旅程
2004年5月6日那覇発、羽田着、江ノ島を散歩。茅ヶ崎泊。
7日、茅ヶ崎から静岡へ、熊谷守一を鑑賞。静岡泊。
8日、浜松へ、花博を見学。湖西泊。
9日、東京へ、高田渡の映画を観る。友人知人に会い、食って飲む。品川泊。
10日、羽田発、那覇へ。
以上の旅程で旅に出た。14年前になる。「そんな昔の話、なんで今更」だけど、熊谷守一の映画が近く公開されるということを知って、「そんな昔の話」を思い出した。
この旅へ出る1ヶ月前、浜松で会う予定の、才色兼備(残念ながら友人止まり)のK嬢宛に送ったメールがある。「見事な愛情」というタイトルで以下。
私が今、もっとも興味を持っている画家は熊谷守一という、晩年は仙人と呼ばれた男。 彼の作品が私は好きで、特に晩年の作品は、世に存在する全てのモノ・・・それは、虫であったり、猫であったり、はては、池面に落ちる雨だれや、その波紋であったりもするのですが、それらのモノに対する守一の愛情が、実に見事であると感じられます。
彼の作品は、東京目黒の熊谷守一美術館や、郷里、岐阜の熊谷守一記念館や、その他多くの美術館に散らばっているようですが、その作品の多くを集めて、今、京都で熊谷守一展が開かれています。その展示会は、4月から5月にかけて静岡に移されて開催されるとのことで、その時、ぜひ、観に行こうと私は思っています。
東京経由の4泊5日。静岡では、静岡市の熊谷守一展鑑賞の他に、焼津で桜海老を味わって、浜松で世界花の博覧会を観覧するなどといったメニューとなります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
このメールを書いて送ったのは2004年3月5日であるが、熊谷守一を知ったのはこれよりもっと前。少なくとも2003年4月には知っている。2003年4月24日から28日までの4泊5日で東京経由のみちのくを巡る旅に出ている。その時の日記に「熊谷守一美術館へ行く予定だったが休館日だった」と書いてある。
この旅の目的の第一は熊谷守一を観ることであった。と前置きして、さてさて、旅の始まりから。
1、小津の部屋
5月6日、江の島を散策し、茅ケ崎にある従姉の息子の嫁の実家を訪ねる。その時の写真だけがパソコンに残っていた。他の写真はどこへいったか、見つからない。
旅の初日は茅ケ崎の「茅ケ崎館」という旅館に泊まった。そこは、映画監督の小津安二郎が定宿にしていた旅館だった。秋から春に掛けての半年間、そこで彼はシナリオを書いていたらしい。小津安二郎に興味がある、といつものグダグダしたメールを旅館に送ったら、彼がいつも使っていたという部屋に泊めさせてくれた。
古い旅館の、縁側もある畳間の部屋、何となくだが、小津安二郎の感性を味わう。
小津の部屋
2、世話焼きじいさん
茅ケ崎の夜、一人、駅前の飲み屋で飲んで、宿に戻ったのは10時過ぎ。風呂後に部屋でまた飲む。寝たのは12時前だった。
暑かった。暑くて目が覚めた。寝てから1時間も経っていなかったと思う。掛けていた毛布を剥いで掛け布団1枚にする。それでちょうど良い加減で、あとはぐっすり。
目が覚めたのは朝7時過ぎ。目は覚めたが体は覚めていない。去年の秋辺りから、低血圧の女子高生のように朝起きるのが辛くなっている私なので、そのまま布団の中で、しばらくじっとしている。ふと気付くと、夜中に布団の外に半分以上は出したはずの毛布が、肩まできちっと掛けられている。まったく覚えが無い。
夜明け前の冷気で風邪を引くといけないからと、小津安二郎の霊が掛けてくれたのであろうか。だとすると、小津はどうやら、世話焼き爺さんだったようだ。
茅ケ崎の街並み
3、睡魔に襲われた熊谷守一展
5月7日、旅の2日目、茅ヶ崎から静岡へ移動。静岡駅で降りる。すぐに今回の旅の第一の目的である「熊谷守一展」の観賞へ、同展は静岡駅近くの静岡アートギャラリーで、4月16日(金)から5月23日(日)まで開かれていた。
前夜、遅くまで飲んでいて寝不足だったせいかどうか覚えていないが、観賞している途中、私は強い睡魔に襲われ、しばらくロビーのソファーで寝ていた。静岡アートギャラリーへ行き「熊谷守一展」を観賞したのは確か、途中ギャラリーのベンチで寝たのも記憶しているが、その他どんなことがあったかはほとんど覚えていない。ただ1つだけ、熊谷守一の作品を観て「俳句のような絵なんだ」と感じたことは覚えている。
私は旅に出ると、小さなスケッチブックを携帯し、その時々の出来事、感想などをそれにメモしている。2003年春の旅から2005年春の旅までを記録しているスケッチブックが幾度もあった引越しという難を乗り越え、今も残っている。
ところがそのスケッチブックには、何と「2004年春の旅」だけが抜けている。ちなみに、その頃、私は概ね年に2度は旅をしており、その間の旅は以下、
2003年春は東京経由山形上山温泉の旅
2003年秋はオジサン5人九州の旅
2004年春は絵画、花博など盛沢山の旅
2004年秋はみちのく1人旅
2005年春は愛知万博の旅
この内、2004年春以外はメモがたっぷり残っている。飛行機に乗っている間、電車で移動中の車内で、私はさっきまでの出来事をそのスケッチブックにメモしてある。が、2004年春だけが無い。おそらく、スケッチブックを忘れて旅に出たのであろう。
この旅のメモは残っていないが、この旅の感想を友人知人にメールした文章はいくつか残っている。上記の「1、小津の部屋」、「2、世話焼きじいさん」、下記の「5、高田渡の捉え方」、「6、食えなかった焼鳥」「7、充実した旅」などはそのタイトルで友人知人に送ったメール。
この項のタイトルが「睡魔に襲われた熊谷守一展」となっているが、これは旅から帰って、忘れない内に旅の概要を書こうとして、タイトルだけが残っていたもの。
2003年春の旅の旅程:この年に熊谷守一を観に行こうと計画していた。
4、浜松での想い出
5月8日、静岡から浜松へ移動。浜松では花博見学しているが、その時の記録が、写真も含め残っていない。ただ、少しだがメール文章が残っていた。以下。
浜松では付き合ってくれてありがとうございました。美人が傍にいるだけでもうれしいのに、おまけに、ご馳走にもなって、ありがたいことです。・・・中略・・・今回の旅は興味深いことがいっぱいあって、文章にしておきたいのですが、いっぱいありすぎて書けずにいます。・・・後略。
そうか、「いっぱいありすぎて書けずに」が、今日までずっと続いていたわけだ。ということで花博の感想も記録が残っていない。というわけで話は飛ぶ。
花博のチケット
5、高田渡の捉え方
5月9日、最後の夜は東京。ホテルは品川だったが、夜を過ごしたのは新宿。その夜の私の予定は映画観賞。新宿アルタ前で夕方6時半、埼玉在の友人Kと待合わせ。
Kと会って、挨拶もそこそこにさっそく映画館の場所を教えて貰い、上映開始時間を確認して食事へ行く。Kのおごりで美味いものを食べさせて貰う。
腹いっぱいになった後に観た映画は「タカダワタル的」というタイトルで、監督は柄本明。「タカダワタル的」で表現されている高田渡は、柄本明が捉えた高田渡だったのではないだろうか。私の頭の中におぼろげにある高田渡とは少し違う。が、柄本明は上手いと思う。風貌だけで十分絵になる渡なので、風貌だけで客は興味を持つ。
歌手のようである。ギターを弾いているようである。息子が後ろでスチールギターを弾いているようである。女房がいるようである。歌はあまりヒットしていないようである。よって、あまり金持ちでは無いようである。などといったことが映像から伝わってくる。ヒットしていない歌は聴きなれない歌なので、何を歌っているのかよく解らない。歌っている内容が解っても、何でそんな歌を歌うのかが解らない。この人、いったい何者!
