ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

命の洗濯期

2010年10月29日 | 通信-社会・生活

 日々、都会のサラリーマンとして働いているKRは、数日間の沖縄滞在で命の洗濯ができたであろうか。日々、田舎ながらサラリーマンとして働き、一家の大黒柱として家庭を守っているIYは、数日間の沖縄滞在で命の洗濯ができたであろうか。
 「命の洗濯」、私は「リフレッシュ」という意味だと理解していた。念のためにと広辞苑を引くと、「日ごろの苦労から解放されて気ままに楽しむこと」とあった。リフレッシュとは少し意味合いが異なるみたいだ。そのリフレッシュもまた広辞苑、「気分をさわやかに一新すること。元気を取り戻すこと」とのこと。

 都会のサラリーマンに戻ったKRからは、「帰って早々風邪を引いた」とのメールがあった。IYからは「南の島の気分が抜けきれない」とのメールがあった。二人とも数日間の沖縄滞在で命の洗濯(日ごろの苦労から解放されて気ままに楽しむこと)はできたかもしれないが、リフレッシュ(元気を取り戻す)には至らなかったようである。
 さて、数日間彼らに付き合った私はと言えば、彼らが帰った後の数日間、少々体調を崩してしまった。医者に診て貰ったわけではないので正確なところは言えないが、たぶん、飲み過ぎて、肝臓が過労となって、それが心臓に悪影響を与え、それが原因で酷い肩凝りになった、と想像している。「日ごろの苦労」のあまり無い私は、「気ままに楽し」んだ分がそっくり不摂生となり、その罰が当たってしまったようである。

  広辞苑の解釈は別にして、「命の洗濯」という言葉はその字面から「世間の荒波に揉まれ、生きるに疲れてヨレヨレとなった心を、洗濯して、元気を取り戻す」と連想できる。これはリフレッシュとほとんど同じ意味となる。その意味では、世間の荒波に揉まれておらず、生きるに疲れたこともない私は、命を洗濯する必要は無い。
 「命の洗濯」という言葉はその字面から別に、「長年酒を飲み続けて脂肪の溜まった肝臓や、長年煙草を吸い続け真っ黒になった肺などを洗濯して、正常な状態に戻す」とも連想できる。その意味では、私は大いに洗濯する必要がある。心の問題では無く、体の問題だ。私の体はきっと、歳相応に錆びている。時々、体のあちこちでギーギーと錆びた機械のような悲鳴が聞こえる。私の体は、命の洗濯期に来ている。
 だからといって、洗濯機(人間ドッグ)に入ろうとは考えていない。これまで通り日々の摂生を続けるだけだ。汚れが溜まって命の終わりが来たら、それは寿命だ。
          

 「私の体は歳相応に錆びている」と考えながら、「おめぇ、自分では気付いていないかもしれないが、心だって相当錆びているかもよ」と自問する。
 「心が錆びるってどーゆーこと?」と問い返す。
 「錆びた風車は、風に吹かれても回らないんだよ。いくつになっても、心がワクワクしたり、ドキドキしたりする事に出会えた方がいいってことだ。」
 「であればさ、野山を散歩している時、見知らぬ昆虫に出会えないかとワクワクしているぞ。山道を登り切ったらドキドキしているぞ(これは違うか)。そうそう、先日、とびっきりの美女と飲みに行ったぜ。二人っきりではなかったけど、彼女がずっと隣だったので、ワクワクしていたぞ。」と自答する。私の風車はまだ生きている、はず。
          

 記:2010.10.29 島乃ガジ丸


はーーーれたそらーーー

2010年10月22日 | 通信-その他・雑感

 今週、沖縄地方はずっと天気が悪い。雨のち曇り、曇りのち雨と、爽やかな秋晴れにはとんとお目にかかっていない。だけども、私の心は晴れ晴れとしている。私には、とても良い事があった時、思わず口ずさんでしまう歌がある。それが出た。「晴ーーーれた空ーーー、そーーーよぐ風ーーー」と今日までに何度も歌っている。
 歌は、『あこがれのハワイ航路』、古い歌だ、私が生まれる前の歌だが、名曲とされていて、懐メロの番組などで何度も聞き、覚えている。私が歌うのは「晴ーーーれた空ーーー、そーーーよぐ風ーーー」の節だけだが、歌うと、幸せがさらに倍増する。
          

 私には乗り越えなければならない険しい山が二つあった。期限は今月(10月)いっぱいであった。最初の山に登り始めたのは5ヶ月も前だ。もちろん、それにかかりっきりというわけではなかったのだが、5ヶ月かけてやっと乗り越えることができた。

 相続手続きなどは普通、四十九日を終えてから取りかかるらしいが、アメリカに住む姉と千葉に住む弟が沖縄にいる間に、二人の署名や捺印を要する書類は仕上げておこうと思い、葬儀の数日後から私は動いた。相続は、銀行預金、郵便貯金の他、住宅ローンの債務相続手続きがあり、そして、土地建物の登記移転手続きがあった。
  最初に銀行に行って、担当者から話を聞いて、その後、友人知人にも相談した結果、姉や弟がいる数日間で相続手続きの書類を揃えることはとても無理であると判明した。債務相続手続きと登記移転手続きは特に難しいと聞いた。友人の内の何人かは、「そんなの普通は税理士か司法書士に頼むもんだぜ。」と助言した。
 姉が父の預貯金から多額を使い込んだせいで、父は預貯金よりも借金が多かった。それに私は、大きな声では言えないが貧乏である。借金をぱっと支払う金は無い。ローンの代表相続人にも「あなたの収入ではなれません」と銀行に言われたくらいだ。なので、諸々の相続手続きを税理士に頼む金もケチらなければならなかった。

