今月(2月)15日から、旧居から新居への引っ越し荷物運びをしている。
その最中の20日、午前中に旧居から新居へのエアコン移設を業者に頼んでやってもらい、私は私で相変わらず荷物運びをした。その日までにたくさんの荷物を運んでいて、腰痛はきつくなっていた上、その日運んだのは少々重いもの、腰は悲鳴を上げていた。
新居の建物に喫茶店があり、そこは以前から馴染みにしており、その日、荷物運びが終わった後に顔を出す。店長のH子と、その友人のM子が客として来ていた。H子もM子も私よりほんの少し年上、H子は従姉で、M子も若い頃からの顔馴染み。
「引っ越し作業で腰痛ぇ。」と私が愚痴ると、
「自分でやっているの?」とM子。それに肯くと、
「何で業者に頼まないの?1日で終わるよ。」
「うん、これまで何度も自分でやってきたし、今度も自分で出来ると思ったんだ。腰のことを考えれば、業者に頼めば良かったと後悔しているよ。」
後悔先に立たずと知ってはいるが、ついつい愚痴ってしまった。
引っ越し準備のついでに家中のダンシャリを年末からずっと続けているが、年明け1月には想い出のレコード、CD、書籍などを処分した。LPレコード、CD、書籍は既に、前の前のアパートから引っ越す際(2011年9月)、大量に処分しているが、想い出のいっぱい詰まったものは捨てられずにいた。例えばLPレコード、最後の最後まで残っていたのは13枚。それらも友人たちに引き取って貰い、全て処分。
最後まで残っていたLPレコード13枚の中に友人の自主製作盤がある。友人Kが約40年前に製作した全10曲のアルバム。10曲全て彼の作詞作曲、歌も編曲も演奏も、全て彼自身によるもの。その全10曲はMP3化してパソコンに取り込んである。
友人Kのレコード全曲のMP3データをUSBメモリに入れて彼にプレゼントしたのはごく最近、今年(2018年)1月下旬のこと。それを聴いて彼も懐かしく思ったに違いない、すぐにメールがあった。そのメールに対し私は、「私は(歌を聴いて)ノスタルジーで涙が出た」と返信した。「涙が出た」は少し誇張だが、ウルウルは確かにした。友人Kのレコードは我々が大学時代に生まれたもの。40年前がすぐに蘇った。
想い出もダンシャリしようとしている頃は、腰痛になって、畑を辞めるとなって挫折感に浸っている頃、「バカなことをした」と自己嫌悪にも陥っている頃だ。ノスタルジーとは別に、「お前、大丈夫か?」と問われているように感じることもあった。
KのLPレコード全10曲、その中の1つに、
お前はいつも愚痴ばかり そんならさっさとやめちまいなよ
という歌詞の出てくる歌がある、10曲の内の1番目だ。それが心に響いた。友人Kはもう40年も前に「愚痴をこぼすことはくだらないこと」と悟っていたわけだ。
その歌『お前はいつも愚痴ばかり』を聴いて、初めて聴いた日から約40年後、爺さんにならんとする年齢になって「もう愚痴はこぼすまい」と、私は思った。「やっちまったことはしょうがない」と開き直って、「腰が治らなくてもそれなりに生き様はあるだろうさ」と、確たる根拠は無いが、そんな希望を持つようにした。
記:2018.2.23 島乃ガジ丸
「お前、俺の女を盗ったな!」と男が怒鳴る。その目は怒りに満ちている。
「あんたの女って由美子のことか?」と私は応える。
「やはりそうか、由美子を知っているようだな。」
「そりゃぁ知っているさ、だけど・・・」
などと会話があって、その後、私は何とかこの場を治めようとあれこれ言い訳をし、何とかかんとか険悪ムードを和らげることができた。そして、
「そうか、分かった。じゃ、仲直りだ」と男は微笑んで手を差し出す。私は握手のつもりでその手を握ったのだが、その途端、男の表情が変わり、手に力を込めた。
男の強い握力で私の手は潰れそうになる。私は負けじと強く握り返し男を部屋の中に引き摺りこみ、倒して、うつ伏せにして、彼の背中に跨り、彼の首に腕を回して、首を上に引き上げるようにした。その状態が数分続いて、男は動かなくなった。
動かなくなった男の傍に立って、死んでいることを認識して、「どうだ!俺は人を殺すこともできるんだぞ」と、私は誇らしげな気分になっていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夏場は寝苦しくて、ぐっすり睡眠ができないのだが、寝苦しくない時期(10月頃から5月頃まで)は概ねぐっすり睡眠となる。ぐっすり睡眠だとレム睡眠、ノンレム睡眠を規則正しく繰り返しているからだろうと思われるが、夢を多く見る。