というわけで、不思議なものに対する興味を客は持つかもしれない。あるいは、現代人が忘れた大事なものをまだ持っている人ではないか、と錯覚するかもしれない。
高田渡は、歌っていなければ普通の、ただの飲んだくれなんだろうか。血中からアルコールが消えることの無い、いつも眠そうな眼をしていて、いつも頭がボーっとしている酔っ払いなのであろうか。高田渡って、どう捉えたらいいのだろうかと考える。
高田渡は、私のもっとも好きな歌手の一人、一番かもしれない。ファン暦は30年になる。30年にもなるけれど、彼の生演奏を聴いたのは、先月(2004年3月14日)、那覇でのライブが初めてだった。聞くところによると高田渡は若い頃から、そう頻繁にはライブをやっていなかったようだ。酔っ払いはその夜も酔っていて、ライブは半分で終わったが、その感性に触れただけで私は大いに満足した。参考→『ワタルの世界』
これでいいのだ、ワタルはワタルでいいのだ、そう捉えていいいのだ、と思う。
高田渡ライブイン那覇のチケット
6、食えなかった焼鳥
学生の頃、吉祥寺北口の“しょんべん横丁”にある焼鳥屋によく通った。私の好物は、モツ煮と軟骨塩。モツ煮と軟骨塩は、他の焼鳥屋でも私の好物で、それは沖縄の焼鳥屋でも同様であった。ただ、沖縄ではモツ煮と軟骨塩を出してくれる焼鳥屋が少なくて、一番近い所でも私の家からはタクシーで30分、バスだと乗り換えがあって不便。なので、沖縄でモツ煮と軟骨塩を食うのは2、3年に1回くらいのこと。
私は、年にたいてい2回は旅に出る。旅は3~5泊で、その間に1回は、ほとんど必ず焼鳥屋か、それに準じた場所でモツ煮と軟骨塩を食っている。今回の旅では最後の夜に、東京新宿の焼鳥屋でモツ煮と軟骨塩を食う予定だった。
新宿の夜、数年ぶりに会った旧友のKは、意外に強引で、焼鳥屋という私の希望を聞かずに、うどん屋へ私を案内した。しかも、うどん屋で私を腹一杯にさせた。映画の後、品川の焼鳥屋で一人一杯やるかとも考えたが、胃袋に隙間は無かった。
「しょうがない」と翌日、帰る日の昼飯に焼鳥屋へ行くことにした。品川駅の東口からすぐ近くに焼鳥屋はあった。ランチタイムのメニューが表の縦看板にあった。メニューはさば味噌定食、生姜焼き定食、うどんセットなどで、焼鳥のやの字も無く、店内をちょっと覗いたが、焼鳥用の焼き場に火が入っている様子も無かった。
他に焼鳥屋はないかと15分ほど探したが、見つからなかった。帰りの飛行機の時間もあったので、その時は適当な店で、適当な定食を食った。そうして、今回の旅は、私の旅の中では珍しい「モツ煮と軟骨塩を食わない旅」となった。
懐かしの飲み屋:大学時代好きだった飲み屋、この向こうに好きな焼鳥屋があった。
7、充実した旅
「モツ煮と軟骨塩を食わない旅」ではあったが、
茅ケ崎で、私の好きな映画監督である小津安二郎が定宿にしていた「茅ケ崎館」の、小津が使っていたという部屋に泊まり、小津安二郎の感性を味わう。
静岡で、大好きな画家、熊谷守一を堪能する。
浜松で、花博を見学し、夜は美女と会食する。
東京で、国吉康雄という守一とは対極の感性と思われる画家の展示会を観る。
東京の夜は大好きな歌手、高田渡の映画を観る。学生の頃の友人に、おいしいうどんをご馳走になる。などなど、今回の旅はとても充実した楽しい旅だった。
茅ヶ崎のマツバギク:茅ヶ崎以外の写真が無くページが淋しいので添付。
懐かしの飲み屋の写真は2004年よりずっと前。
編集:2018.7.1 ガジ丸 →ガジ丸の日常目次
付録:宮古諸島で出合った動植物
たくさんの写真を撮って、まだ正体が判明していないものも多くあって、ここでの紹介はそんなたくさんの写真の一部だけ。
1、植物
オキナワウラボシ(沖縄裏星):下草
ウラボシ科の多年生シダ 琉球列島、小笠原諸島、熱帯亜熱帯に分布 方言名:不詳
サキシマハマボウ(先島黄槿):公園
アオイ科の常緑高木 原産分布は沖永良部以南、熱帯アジア 方言名:ヤマユーナ
アオガンピ(青雁皮):盆栽・添景・防潮風
ジンチョウゲ科の常緑低木 沖縄、台湾、他に分布 方言名:イシクルチャ、バウキ
ハマダイゲキ(浜大戟):海岸野草
トウダイグサ科の多年草 原産分布は不詳 方言名:不詳
ハスノハギリ(蓮の葉桐):景観、防潮風
ハスノハギリ科の常緑高木 奄美以南、東南アジア、他に分布 方言名:トゥカナチ
ハテルマギリ(波照間桐):景観、防潮風
アカネ科の常緑中木 熱帯アジア原産で宮古諸島、八重山諸島に分布 方言名:イバガサ
クロバナツルアズキ(黒花蔓小豆):野草
マメ科の多年草 北アメリカ原産の帰化植物 方言名:なし
クロヨナ(くろよな):公園・街路
マメ科の常緑高木 原産分布は奄美以南、沖縄、台湾、他 方言名:ウカバ
ミズガンピ(水雁皮):盆栽・海浜緑化
ミソハギ科の常緑低木 奄美大島以南の琉球列島、他に分布 方言名:ハマシタン
コバノツルアズキ(小葉の蔓小豆):野草・蔓植物
マメ科の蔓性多年草 原産分布は不詳 方言名:不詳
ソナレムグラ(磯馴葎):海岸の野草
アカネ科の多年草 関東以南、南西諸島、台湾、朝鮮に分布 方言名:不詳
イボタクサギ(水蝋臭木):添景・防潮・防砂
クマツヅラ科の常緑低木 九州南部以南、南西諸島、他に分布 方言名:マンカホーギ
シロバナノアサガオ(白花野朝顔):野草・蔓植物
ヒルガオ科の多年草 紀伊半島以南、南西諸島、他に分布 方言名:ヤマカンダ
ハイキンゴジカ(這金午時花):グランドカバー
アオイ科の匍匐性低木 本州、九州、琉球列島に分布 方言名:チャンカニー
ハマゴウ(蔓荊):フェンス
クマツヅラ科の蔓性低木 原産分布は本州以南、南西諸島、他 方言名:ホーガーギー
ホウライカガミ(蓬莱鏡):フェンス・養蝶草
キョウチクトウ科の多年生蔓植物 沖縄、台湾、他に分布 方言名:ビンカジラー
ミツバコマツナギ(三つ葉駒繋ぎ):海岸野草
マメ科の多年草 原産分布は不詳 方言名:不詳
ナンゴククサスギカズラ(南国草杉蔓):海岸の岩の上に生息
ユリ科の蔓性多年草 九州以南に分布 方言名:ティンムン、バママツ
テンノウメ(天梅):盆栽
バラ科の常緑低木 屋久島以南、南西諸島、台湾などに分布方 言名:インポーギー
