ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

オジサンにはオジサンの歌 いとうたかお3

2007年02月23日 | 通信-音楽・映画

 子供の頃、小学校高学年から中学にかけて、テレビの歌番組をよく観ていた。グループサウンズ全盛期の頃で、私もそれらを聴いていた。ところが、私の父はグループサウンズが大嫌いで、父が家にいる時は、グループサウンズの出ている歌番組を観ることはできなかった。父は歌そのものは嫌いでは無い。三波春夫や村田英雄などの演歌や、昔の歌謡曲、いわゆる懐メロは大好きで、そういう番組は観ていた。当時、ほとんどの家庭がそうだったと思うが、我が家にテレビは1台しか無く、チャンネル権は父にあった。
 父が大好きな懐メロを、私は大嫌いだった。後に、懐メロにも良い歌がたくさんあることに気付いたが、グループサウンズを「くだらない!」と言い、懐メロを「すばらしい」と言う父に対する反感もあって、当時は、「坊主憎けりゃ」だったのである。

 オジサンバンドをやっている友人がいる。彼らが演奏するのは主に昔のグループサウンズである。私も子供の頃は好んで聴いた音楽なのだが、今は全く興味が無い。彼らの演奏を付き合いで何度か聴いているが、演奏している時間、私はちっとも楽しくない。何で今更、オジサンになってまでも青春の歌なんだ、と思う。父が懐メロを好んだのと同じ感性を感じてしまう。ただのノスタルジーじゃねぇの、って思う。
 なんていう私も、実は、高校から大学にかけて好んで聴いていた歌をずっと聴き続け、オジサンになった今でもたまに聴いている。私も脳廃る爺なのである。

 クラシックやジャズなどにも好きな音楽はいくつかあるが、日本語の歌で、若い頃から聴いているお気に入りは一昨年亡くなった高田渡を筆頭に、友部正人、いとうたかお、斉藤哲夫、佐藤博、下田逸郎、あがた森魚、西岡恭蔵、豊田勇造などがいる。そんな中でも、大好きベスト3は高田渡、友部正人、いとうたかおの3人。

  日曜日(2月18日)、念願のいとうたかおライブに出かけた。友部正人は数回、ライブを聴いている。高田渡は1回、3年前に初めて聴いた。そして今回、私の好きな音楽ベスト3の最後の一人を聴くことができた。
 高田渡や友部正人もそうであったが、いとうたかおの音楽もまた、単なるノスタルジーではない。オジサンは、オジサンの歌を歌った。懐かしい歌も歌ってくれたが、それも、オジサンの感性で歌ってくれた。オジサンにはオジサンの歌があるのだ。オジサンも今生きており、何かを感じ、何かを語りたいのである。いいねぇー、オジサン。
          

 記:2007.2.20 ガジ丸


腰は痛くても大満足 いとうたかお2

2007年02月23日 | 通信-音楽・映画

 日曜日(2月18日)、30年来の念願であった”いとうたかお”ライブに出かけた。ライブハウスは那覇市安里、栄町市場内にある”生活の柄”という名前の店。
 『生活の柄』は沖縄が生んだ偉大なる詩人、山之口獏の詩である。その詩に高田渡が曲をつけて歌にした。高田渡の『生活の柄』は(知っている人には)有名な歌で、彼の代表作と言って良い。高田渡はまた、いとうたかおが師匠と敬愛する人である。そんな名前の店だからこそ、いとうたかおライブなのであった。

  余談になるが、栄町という街もまた面白い街なのである。栄町市場は、その近辺の庶民の台所であり百貨店である。復帰後は少し寂れてしまったが、昔は賑やかだった。私の実家はここから2キロメートルほど離れた場所にあったが、母は時々、ここまで買い物に出かけた。市場の周辺は歓楽街となっている。娼宿もあった。
 モノレール安里駅を首里方面に下りると、そこはもう栄町で、・・・いやいや、余談が長くなりそうだ。栄町についてはいずれ、別項で述べるとしよう。
          

