長い月日が流れて、今年(2012年)になって初めてその作品の実物を鑑賞する。沖縄の県立博物館で田中一村展が開かれている。4月14日、行った。久々の美術観賞となった。
作品は初期の頃より晩年まで並べられてあったが、やはり、晩年の奄美時代の方に私は強く惹かれた。作品数はそう多くは無かったが、3時間観た。それほど良かった。
記:2012.4.27 島乃ガジ丸