ツルモウリンカ(蔓茉莉花):フェンス
ガガイモ科の蔓性多年草 九州以南、南西諸島に分布 方言名:ウシヌハナフガサー
2、動物
ミヤコウマ(宮古馬):ウマ目の野生、または家畜 体高110~120センチ
ウマ科の哺乳類 ウマの原産はアジア・ヨーロッパ 方言名:ンマ
シマキンパラ(縞金腹) 全長11センチ
スズメ目カエデチョウ科の留鳥 飼い鳥が野生化した帰化鳥 方言名:不詳
マミジロツメナガセキレイ(眉白爪長鶺鴒) 全長16センチ
スズメ目セキレイ科の旅鳥、または冬鳥 方言名:不詳
ムナグロ(胸黒) 全長24センチ
チドリ目チドリ科の旅鳥、または冬鳥 方言名:ターチヂュヤー、ハルチヂュヤー
サキシマキノボリトカゲ(先島木登り蜥蜴) 全長15センチ
アガマ科 宮古諸島、八重山諸島に分布 方言名:ヤマションカネー
ヤシガニ(椰子蟹) 甲長10~15センチほどの大きなヤドカリ
オカヤドカリ科の甲殻類 与論島以南~インド太平洋に広く分布 方言名:アンマク
ウラナミシジミ(裏波蜆):鱗翅目の昆虫 前翅長15ミリ内外
シジミチョウ科 関東以南、沖縄、オーストラリア、他に分布 方言名:ハベル
オウゴマダラ(黄金斑):鱗翅目の昆虫 前翅長75ミリ内外
マダラチョウ科 分布:南西諸島、台湾、東南アジア 方言名:ハベル
スジグロカバマダラ(筋黒蒲斑):鱗翅目の昆虫 前翅長40ミリ内外
マダラチョウ科 分布は先島諸島、東南アジアなど 方言名:ハベル
リュウキュウアサギマダラ(琉球浅黄斑):鱗翅目の昆虫 前翅長45~50ミリ
マダラチョウ科 奄美大島以南、沖縄、先島、東南アジアなどに分布 方言名:ハベル
記:2017.3.11 ガジ丸 →ガジ丸の日常目次
6、宮古島(5泊目)
1)大神島(ウガンジマ)
9月13日午前11時、11時島尻港発の船に乗って大神島へ渡る。大神島、前夜の宿の女将さんに聞くまでは「おおがみじま」と読んでいたが、「ウガンジマって言うのよ」と教えて貰った。そう言われたらその通り、大神島を敢えてウチナーグチ(沖縄語)読みすると「ウフガンジマ」となる。さもありなん、沖縄と宮古は兄弟だ。
大神島ではさほど観るものもなく、のんびりと散歩する。途中、大神中学校の廃校跡を見る。島に残っている中学生は船に乗っての登下校となっているのだろうか。
島の展望台に上り、360度の景色を眺め、港近くの海岸に浸食された岩が並んでいる景色を眺めなどしながら、午後1時発の船に乗って宮古島島尻港へ向かう。
2)平良市の町並み
島尻港からタクシーで平良市にある今夜の宿、宮古第一ホテルへ。チェックインしてホテルのロビーで同行のKとこの先どうするか会議。レンタカーは今日も混んでいて空きがないとのこと。なわけで、結局この後は各々のんびり過ごすことに決定。
2時半、1人宿を出て宮古島平良市散策。途中、昭和シネマ茶屋というレトロな喫茶店を見つける。面白そうであったが中へは入らない。私の興味を引いたのは熱帯植物園、そこへ向かって歩く。ところが、炎天下は暑い、暑さに参って途中でギブアップ。
3)路線バスの親切
熱帯植物園を諦めて、バスに乗って東平安名へでも行くかとバスターミナルへ行き、そこの案内所で相談する。「東平安名も来間島もバス停から1時間以上歩くよ、それに、午後からは便数も少ないから止めた方がいいよ」と言う。
バス会社の人が「バスを利用しなくていいよ」と言っている。それがあなたのためだという親切なアドバイスだ。ということで、バスに乗ってどこかへは中止。
4)土産は八重山産
バスターミナルからブラブラのんびり歩いて、スーパーなど寄りながら港へ行く。港の売店で土産物を物色しながら時間を過ごし、午後5時頃にはホテルへ戻ってビール飲みながら一服。港の売店で面白そうなお菓子を見つけ買った。ところがそれ、ホテルに帰ってよく見たら、宮古島産ではなく八重山産のお菓子であった。宮古島へ行って八重山土産を買ってきたなんて言ったらバカにされそうなので、それは土産にはせずそこで食った。
その日の夜は「民謡ライブをやっている店を探し、夜はそこで過ごそう」と同行のKと相談し決めていた。シャワー浴びて午後7時頃、Kと2人出掛ける。
5)失敗の島唄ライブ
島唄ライブ、沖縄では民謡酒場という名前で親しまれているが、民謡を演奏するライブハウス兼飲み屋。島唄ライブ(宮古島観光冊子にそうあった)という名前で、ホテルのパソコンを借りて検索するが、結局は、それが確かだろうということでホテルの人に訊き、今回の旅を計画してくれた同行の友人Kと2人、ホテルが勧めた店へ行く。
私は煩いのが苦手である。民謡は概ね煩くないので、ゆったり民謡を聴きながら旨い酒を飲み良い時間が過ごせるだろうと期待した。ところがしかし、7時半からライブは始まるが、アンプを通してのサンシンの音が煩いし、曲目は最近の沖縄のヒット曲ばかりで、唄も煩い。民謡ライブというよりポップスショーといった感じ。MCも煩かった。
1回目のステージが終わったところで私は帰り仕度。同行のKが料理をたくさん注文していたのでそれを味見している内に2回目のステージが始まった。で、私は慌てて残っていたコップのビールを一気に飲みほして、Kを1人残して店を出た。
6)大神島情報:大神島の総合観光情報サイトから抜粋
宮古島本島北部に位置し、宮古島の北海岸に位置する島尻集落にある島尻漁港が、島に向かう唯一の交通機関・大神海運(ニューかりゆす)がある。 島までは約4キロ。島の周囲が2.7キロ。 標高は約75メートル・島の一番高いところまではロープを伝って上ることができる。 面積は0.27平方メートル。 平成19年5月現在、世帯数17戸・人口40人。
7、帰る日
1)やっとレンタカー
ライブハウスからスーパー寄って泡盛の小瓶などを買いホテルへ戻る。同行のK、1人酒場で飲んでいるのが嫌だったのか、彼もホテルに戻っていた。Kはレンタカー屋に片っ端から電話して、12~13件目でやっと見つけたとニコニコ顔で言う。
「そうか、明日はずっと運転ということになりそうだな、ということは、今夜はあまり飲めないな」となり、購入した泡盛1合瓶は半分以上残した。持って帰ったけど。