私の夢は楽天家らしく、ほとんどは楽しい夢なのだが、ところが、腰痛で生きる自信を失いつつあった去年10月頃からは、「吉永小百合と恋人同士」が唯一楽しい夢で、ほとんど全てが嫌な夢であった。上記のお話はその中の1つ。
その夢、「誇らしげな気分になって」はちょっとの間のことで、そのすぐ後、私はオロオロして、不安な気分に襲われて、そして、不安な気分のまま目が覚めた。
自給自足芋生活の夢に挫折し、社会にも自分の人生にもほとんど役に立たない5年半を過ごしてきたことに気付き、自分の大バカにも気付いて自己嫌悪に陥って、思い悩んで眠れないという日が昨年12月半ば頃から明けて1月末までしばしばあった。ぐっすり眠れない夜は夢を見ていないようで、その間、記憶に残る夢は1つもない。
まあまあのぐっすり睡眠ができるようになったのは2月に入ってから。夢も見るようになった。ところが、腰痛のせいか、楽天家らしい楽しい夢はほとんど無かった。楽しい夢は2月21日未明に1つあっただけ。記憶はおぼろげだが、美女に囲まれていた。
先週のお話『うしろの泣く太郎』の中で、「子供には好かれる方であったが、去年の9月頃から見向きもされなくなった。・・・俺の守護霊に何か異変が起きたのか?悪霊に憑依でもされたのか?」といった内容のことを書いたが、今週月曜日の夕方、大家さんと、大家さんの縁側でコーヒー飲みながらユンタク(おしゃべり)していると、近所の男の子(後で訊いたら3歳とのこと)がニコニコしながら声をかけてきた。
「オジサン、誰のオジサン?」、「オジサンってお爺さん?」といった質問に答えながら、あれこれ15分ほどおしゃべりする。男の子はずっと笑顔だった。
その翌日の夕方、半年ほど私を無視していた隣のA嬢(幼稚園児)が久々に笑顔を見せながら近寄って来た。声は交わさなかったが、彼女は笑顔のまま私の傍に立っていた。雰囲気としては半年前に戻った感じ。「悪霊に憑依された私の守護霊が元に戻ったのかもしれない、それを彼女は感じたかもしれない」と思った。
で、私の心が安心したのか、翌日の未明に美女に囲まれる楽しい夢を見た。夢はその時の、己の心の状態を現しているのかもしれない。
記:2018.2.21 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次
2月4日、全国的にも注目されていた名護市長選の投開票があった。その夜、私はいつものように9時過ぎには寝ていて、その時間までに選挙結果は出なかった。私が結果を知ったのは翌朝6時過ぎのラジオのニュースで。私としては残念な結果であった。
その結果を聞いて思い出した言葉がある。いつだったか、もう10年以上も前だったと思うが、ある選挙結果(自民党系の候補が勝利した)を聞いて従姉Mが「ムヌクイーシドゥだね」呟いた。「何それ?」と訊くと、「物を与えてくれる人が主人という諺みたいなのが昔からあるのよ」という答え。今回の名護市長選もそういうことかもしれない。
「物を与えてくれる人が主人」というと、「寄らば大樹の陰」とか「長い物には巻かれよ」という諺を連想する。両方とも概ね「力のある者ものに従った方が得」といった意味であるが、「物を与えてくれる人が主人」もそれと同じようなことであろう。
「・・・であろう」で済まそうと思ったが、念のため、ムヌクイーシドゥを改めて調べてみた。それは『沖縄大百科事典』に詳しく載っていた。それによると、
1469年、第一尚氏王統から第二尚氏王統への政権交代の時の安里大親の言で、その全文は「虎ぬ子や虎 悪王ぬ子や悪王 物くいいしどぅ我御主 内間御鎖どぅ我御主」となっている。この言の主旨は「物くいいしどぅ我御主」で、その沖縄語発音は「ムヌクイーシドゥ ワーウシュー」で、その意は「物をくれる人が我が主人」となる。
内間御鎖とは第二尚氏の始祖、内間金丸のことで、国王となって尚円と名乗る。ちなみに、安里大親の大親も、内間御鎖の御鎖も役職名とのこと。
『沖縄大百科事典』の解説では、「自分に食べ物を与えてくれる者を主人として仰ぐことは、権力追従主義、事大主義に通じるとされ、沖縄的心情批判の例として取り上げられたことわざであるが、・・・物をくれる人とは、むしろ民生の安定に心を配る主権者の意であり、・・・一種の民主革命の肯定と解釈される」となっている。