 ライブハウス生活の柄は、1階がカウンター席(7人しか座れない)だけの飲み屋で、細い急な階段を登って2階がライブ会場となっている。2階はしかし、ライブの無い日はテーブルが置かれ、飲食の席となるみたいであった。そんな造りであった。
 2階は2間あって、両方とも12畳くらいの板間の座敷。ライブの時は1間が出演者の控え室となって、もう1間をライブ会場としているみたいである。12畳は、テーブルを片付けても狭い空間、そこにステージを設け、客は座布団の上に座る。客同士肩寄せ合っても20人は座れない。その日の観客は20人に満たなかった。
  いとうたかおは痩せたオジサン。優しそうなオジサン、私の持っていたイメージと実物にほとんど違いがない。柔らかそうな雰囲気を持ったオジサンであった。客は20人に満たない少人数であったが、オジサンは楽しそうに歌う。小さなライブハウスは気持ちの良い空気に包まれた。念願のライブは、満足のいくライブであった。
          
 
 演者もオジサンだが、私もオジサン。オジサンは板間に座っての3時間がきつかった。腰もケツも膝も痛かった。会場は気持ちの良い空気が流れていたが、オジサンの体はあちこちで血流が悪くなり、居心地悪い状態となっていた。
 その日の同行者は、美人妻Iさんの他に、友人のT夫婦も一緒。Tの女房Mは、歳の割りには若々しい肉体の持ち主で、ずっと平気な顔をしていたが、Tは歳相応の肉体のようであった。ライブの間ずっと辛そうにしていて、本編の演奏が終わると、アンコールは聴かずに、女房を促してさっさと帰ってしまった。私もまた、腰膝を痛くしていたが、大好きな歌手のアンコールを聴き逃すことは無い。いつもは2曲というアンコールを、いとうたかおは特別に3曲歌った。普段一人で歌うことは無いという歌を一曲、特別に加えてくれた。敬愛する高田渡の『生活の柄』であった。私は、満足の上に満足を重ねた。

 記:2007.2.20 ガジ丸


念願のライブ いとうたかお1

2007年02月23日 | 通信-音楽・映画

 高校生の頃に、「これはいいよ」と2枚のLPレコードを先輩が貸してくれた。聴いて、2枚共に感動した。高田渡の『系図』と友部正人の『にんじん』であった。それらはカセットテープにダビングして、以降、何度も聴くお気に入りの音楽となる。
 感動したのであれば普通、彼らの別の歌をもっと聴きたくなるはず。よくは覚えていないが、当時、高田渡も友部正人も他にアルバムがあったに違いない。でも、私はダビングしたテープを繰り返し聴くだけで、他のアルバムを買うことは無かった。当時パチンコ屋通いを趣味としていた私は、レコードに2000円を費やすなど思いも及ばなかったのである。2000円あれば、パチンコに使い、負けて、後悔する日々であった。
 大学生になって、友人が1枚のLPレコード貸してくれた。聴いて、感動した。レコードは”いとうたかお”のファーストアルバムであった。これもカセットテープにダビングして、以降、何度も聴く3つ目のお気に入り音楽となる。

 お気に入りベスト3のうち、友部正人のライブは、学生の頃に吉祥寺で何度か経験している。沖縄に帰ってからも、そのライブやコンサートに何度か出かけている。
 高田渡はずっと機会が無かったが、3年前やっと、その生歌を聴くことができた。沖縄でライブがあったのだ。亡くなる1年ほど前のことであった。
 いとうたかおもずっと機会が無かった。友部正人や高田渡は後年、そのCDを手に入れたが、いとうたかおはCDも無い。ダビングしたカセットテープは、何度も聴いたためにヨレヨレとなり、10年ほど前から聴けなくなっていた。CD、手に入れようと思えばできないことは無い。だけど、いつか旅先でそのライブに出会うことがあろう。その時に、その場でCDは買うことにしようと決めていた。