9月14日の金曜日、朝9時、レンタカー屋の車がホテルに到着。レンタカー屋の話によると、週末台風が接近するということで、レンタカーにもキャンセルが出て空車もあったとのこと。台風は困るが、そのお陰で車を借りることができたということになる。
2)東平安名崎
ホテルを9時過ぎに出て、先ずは東平安名崎へ向かう。カーナビのついていないレンタカー、助手席のKも方向音痴であてにならず、道に迷って迷って時間はかかったが、それでもなんとか東平安名崎到着。そこで私は、海岸植物の多くに出会えて収穫大。
宮古民謡には不明の私なので、「マムヤのあやぐ」という唄も知らなかったのだが、東平安名崎に「マムヤの墓」という文化財があった。その説明文を要約すると、
マムヤは女性の名前で絶世の美女、妻子ある男が彼女に惚れて恋仲になる。ところが男は、「将来のことを思えばマムヤよりは糞尿の匂いがしても妻の方が良い」と諭され、マムヤを見捨てる。それを知ってマムヤは自殺する。・・・というようなこと。
マムヤは香草の芳しい香りがしたとのこと。それに比べ「糞尿の匂いがしても妻」という例えが面白い。申し訳ないが悲劇なのに可笑しさが先立った。もう1つ、「悲嘆にくれた母親は再びこの村に美人が生まれないようにと神に祈願した」とも説明文にあって、この世から美人がいなくなったら男は困るぜとこれまたふざけた思いで、印象に残った。
3)来間島
東平安名崎を11時過ぎには出て来間島へ。車を置いて近辺を散策する。その途中で「来間島憲法」とある立看板を見る。憲法とは大げさだが、内容を読むと、来間島を美しく保つためのお願いみたいなことが書かれてあった。自然が豊かに残っている島だ、そこを汚さないようにする、「憲法で良し」と思った。
展望台に上って景色を眺め、遊歩道を散策し、パーラーでマンゴージュースを飲む。来間島に着いたのは12時過ぎ、1時間ほどいて、1時過ぎには出て空港へ向かう。
4)来間島情報:来間島の総合観光情報サイトから抜粋
宮古本島の下地側から海を挟んで前浜の沖1・5キロの海上に浮かぶ小さな島が来間島(くりまじま)。来間大橋の開通によって、大勢の行楽客や観光客が島を訪れるようになりました。面積2.75平方㎞・周囲10㎞・海抜40㎞にある島。
5)酒の島
旅の初日は宮古島泊り。宮古と言えばとオトーリが私の認識にある。オトーリとは宮古の酒宴での儀式の一つ、酒は旨いと思っている私は旨く飲める自分のペースで酒は飲みたいので、オトーリのような押し付けペースは好きで無い。そういう酒宴になったら嫌だなぁと思っていたら、「オトーリも今は特別な席で無いとあまりやらない」と一緒に酒を酌み交わした宮古の人何人かが語ってくれた。その情報通り、5泊6日の宮古諸島の旅で、民宿での宴会でも飲み屋でもオトーリの光景には出会わなかった。
それでも、宮古諸島が酒の島であることは感じた。地元の人が利用するスーパーで、地元の人が普段何を食べているかを知るのは私の趣味で、倭国を旅する時にもそれはやっている。宮古諸島でも小さな商店も含め何ヶ所か店内を見て回った。酒の、特に泡盛の瓶の数が沖縄(私が住む宜野湾や時々通う那覇、浦添、西原などのスーパーや商店)のそれに比べ多いと感じた。資料はないが、酒の消費量、宮古島は多いのではないか。
6)旅の終わり
旅の出発の日、飛行機に乗る前に携帯電話を忘れていることに気付いた。取りに帰る時間などない。私は普段でも携帯電話をたまに忘れて外出する。特に誰かからの連絡待ちでもない限り、「まぁ、いいさ」と取りに帰ることはない。しかし、この時は5泊6日の長時間電話無しとなる。旅先からメールすることもできない、残念なことであった。
その他、宮古民謡が生で聴けなかったこと、ヤシガニが食えなかったことが心残りであったが、写真をたくさん撮って、まだ見ぬ花や鳥にも出会えて収穫は多くあった。
楽しいことはたくさんあった。多良間島の宿では土地の人、旅の夫婦と飲み食いユンタク(おしゃべり)でき、伊良部島の宿では女将さんと多くユンタクでき、池間島の宿ではたまたま開かれた宴会に招かれ、たくさんの人と飲み食いユンタクできた。
全体としてみればとても楽しい旅となった。この旅に誘ってくれ、私が貧乏であることをよく知っていて旅費も負担してくれたKに感謝したい。そうそう、残念がもう1つ、池間島での宴会があまり楽しくてその時の写真を撮り忘れた、それが悔やまれる。
9月14日、来間島を1時過ぎに出て、途中の食堂で宮古ソバを食って2時頃には空港へ着く。楽しかった旅の記録をノートに書きながら出発を待ち、15時00分宮古発15時45分那覇着の便に乗って家へ帰る。宮古諸島オヤジ二人旅2012の記録は以上。
記:2017.3.11 ガジ丸 →ガジ丸の日常目次
4、伊良部島(3泊目)
1)伊良部トーガニ
9月11日、10時40分に宮古空港着。空港からタクシーで平良(ひらら)港へ。11時30分発の船に乗って伊良部島へ。高速艇なので「所要時間10分」と速い。乗ったり降りたりの時間も含めて15分後には伊良部港へ上陸となった。
港の待合室で「伊良部トーガニまつり」とあるポスターを見つけた。トーガニは初めて目にする言葉だが、ポスターの写真から民謡祭りであることは想像できる。多良間島でも宿へ着く前に「多良間シュンカニ大会」というポスターを見つけ、「民謡が盛んなんだ」と思ったが、伊良部にはトーガニという名の民謡があるようである。
トーガニ、旅から帰ってから調べた。沖縄大百科事典によると、正式名称は『トーガニアーグ』といい、「一般的にはトーガニという。・・・短歌形の予祝的なもの(座敷様)と抒情的な歌謡がある。野崎トーガニと伊良部トーガニに大別される・・・伊良部トーガニは、旋律は定型化されない呂旋法(律の変型)による。男女の情感が自由に即興的に織りなされ、・・・」とあった。専門用語があって解り難いが、とりあえず、トーガニは宮古地方に伝わる伝統的な民謡で、八重山のトゥバラーマみたいなものと私は理解した。トーガニについてもトゥバラーマについても詳しくはいずれ別項で。
2)伊良部と下地の間