従姉Mが「ムヌクイーシドゥだね」呟いたのは、この解説でいう前半部分の「権力追従主義、事大主義」という批判的な意味であったと思う。私もその時そういう意味で捉えていて、今回『沖縄大百科事典』で調べるまではそう思っていた。
しかし、「物くいいしどぅ我御主」が『沖縄大百科事典』の解説の後半部分「民生の安定に心を配る主権者」という意であれば、それはそれなりに納得できる。
兎にも角にも、政治は、戦争のない平和な社会であることが前提となるが、民衆が生活できるようにすることが大事だと思う。その為にお金が必要なのであれば、お金を得る算段のできる者が主人(首長)であってもいいと思う。自民党の全面支援を受けて当選した名護新市長は、おそらく国からお金を得ることができるであろう。名護市はそれでいくらか潤うであろう。新市長はそれで首長合格になると思われる。
それでもしかし、今回の名護市長選の結果を私は残念に思っている。確かにお金は大事だ、生活するために必要な物。だから私も「働いて稼ぐ」を今年の目標としている。
それでもなお、「何で沖縄なの?」が疑問。そこに差別を感じてしまう。前の戦争の時と同じように「沖縄は犠牲になっても構わない」という差別。なので、国に一矢報いたいという気持ちが私は強い。なので、名護市長選の結果はとても残念に思った。
記:2018.2.16 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
「闘え!」と耳元で声がする。たぶん、私の守護霊の声だと思う。
「嫌だよ、怖いし、どうせ勝てねぇよ。」と私は応える。
「周りの者達だけでなく、お前自身も憑依されかかっているんだぞ!」
「いいよ別に、周りは関係無ぇし。俺だってどうでもいいよ。」
「本当にどうでもいいと思っているのか?よく考えろ、今ならまだ間に合う。」
などという会話があって、「よく考えろ」と言われたようによく考える。「俺はホントに俺がどうなってもいいと思っているのか?」を考え、「周りの人達も助かるかもしれない」を考え、そして、呑気な怠け者の私も、ついに立ち上がった。
が、しかし、いざ相手と対峙すると、敵は予想以上に大きく、恐ろしげな形相でいかにも強そうであった。私は怖くて逃げようとしたが、周りにも励まされて闘う。
地上で闘い、不利な状況となった私は高層ビルの屋上に上る。そこでも最初は不利であったが、「死ぬかも」という恐怖を抱きながら何とか踏ん張って闘い続け、そして、「勝たなきゃ」という気持ちが強く湧いてきた。「えーいっ!糞ったれ!」と大声で叫んで、立ち上がって魔物を見る。その時、魔物はフェードアウトするように消えた。
ビルの屋上から1階に下りると、若い女性(20代半ば)が満面の笑みで掛け寄ってくる。私はその鼻を指でつまんでそのまま後方に投げ飛ばす。女性は投げ飛ばされ背中を地面に叩きつけられたのだが、立ち上がって、またも満面の笑みで掛け寄ってくる、私はまたもその鼻を指でつまんでそのまま後方に投げ飛ばす。それで、彼女は魔物の憑依から完全に抜け出せたようで、少し変な形になっていた鼻も元のきれいな形の鼻に戻って、そして、笑顔が泣き顔になって、私に抱きつき、「ありがとう」と呟いた。
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以上は2018年2月5日の未明に見た夢。覚めてから少し脚色している。
去年12月中頃からなかなか寝付けなくなってしまい、夜中何度も目が覚め、睡眠時間が1晩足して4~5時間(それだけ眠れば十分という人もいようが、私は不足)という状況が、少しずつ良くなってはいたけど、明けて2018年1月になっても続いた。まあまあ満足できる睡眠が得られたのは2月1日になってから。2月4日から5日にかけての夜は久々のグッスリ睡眠となり、お陰で、上記の濃い夢を見ることになった。
私は、大人の紳士淑女には好かれないが、子供には好かれる方で、親戚の子供達や友人の子供達とは、彼らが子供の内はたいてい仲良しになり、あちこち引っ越しを繰り返してきたが、住まいの近所にも仲良しになってくれる子供が何人もいた。
現在の住まいに越してきたのは一昨年(2016年)12月1日、隣のA嬢(現在幼稚園生)が、引っ越してきた早々、私を見て声を掛けてきた。その後もA嬢は私を見ると近寄ってきて、私も彼女の頭を撫でたりして、少しおしゃべりもしたのだが、いつ頃からだろうか、去年9月か10月頃からだったか、彼女の私を見る目が変わった。笑顔が少しも無い、私をじっと見つめて、今から考えると、憐れむような目で見ていた。