 そして先日、日曜日(2月18日)、ついに、念願のライブに出かける機会を得る。旅先では無く、沖縄のライブハウスで。最初に彼のレコードを聴いて、いつかライブを聴きに行こうと思ってから30年近くの月日が流れていた。
 模合(正当な理由のある飲み会)仲間のIさんと、Tを誘った。

  ライブハウスは”生活の柄”という名前。ちらしに、住所が栄町と書かれてあったが、栄町のどの辺りにあるかを知らなかった私は、近くにあるスーパーの前で、私が密かに愛人3号と呼んでいる美人妻Iさんと待ち合わせた。
 私の大好きないとうたかおだが、おそらく沖縄では知っている人は少なかろう。会場が混むということは無かろう。というわけで、待ち合わせ時間は開演の10分前、彼女がちょっと遅れ、店をちょっと探したせいもあって、着いた頃には開演時間となっていた。
 ところが、ライブの始まりそうな気配が無い。訊けば、開演は8時とのこと。「えっ、ちらしには確か開場6時、開演7時とあったぜ。勝手に予定変更かよ!」と私は心の中で文句を言うが、しょうがないので、そこで飲み食いし、時間を待つことにした。
 ビールを一口飲んで、壁に貼られているライブのちらしを見る。そこには、開場7時、開演8時とあった。バッグの中から、自分が持っていたちらしを出し、確認する。そこにもやはり、開場7時、開演8時とあった。30年近く待った念願のライブなので、私の気が早って、開場7時を開演7時と見間違ったようである。
 「勝手に予定変更かよ!」と文句を口に出さなくて良かった。 
          

 記:2007.2.20 ガジ丸


曲者の演出、長い散歩

2007年02月16日 | 通信-音楽・映画

 先週土曜日(2月10日)、大好きな桜坂劇場へ行った。映画『長い散歩』を観に。
 『長い散歩』は曲者が演出している。監督が曲者なのである。ちなみに、曲者は「まがりもの」では無い、「くせもの」と読む。時代劇の、ある屋敷の中で、そこの侍が急に立ち上がって、壁に掛けてある槍を取り、その槍で天井を突く。そして叫ぶ。「曲者じゃ、出会え、出会え!」と。その場合の曲者は概ね忍者であることが多い。
 念のため、曲者を広辞苑で引くと、
1、ひとくせある人物。変り者。変人。
2、異常な能力をそなえた人間。
3、妙手。やり手。
4、えたいの知れないもの。用心すべきもの。
5、ばけもの。怪物。
6、あやしい者。不審な者。
などとある。「監督が曲者」で私がイメージする曲者とは、「その男が画面に登場するだけで、何か良からぬ事が起こるんではないかと胸騒ぎがしてしまう。」ような俳優。上記の広辞苑の説明では、1~6までの全ての性格を持った人。

 曲者俳優というと、もうだいぶ前に他界しているが、岸田森なんかが思い浮かぶ。今も大活躍している岸部一徳や火野正平なんかも思い浮かぶ。そして、「その男が画面に登場するだけで、何か良からぬ事が起こるんではないかと胸騒ぎがしてしまう。」ような俳優に最も当て嵌まるのが、映画『長い散歩』を監督した奥田瑛二。
 桜坂劇場から毎月送られて来るスケジュール表に『長い散歩』が紹介されていて、その監督が奥田瑛二と知って、曲者が監督する映画だ、観に行かなくちゃと思った。桜坂劇場からはスケジュール表と一緒にその月、及び翌月上映される映画のチラシなども送られてくる。『長い散歩』のチラシもあった。映画を観る前にそのあらすじ、他人の感想などを私は読まないが、キャッチコピーと出演者くらいは見る。
 「人生は長い散歩。愛がなければ歩けない。」とある。徳川家康は人生を坂道に喩え、苦労して登るものだとしていたが、のんびり屋の私は、「長い散歩道をぶらぶら歩く」方に賛成する。そして、愛は必要である。愛されることもだが、愛することが特に。