宿は港からだと島の反対側、下地島側方面にある。歩こうかと少し迷ったがタクシーに乗る。宿に着くと、昼飯時ということもあってかとても忙しそう。チェックインの手続きをやる暇はなさそうだったので、荷物を預けて同行のKと散策に出る。
宿から海側へ向かい、佐和田の浜というきれいな浜で一休み。「きれいな海だ」と感心しつつ1時間ほどボーっとする。その後はKと別れて、伊良部島と下地島との境界の道を歩く。伊良部島と下地島との間は、感覚的には幅数メートルの川が流れているといった感じ。北から南へ接しており、その間には6本の橋がかかっているとのこと。
下地島は下地島空港で有名。「我が国唯一のジェットパイロットの訓練場。滑走路は羽田空港滑走路と同じ3千メートルあり、この飛行場で訓練を受けた各航空会社の操縦士が日本の空、あるいは世界の空を羽ばたいている」とパンフにあった。
3)見つからない野鳥
伊良部島と下地島との境界の道を歩きながら途中途中で一服する。野鳥観察園という所へ行き野鳥観察もする。そこでしばらくじっと待っていたが野鳥はなかなか現れてくれず、その間、蚊にあちこち刺されてしまって、痒さに負けて10分ほどで退散する。その後も野鳥のいそうな池のほとり2ヶ所で野鳥を探すが、やはり蚊に負けてしまう。
沖縄島でもたまに見かけるが、歩道の植栽帯に雑草が蔓延って歩道が歩道の役に立っていないことがある。伊良部島と下地島との境界から伊良部島側に1つ入った割と広めの道路は、その歩道がまったく役に立っていなかった。雑木のギンネムが蔓延っていた。
4)のんびりした民宿
野鳥だけでなく他の動物にも出会えないまま、植物や景色の写真も撮らぬまま宿近くまで来てしまう。そこで雨が降り出し、雨宿りをしていると、またも蚊に何ヶ所も刺されてしまい、痒さに腹を立てながら宿に入る。時刻はまだ午後4時過ぎ。宿の人は忙しい昼飯時が済んで休憩中なのか、誰もいない、呼び鈴押しても誰も出てこない。しょうがないので、宿の向かいにあった商店でビールを買い、宿の人が出てくるまでのんびり一服。
6時前になってやっと女将さんが出て来て、チェックインをし、部屋に入ってシャワーを浴びて、6時過ぎには食堂に行き同行のKと一緒に夕食を摂る。ビールの他、2人で3合の泡盛を飲み干して、9時頃には部屋に入って、一服して寝る。
宿は料理自慢の店とのこと。それで、昼飯時は予約宿泊客の相手もできないほど忙しかったようだ。料理自慢らしく、その夜食べたグルクンの唐揚げはとても美味しかった。そこの名物はジャンボカツカレーとのことだが、小食の私は頼まなかった。
5)ゴミの島でも自然は豊か
9月12日、朝食後すぐに散策に出る。昨日回れなかった伊良部島の南側を歩く。きれいだと噂の渡口の浜という浜で一休み。伊良部島と下地島との境界の道を、いくつもの橋を渡って伊良部へ行ったり下地へ行ったりとのんびり散歩。
散歩しながら、草木の茂った箇所にゴミが多く捨てられているのに気付いた。どうやら伊良部島の人達は「自分たちの町をきれいにしよう」という思いは薄いようである。沖縄島も目くそ鼻くそだが、せっかくのきれいな自然が勿体無いと思った。
宿の方向に向かいながら途中の干潟で何度か休憩、昨日は1枚も撮れなかった野鳥の写真、この日はセッカ、ツバメ、リュウキュウツバメの写真が撮れ、干潟の内の1つでは数羽の野鳥が見られた。1種はチュウシャクシギと判ったが、その他は未だに不明。
午前11時過ぎには宿へ戻る。のんびりと日記書きなどしながら港へ行くバスを待ち、12時50分発のバスに乗って港へ、船は13時30分発、宮古島へ向かう。
6)伊良部島情報:伊良部島の総合観光情報サイトから抜粋
人口/5,623人 面積/29.05㎢ 最高標高/89m(H25.12.31現在)
宮古島の北西に位置し、宮古諸島の中では宮古本島についで大きな島。
北東にある佐良浜港周辺に2つと6本の橋でつながった下地島との間にある入り江周辺に6つの集落があり、その間には広大なさとうきび畑が広がっている。
5、池間島(4泊目)
1)気さくな女将さん
9月12日午後、宮古島に着くと大雨。レンタカヤーさんに電話するが、観光客の多い時期で空いている車はないと言う。他に2軒のレンタカヤーさんに電話しても同じ答えだった。で、予約してある今夜の宿に電話する。上手い具合に「ちょうど平良(ひらら:我々が現在いる港のある街)に用があるから迎えにいきます」とのこと。
30分ほどして宿の車が来てそれに乗りこむ。運転手は若い男、助手席に若い美女、後部座席に宿の女将さんがいる。女将さんはとても気さくな人、
「今日、宴会があるのよ、それで、そのための買い物なの。仲間内の小さな宴会、バーベキューするから、あなたたちも参加したら?バーベキューが今夜の夕食よ。」と言う。地元の人と酒飲みながら話ができるのだ、「そりゃぁもうよろこんで」と答える。女将さんが買い物している間、我々も自分用の買い物をして、宿の車に再び乗って、宿へ向かう途中にある西平安名崎で降ろして貰う。雨は既に上がっていた。
2)西平安名崎
観光パンフによると西平安名崎も宮古島の観光名所であったが、大きな風車が目立っていたのと、宮古馬の牧場があったのが目に付いたくらい。岬の先まで行って、スーパーで購入した「宮古島まもる君」の飲物を飲みながら一服して、ミズガンピ、ソナレムグラなど植物の写真をいくつか撮りながら、のんびり散策する。
西平安名崎の先に立って海を眺めるとすぐそこに池間島が見える。今日の宿は池間島にある。池間島までは池間大橋という橋がかかっているので歩いて行ける。まあまあの距離があるが、歩き慣れている私にとってはたいした距離ではない。景色を眺めながらののんびり散歩、ちょうど夕日が沈む時刻、見事な夕景を眺めることができた。
3)親切なお姉さん
池間大橋を歩いて(たいした距離ではない)渡って池間島到着。時刻は午後7時過ぎ。橋の傍にあった売店に入り、そこのお姉さんに今夜の宿勝連荘の場所を訊く。
「そこは私の伯母の家です。案内しましょう」と言う。親切なお姉さんだ。道すがらお姉さんと楽しいユンタク(おしゃべり)もできるはずとお言葉に甘えたかったのだが、あいにく、同行のKがまだ来ない。同時刻に橋を渡り始めたのだが何をしているのかまだ姿も見えない。20分ほど待っただろうか、やっとKが来た。店のお姉さんはそれでも我々を宿まで案内してくれた。ホントに親切なお姉さん。ありがたいことと感謝。