「何だ?何か言いたいのだろうか?」思ったが、その時はさほど気にしなかった。しかし、それ以降、A嬢はもう私に話しかけることは無く、私を見ることもなかった。
上記の夢を見て、そのことを思い出し、「あの憐れむような目は、俺の後ろに魔物でも見えたからなのか?」と思い、そして、『うしろの百太郎』を思い出した。
『うしろの百太郎』は私が若い頃に人気のあった漫画、作者はつのだじろうで、守護霊が活躍する内容であったことを覚えている。
守護霊がいることを前提として、「俺の守護霊がA嬢には見えたのか?見えて、これまでとは違うと感じたのか?俺の守護霊に何か異変が起きたのか?悪霊に憑依でもされたのか?」などと思い、で、今回のタイトルが『うしろの泣く太郎』となった。
記:2018.2.10 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次
もう30年ほど前になるか、「農業がやりたい」と友人のK子に話をしたら、「同級生のT女が農業やっているよ」となって、そのT女を紹介して貰い、それからしばらく(半年ほど)、T女の弟子となって農業を教えて貰った。
彼女は自然農法をやっていて、私にもそれを勧め、福岡正信の本を「読んでみて」と貸してくれた。しかしその時、私は自然農法なるものにさほど関心がなく、福岡正信の本も大雑把に読んだだけであった。不耕起、不除草、不施肥、無農薬で作物を育てる農法であるということだけは頭に残り、「そんなことできるの?」と疑問を持った。その時のT女も、無農薬で、化学肥料は使っていなかったが、自分で鶏を数羽養い、その糞は使っていた。大雑把にではあったが、耕してもいたし、除草もしていた。
10年ほど前、会社の要望で週休4日の時短となって、自由時間がたっぷり得られて、何をするかとなって、従姉の夫の土地(耕作できるのは約30坪)が空いていたので、そこを借りて、休みの日で雨で無い日には通って農作業をした。その時の農法は有機栽培、有機肥料は使った。それは、2012年夏に300坪の畑を借りるまで続いた。
300坪の畑を借りて、「どうする?」と考えて、「お金をあまりかけない農業をやろう。自然農法なら安く済むはず」と思い付く。ただ、不施肥、無農薬はいいとして、不耕起、不除草は無理であろうと、30坪の畑をやっている時に想像できていた。
沖縄の土は粘土質で、水捌け悪く、乾燥すると硬くなる。倭国の土のようにホロホロとはしていない。例えば、ダイコンやニンジンを収穫する時もそのまま引き抜くことは難しい。スコップで回りから土を掘って行き、ある程度根系部分が見えてから引き抜かないと途中から切れてしまう。他の作物の場合も、土が硬いと発芽も根の伸長も悪く、よって、生育も悪い。ということで、耕すことはする。水捌けが悪いので畝立てもする。
暖かい沖縄では年中雑草が蔓延っている。それを刈らないと土面が見えない。しかも、概ねは雑草の方が生育旺盛であり、作物は雑草の陰に隠れて生育が悪くなる。どこに何の種を播いたかも分からなくなる。よって、除草もする。
「お金をあまり掛けない農業」であれば「機械を使わず手作業でやれば、お金はさらにかからずに済むぜ」とも思い付いて、その方向で農作業を始めた。始めた頃は私も元気だった。やる気満々、手作業で蔓延る雑草を黙々と刈り、手作業で畑小屋を建て、手作業で作物を植える場所を拓き、種を播いた。300坪の畑はしかし、手作業でやるには広すぎた。作業がだんだん間に合わなくなった。そして、腰を痛めて、ついにギブアップ。
1ヶ月半ほど前(昨年12月下旬)、友人の美人料理人Iさんがやっている飲食店へ顔を出し、少しおしゃべりした。「畑はもう辞める方向でいる」と私が言うと、「私の知り合いで自然農法をやりたいと言う夫婦がいる、紹介したい。」となって、それから1ヶ月余が過ぎた今年1月27日、その夫婦と会うことになった。
その夫婦はTさんという名で、まだ若い、四十代前半から半ばくらい。ご主人が石垣島で農業をしていたが、害虫の多さ、雑草の多さ、害獣(イノシシやらクジャクやら)による被害、そして、私と同じく腰を痛めて挫折したとのこと。「沖縄で自然農法は難しい」が彼と私の一致した意見となった。沖縄で成功している人はいるのだろうか?
記:2018.2.9 島乃ガジ丸