  さて、曲者の映画は、「どーゆーこと?」と思うような場面がいくつも現れた。だが、曲者はそれらの説明を十分にしない。「どーゆーこと?」は、登場人物の仕草や表情から「なーんとなく」は読み取れるのだが、はっきりしない。だけど、はっきりしないことがモヤモヤとはならない。その場面の空気が余韻として残るみたいになった。演出が上手いのだと思う。役者の演技も良い。緒方拳は上手い俳優だと再認識もした。
 状況設定があんまり悲惨なので、この映画の空気はファーストフードみたいに手早く感じ取ることができる。しっかりとした味を持つ空気。そこはかとない味を好む私には、ちょっと濃過ぎる味ではあった。でもまあ、良い映画でした。

 後でチラシを読んで知ったことだが、奥田瑛二は、『長い散歩』が3本目の監督作品とのこと。残りの2本も観てみたいと思った。曲者は、なかなかの曲者みたいである。
          

 記:2007.2.16 ガジ丸


筋肉では無く脳の問題

2007年02月16日 | 通信-社会・生活

 1月の最後の日曜日(1月28日)、知人で木工家のMさんを見舞いに病院へ行った。Mさんは脳腫瘍とのことであった。手術で大きな(鶏卵大)ものを摘出したが、まだ少し残っており、それを放射線と薬によって治療しているとのこと。
 「そんな大きな腫瘍ができるまで気付かなかったの?頭痛とか何か、自覚症状みたいなものは無かったの?」と訊いた。
 「真っ直ぐ歩いているつもりが、曲がってガードレールにぶつかったり、タンスにぶつかったり、水平に持っているつもりのコーヒーカップが斜めになってこぼしたりした。右側に腫瘍があったので、左手、左足の感覚がおかしかった。」とのこと。

 去年の暮れ、驚くことが我が身に起こった。車に乗ろうとドアを開けたときに、ドアの上方角が私の頬にぶつかったのだ。「今日は晴れそうだな」と空を見上げながら開けたので、ドアを見てはいない。見てはいないが当然、ドアの取っ手に右手をかけ、右手と体との間隔は把握できているはず。なのに、ドアが頬にぶつかった。いつも通りに普通に開けたので、「いてっ」て声が出るくらいに痛かった。
  そういえば、我が身と物との間隔を把握する能力の衰えは以前からあった。食器を洗って、それを食器乾燥機に入れる際、乾燥機の中にちゃんと置くことができなかったことが過去に何度もある。乾燥機の角に食器をぶつけ、落としてしまい、割っている。
 そういった運動能力の衰えは、筋肉では無く脳の問題なのだ。「うー、もしかしたら俺も、脳に何らかの異変があるかも」と少し不安になる。が、生来楽天家の私はすぐに思いなおす。私の場合は、脳に何らかの異常があるのでは無く、単に、加齢による能力の衰えなのだと。それが証拠に私の場合は、左右関係なく運動能力が衰え、また、記憶力もずいぶん衰えている。脳全体の衰えなのである。病気では無く、老化なのである。

 ということで私は一安心する。そういえば、一年くらい前から夜中1回は目が覚めるようになった。小便である。頻尿である。「よし、やはり老化だぜ。」と、老化であることの証拠をまた一つ見つけて、さらに安心度が増す。幸せな気分に浸る。
 「老化を喜ぶなんて変」と思う人もいるだろうが、これがたぶん、オキナワ的暢気な生き方ではないだろうか。歳取って歩くのがきつくなったり、物忘れが多くなったりしたとしても、生きてりゃあたいてい、いつも幸せということ。たとえ、入院手術なんて状況になったとしても、生きてりゃあ幸せと思えるような精神で、私はありたい。
 木工家のMさんは、病に倒れる前、「パソコン教えてくれー」と私のところにたびたび来ていた。彼は病室にパソコンを置いていた。病気の治療は大変そうであったが、彼はそんな中、パソコンを勉強していた。彼には明日があり、来年もあり、おそらく20年後も30年後も見えるのだろう。彼もまた、真っ当なウチナーンチュなのである。 
          

 記:2007.2.3 ガジ丸