4)最高の夜
「今日、宴会があるのよ」と宿の女将さんが言っていたが、その宴会は既に始まっていた。ベランダに設けた露天の宴会場、バーベキューの炉があり何か焼いている。席には、宿の客、我々を含めて6人、宿の主人の友人たちが4人、主人と女将さんを合わせて総勢12名、主人の友人には宮古警察署の署長もいて、楽しい話がたくさん聞けた。食べ物も美味しく、酒は飲み放題。賑やかな宴会に参加でき最高の夜となった。客の1人に東京から来たという若い女性がいて、彼女が美人だったことも楽しさを倍増させてくれた。
5)宮古美人は幻
宮古と言えば宮古美人(宮古の女性は美人が多いと言う噂)とオトーリが私の認識にある。宮古美人は、若い頃何度か合コンをした際、「おっ、可愛いな」と思った女子に宮古出身が多かったことで「確かにそうかも」と思っている。であったが、
宮古に着いてから4日経つが、「おっ」と思うほどの宮古美人に私はまだ出会っていなかった。私が立ち寄る場所にはオバサン以上のお年寄りが多かったせいかもしれない。じつはでも、彼女たちの若かりし頃は宮古美人だったのかもしれない。それはさておいて、今のところ宿の客、東京の美女以上の美人はまだ見ていない。
「宮古美人にまだ出会っていない」ということを宴会のユンタクのついでに、酒飲んで愉快な気分になっている中、宿の主人の友人たちに訊いた。
「宮古美人ってのはいないよ、それは幻だよ」と1人が言う。「だけど、池間美人ってのはいるよ。宮古の全てに美人がうようよいるわけではないが、池間には美人がうようよいる」とのことであった。うーむ、確かに、宿の女将さんは若かりし頃美人だったかもしれないが、橋の傍の売店にいた親切なお姉さんは、親切だけど見た目が美人とは判断できなかった。しかし楽しい宴会の席、「お言葉を返すようですが」とは言わなかった。
6)親切な御主人
9月13日、同行のKと「今日は大神島へ渡ろう」と計画していた。大神島への船は島尻港(宿から車で10分ほど)発11時、宿の主人が「港まで車で送る、10時半頃に出ると良い」と親切にも言ってくれた。お言葉に甘えることにして、それまでの時間、朝飯食ったあと池間島を散策する。そして10時半にはご主人の車に乗って宿を出る。
7)池間島情報:池間島の総合観光情報サイトから抜粋
宮古本島からは1・5キロの海上にある島であるが、宮古本島と池間島を結ぶ待望の池間大橋が平成4年2月14日に開通した。橋の長さは1425メートル。
人口は約900人で字池間と字前里の両自治会からなっている。
記:2017.3.3 ガジ丸 →ガジ丸の日常目次
1、序章
日本全国の都道府県のうち、私がまだ行ったことのない所は、私の記憶が正しければ青森、秋田、栃木、茨城、山梨、福井、三重、和歌山、徳島の9県となっている。それは2006年の秋以来変わっていない。それ以来他府県への旅をしていないからだ。いつかは全国制覇をしたいと思っているが、貧乏な今、それは当分無理だろうと諦めている。
全国制覇とは別に、離島の多い沖縄県の、その島々(人が住んでいる)の全てを訪ねたいとも思っている。離島巡りは倭国の旅に比べ旅費が概ね安く済むので、ちょこちょこ行けている。数年前に南北大東島へ、去年秋に八重山諸島の内未踏だった波照間島と、そのついでの与那国島、今年春には伊是名島、伊平屋島、粟国島を訪ねた。
「残すは宮古諸島だ、いつか行かねば」と思っていたら、埼玉在の友人Kからメールがあり、「9月に沖縄へ行きます、また厄介になります」とのこと。そして、「宮古諸島に行きましょう、旅費は負担します」ともあった。旅好きの私が、貧乏のせいで旅に出られないことを知って、Kがそれを哀れに思い、援助してくれると言う。前に八重山与那国の旅を一緒した時も、彼がだいぶ大目に負担してくれた。有難いことである。
というわけで、9月9日宮古諸島の旅へ出かけた。9月9日はオスプレイ配備反対を主題とする県民総決起大会のある日だ。大会へ不参加となった私にせめて意思表示をと家向かいの婆様が赤いリボン(大会のシンボルカラー)をくれた。それをバッグに結び、宮古島の他、池間島、伊良部島、多良間島なども巡る5泊6日オヤジ二人旅の始まり。
2、宮古島(1泊目)
1)海
9月9日、10時45分那覇発11時30分宮古着の飛行機に乗る。初めての宮古島、飛行機が着陸のため降下する時に思ったのが「何とも平たい島だこと」であり、「何ともきれいな海だこと」という印象だった。どちらも行く前から知ってはいたが。
平たい島なので猛毒蛇ハブがいない(海面上昇の際死滅したという説がある)、ハブがいなければ森の中、藪の中へどんどん入って行ける。私にとっては好都合。きれいな海なのでダイバー客が多い、ダイバー客が多いのは民宿に泊まった時に知った。宿の人たちと何人も話をしたが、「潜らないの?オッサン二人で宮古に何しに来たの?」だった。私は海より山に興味があり、友人のKは泳げないので海に興味が無い。
2)人頭税石
偶然だが、宮古諸島の旅へ出る1ヶ月ほど前に、沖縄産漫画『島燃ゆ』を図書館から借りて私は読んでいた。『島燃ゆ』は宮古島の人頭税廃止運動をテーマにした物語で、その感想を『島燃ゆ』というタイトルで書き、2012年8月24日にアップしている。その中で、人頭税について(私らしく)大雑把に説明している。そのまま引用すると、
『沖縄大百科事典』に沖縄での人頭税(ニントウゼイと読む)が詳しく載っている。大雑把にまとめると、「起源は定かでないが、薩摩侵入(1607年)から20年ほど後ではないか、廃止年は1903年。13歳から50歳までの男女に課せられ、個人の能力、土地の能力、天災などを考慮しない税制」となる。
怪我や病気で動けなくなっても、台風や干ばつで不作であってもお構い無しの過酷な税だ。「そのうえに在地役人のなかには・・・収奪をかさね」たこともあり、宮古では「赤子の圧殺、堕胎などの間引きをはじめ・・・」などとある。元々過酷な税制の上、在地役人(ウチナーンチュだ)に悪い奴らがいて、悲惨なことが起きたのである。
その記事には添付写真として、前年旅した与那国島のクブラバリを載せている。その写真には「久部良バリは3mほどの幅がある深い岩の裂け目で、ここから落ちると死は免れない。(人頭税を免れるための)人減らしで妊婦にここを飛ばせた。飛び越えられても流産するものもあったようだ。」(()内の注釈は今回記述)と説明を添えてある。
『島燃ゆ』の舞台となった宮古島には「人頭税石」なるものが存在することを旅の前に読んだガイドブックで知った。ガイドブックによると「この石の高さに達すると課税の対象になった」らしい。『島燃ゆ』を紹介したからにはぜひともその人頭税石を見て、写真を撮らねばと思い、訪れた。しかし、石の傍にあった説明文によると、「この石の高さに達すると課税の対象になった」は一説であり、事実かどうかは定かでないようだ。
3)懐かしい景色
初日の宿は宮古島市平良(元の平良市)、中心街にある宮古第一ホテル。普通のよくあるビジネスホテル、可も無く不可も無いので部屋や朝食のバイキングについては特に感想は無い。ただ、チェックイン時間の2時間も前だったが「掃除終わってるから」と部屋を使わせてくれた。親切なのか南の島のテキトー気分なのか、いずれにせよ助かった。
部屋に荷物を置いて、小さなバッグにノートやカメラを入れて、Kと一緒に平良市街の散歩に出る。途中、個人(宮古島出身の女流画家)の美術館があり、Kはそれに興味を持ったが、私は市場を見たかったのでそこでKと別行動となる。
Kと別れた後、港近くの公設市場を覗くが、日曜日でほとんどが休みだった。港へ行って伊良部島への船便の時刻表を確認し、上記の人頭税石を見に行った。そこから、その他の史跡、文化財などを見て回ったが、それらについては特に感想は無い。
ホテルの近くに個人経営の小さなスーパーがあり、今が旬の落花生など土地の産物が並んでいた。後で沖縄にもある大手のスーパーも覗いてみた。そこの品揃えは沖縄のそれとほとんど変わらずつまらなかったが、小さなスーパーは地域性があって良かった。
人頭税石からその小さなスーパーへ行く途中に洋装店と鮮魚店を見つけた。私が高校生の頃まではどちらも家の近所にあったが、今はもう少なくとも私の生活する周辺では見られないもの。小さなスーパーと共に懐かしい景色であった。
4)忙しい飲み屋
夕方、Kと飲みに出る。民謡(特に宮古民謡)のライブがある酒場で飲む予定であり、そのような店も午後の散歩の時に見つけていた。店は平良(ひらら)の中心街にあり、上演開始時間は7時半、それまでまだ1時間余あったが、想定の範囲内。その前に別の店で軽く一杯と思って、予めホテルの人に「魚の美味しい店」を訊いていた。
ホテルの従業員が「魚が美味しい」と勧めた店は『海王丸』という名。ホテルの従業員の舌は確かなようで、久々に美味い刺身を食った。写真を撮るのを忘れたが、マグロ、アカマチ、タマンなどいずれも宮古島近海で獲れたという新鮮なもの。
Kが「ぜひ食べたい」と頼んだ魚のバター焼き、沖縄の海産物料理店ではお馴染みの人気メニュー。魚は日によって違うようだが、その日の魚はタマン、タマンは高級魚だ、刺身でも美味しい魚。それをバターで焼く。美味しかった。
魚のバター焼き、注文してから出てくるまで長い時間がかかった(お陰で民謡ライブを諦めなければならなかった)。「バターの風味が中まで染み込むようにじっくり焼くから時間がかかる」と店の主人が言い訳したが、確かにそれもあって美味いバター焼きになっているのであろうが、遅くなったのはおそらくそれだけのせいではない。
その店はビール頼んでも出てくるのが遅かった。そもそも何かを注文するのにもすぐにはできなかった。何故か、店内は40~50席あり、その時も30人ばかりの客がいたのだが、店のフロアー係はたったの一人だった。一人ではとても30人は捌けない。厨房も亭主と女将さんの二人だけ、亭主と女将さんも時々料理を運んでいた。
会計の時、女将さんに訊いた。
「こんなに人気のある店ならフロアーにあと2人は必要でしょう?」
「バイト雇ってもあまりの忙しさに辞めてしまうのよ」と女将さんは言い、「私は中で焼き物など料理しながら、テーブルに料理を運んだり、こうやってレジもやる。忙しくて大変なのよ。」と愚痴をこぼした。確かに女将さんは疲れた顔をしていた。「頑張って、料理はとても美味しかったよ」と思わず激励してあげた。
5)宮古島情報:沖縄県離島情報サイトから抜粋
宮古島は沖縄本島から南西に約300km、東京から約2000km、北緯24~25度、統計125~126度に位置し、大小6つの島(宮古島、池間島、来間島、伊良部島、下地島、大神島)で構成されています。宮古島市の総面積は204平方km、人口約55000人で、人口の大部分は平良地区に集中しています。
3、多良間島(2泊目)
1)緑豊かな島
翌9月10日、宮古島空港9時25分発の飛行機に乗り、空路多良間島へ。
多良間島は小さな島だ。飛行機も小さなプロペラ機である。私はジェット機よりこっちの方が好き。ジェット機は一所懸命飛んでいるように感じるが、プロペラ機は楽に飛んでいるように感じ、何か安心感がある。たとえ故障してプロペラが止まっても、グライダーのように飛んでくれ、ゆったりと無事に着陸できるような気がする。
空から見る多良間島はほとんど緑の島であった。後で調べると畑と牧場がたくさんあって、集落は少しだけだった。畑のほとんどはサトウキビ畑とのこと。
2)まもる君
多良間空港に着いたのは午前10時頃、多良間は雨が降っていた。同行のKは村経営の有料マイクロバスに乗ってさっさと宿へ向かった。私は11時まで空港に足止め、雨が上がるのを待って歩く。海岸沿いの道を宿方面へ向かう。多良間島の風を感じる。
空港を出てすぐの交差点で有名人を見る。写真では良く見ているが、実物は昨日の宮古島で初めて見た。それがこの多良間島でも住人の安全を見守っていた。名前を宮古島まもる君というのだが、多良間島を見守っているのは多良間島まもる君と言うのだろうか?宿へ着いたら訊いてみようと思ったのだが忘れて、不明のまま。
途中、白い砂浜の広がる浜辺で一休み、展望台で一休みなどしてのんびり歩く。野原に放たれているヤギをたくさん見る。どうやら、多良間の人はヤギが好き(もちろん、食べ物として)なようである。村の主産業はサトウキビ生産と畜産業で肉牛の飼育も盛ん、ということで、牛とも何度か遭遇した。もう1つ、珍しいものにも出会った。ヤシガニ。野生のヤシガニを見たのは、私はたぶん初めて。小さいのでまだ子供だと思われた。
3)八月踊り
ぶらぶら歩いていると史跡らしき構造物に出会う。「土原ウガン」と名前がある。ウガンとは沖縄島でも同じ発音で「御願」と書き、神へ祈る場所の意。後で調べると、多良間の重要な行事「八月踊り」の舞台になるとのこと。「八月踊り」とは「旧8月8日に行われる伝統芸能、国の重要無形文化財に指定されている」とのこと。
4)見つからない村花
事前に読んだガイドブックで多良間村の村花がベニバナ(紅花)であることを知っていて、「紅花って有名な染料だ、サンフラワー油の原料だ」と思って、「ぜひ、実物にお会いしたい」と歩きながら探してみたが、見つからない。「村の花だ、役場へ行けば、そこの庭にはあるはず」と多良間村役場を訪ねた。何人かに訊いたが「分からない」、「たぶん、あの人なら分かるかもしれないが、今不在」などとなって、結局、ベニバナの在処は不明のまま、その後も歩きながら探してみたが会うことはできなかった。
ちなみにベニバナは、「キク科の一年草。小アジア・エジプト原産の染料・油料用植物。高さ30~90センチメートル。夏、紅黄色のアザミに似た頭状花をつける。・・・古くは花冠を採集して染料や紅を作った」(広辞苑)のこと。紅って口紅の紅であろう。
5)多良間シュンカニ
宿に着いたのは4時頃、チェックインしてすぐにまた散歩に出る。宿へ着く前に「多良間シュンカニ大会」というポスターを見ていた。シュンカニは初めて目にする言葉だが、想像はつく。ウチナーグチ(沖縄語)でいうところのションガネーであろう。ションガネーは「しょうがない」という意味であることをラジオの民謡番組かなんかで聞いた覚えがある。であるが、沖縄語辞典に記載がないので正確には不明。
ションガネーというと「与那国ションガネー」という民謡が有名。沖縄では「与那国ションガネー」と発音され、表記されるが、地元与那国では「与那国スンカニ」となる。歌詞の内容は「多良間シュンカニ」も含め、ウヤンマー(各離島に派遣される首里役人の現地妻のこと、各離島にいた)の悲しみを描いたもので、似たようなものだと思われる。詳しく書くと長くなるので民謡「ションガネー」については別項で。
多良間では「多良間シュンカニ」と発音され、表記されているが、「多良間ションガネー」という題の沖縄芝居もあり、これもウヤンマーの悲哀を描いたもの。
6)気さくな民宿
宿に戻ったのは5時半頃、宿の庭にあった椅子に腰かけ夕涼みする。途中で買ったビールを飲みながら旅日記を書いていると、庭の奥、といっても私が座っている場所から10mと離れていないが、そこにテーブルがあって3人のオジサンと1人のオバサンがユンタクしていて、その内の1人から「一緒にどうか?」と声がかかった。人懐こい性格ではない私だが、人と話するのは嫌いじゃないので、すぐに合流する。
互いに自己紹介する。4人は、70代と思われる男性がこの宿のご主人、60歳位の男性は近所の人でご主人の友人、50代と思われる夫婦は別の宿に宿泊していて、兵庫県からの旅行客。「別の宿の客が何故?」と訊くと、60歳位の男性が生業としているシュノーケリングツアーに参加し、彼の友人である御主人を紹介され、そんなこんなの繋がりで宴会となっているとのこと。60歳男性はまた、那覇から7年前に多良間島に移住して、海の案内の仕事をしているということも語ってくれた。
楽しい話を聞いている途中、宿の女将さんから「夕食準備できたよ」と声がかかって、私は1人中座する。美味しい食事を全部食べて腹いっぱいになって、すぐにまた、庭のテーブルに戻る。部屋でボーっとしている同行のKに「外で一緒にどうだ?」と声をかけると、「何でもっと早く声をかけないんだ!」と怒る。「何言ってんだこいつ、参加したければ自分の意思で参加すりゃあいいだろうが」と思ったのだが、まあ、ともかく、その後はKも加わって6人で楽しい宴会となる。気さくな民宿であった。私は大満足。
7)古き良き時代のカフェ
ぐっすりたっぷり眠って9月11日、朝6時半頃起きる。ぐっすりたっぷり眠っているが、昨夜飲み過ぎたのだろうちょっと二日酔い。7時半に朝飯食って、8時過ぎに散歩へ出る。朝飯も美味しくて全部食べたので腹が重い、畑道を港に向かってのんびり歩く。9時過ぎには宿に戻って、準備して、バスに乗って空港へ。散歩しても消化が進まないのか腹は重いまま、元気が出ない。空港でコーヒーを飲んで、後はボーっと出発を待つ。
コーヒーを飲んだのは空港内の喫茶店。名前が「ヘミングウェイ」とカッコいい。『老人と海』の作者であるあのヘミングウェー、喫茶店では無く珈琲屋とあった。マスターは初老の紳士、ハードボイルドとダンディズムという言葉が似合っていた。
10時15分発、多良間島から宮古島への飛行機に乗る。
8)多良間島情報:沖縄県離島情報サイトから抜粋
多良間島は、宮古島と石垣島のほぼ中間に位置し、亜熱帯気候に属した楕円形の島で、約8km離れた水納島とともに多良間村に属します。
北側に標高約30mの八重山遠見台があるものの、全体的には平坦な地形をなし、島のほとんどが耕作地として利用され、農作物や家屋を守るフクギ並木とともに豊かな緑をたたえています。
ちなみに、今回訪れることはできなかったが、多良間島のすぐ近くにある水納島についても同サイトに紹介されている。
水納島は、多良間島の北約8㎞の海上に浮かぶサツマイモ形をした亜熱帯気候の小さな島です。
昔は集落があり、大勢の住民が漁業を中心に生活していましたが、人口の減少が進んだ結果、平成24年(2013年)3月現在、5人が暮らすのみとなっています。
美しい自然が残る水納島へは定期船がありませんが、多良間島からチャーター船で渡ることができます。
とのこと。
記:2017.3.4 ガジ丸 →ガジ丸の日常目次