 債務相続手続きが終わらないと銀行預金相続手続きはできないということなので、それから先ず取りかかる。これが最初の険しい山であった。二ヶ月を費やし、何とかかんとか提出書類の合格を貰った。ただし、登記移転ができたという証明書がなければ最終的な合格は得られないとのことなので、さっそく登記移転手続きに取りかかる。
  登記移転手続き、これが二番目の険しい山であった。法務局へ何度も通うことになる。初回に、相続するためにはどのような方法があるかを聞いてから、資料を読んで勉強した後、今月(10月)15日、遅れていた姉からの書類がやっと届いたので、必要書類を全て揃えて申請する。しかし、申請書の書式が一部違っているということで却下。
 月曜日の午前中、5回目の法務局訪問。「だいたい良いが、一部書き直し」となり。その日の午後、6回目の訪問でやっと書類の提出が済んだ。後はそれが受理されるかどうか待つだけ。水曜日、電話して、受理されたことを確認する。そして木曜日、登記簿謄本を貰い、そのまま銀行へ行き、それを渡し、債務相続手続きも終了となった。
 この半年重くのしかかっていた雲が取り除かれ、晴れ渡った気分。傍に誰か(誰でもいいというわけではないが)いれば抱きしめたくなる、今はそんな気分だ。
          

 記:2010.10.22 島乃ガジ丸


学者肌

2010年10月15日 | 通信-文学・美術

 学者肌(がくしゃはだ)とは、「物事を論理的に考えたり研究一筋に生きたりするような、学者に多く見られる気質。」(広辞苑)のこと。
 今年3月某日、埼玉に住む友人KRからメール、及び電話があって、「友だちの井谷さんが沖縄に行くので、相手して貰えないか。」という内容。井谷さん(どうせ写真でその著作を紹介するので、イニシャルにしない)とは、『沖縄の方言札』という本を書いた井谷泰彦氏のこと。『沖縄の方言札』は、方言札について科学的に論証したもの。

 その昔(と言っても私が子供の頃もあったらしいので、さほど昔でもない)、学校で方言を使うと「私は方言を使いました」などと書かれた札を首から下げて、立たされるという罰があった。首から下げるその札のことを方言札と言う。
 ウチナーンチュであり、沖縄の事には興味を持っている私だが、方言札について深く考えようなどと思ったことは無い。「標準語とか共通語とかいうものをちゃんとしゃべれるようにならないと、本土(倭国のこと)へ行った際困るから」という理由で、教育現場で方言を使うことを禁じたものであると私は理解している。そう理解しているつもりだったので、改めて深く考えようとは思わなかったわけだが、井谷氏によると、さほど単純な思考ではないらしい・・・、「らしい」とは、じつは私は『沖縄の方言札』を全文読んでいない。学術的文章を読む元気が、私の脳味噌から消えて久しいので。

 ウチナーンチュであり、沖縄の事には興味を持っている私でさえそんな有様なので、ウチナーンチュであっても、興南高校が夏の甲子園で優勝する事には熱狂するが、沖縄の歴史や文化にはほとんど興味を持たない友人Hのような人が、実はウチナーンチュの大半を占めていると思う。よって、井谷氏の本は沖縄では売れない。ウチナーンチュで無い人々がほとんどである倭国ではなおさら売れない。ということを、氏に伺うと、氏も「それは解っています、売れるとは私も思っていません」とのこと。
 売れない本を出す。売れない研究をする。しかしそれは、興味のある人にとってはとても面白い研究であり、その研究成果を本という形にすることは大きな喜びなのであろう。一つのことに熱心に取り組む、それが金になるかどうかは二の次なのであろう。まさしくそれが学者肌と言えることなのかもしれない。井谷氏は学者肌の人なのである。
          

  「それが金になるかどうかは二の次」で思った。私は、このガジ丸通信やガジ丸HPの記事を書くのに、だいたい週に5、6時間は費やしている。ここ半年ばかりは休んでいるが、ユクレー島物語の絵を描いたり、音楽を作ったりしている時は週に10時間以上は使っていた。まったく金にならないのに何ともお疲れ様なのである。よって、そんな私もまた、学者肌の人とは言えないだろうか?・・・それはたぶん、言えない。
 私は一つのことを深く掘り下げて考えたりしない。テキトーに切り上げる。また、私は多趣味で、研究一筋に生きたりはできない。よって、私は学者肌ではない。 
 8月中旬、学者肌の井谷氏が再びやってきた。沖縄島北部の一泊二日を学者肌でない私が運転手としてお付き合いした。氏の今回の訪問は、「旧慣温存期における沖縄の青年団体」の調査とのこと。学者肌はまた、売れない本を出すつもりのようだ。
          

 記:2010.10.15 島乃ガジ丸


慶良間3座間味島

2010年10月15日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 高校生の頃、私は美術クラブに属していた。その頃の首里高校美術クラブは部員同士の仲が良く、3期上の先輩から3期下の後輩まで交流があった。顧問の先生も生徒から慕われており、先生が先頭に立って、毎年あちこちへ写生旅行へ出かけていた。
 美術クラブは、実際に美術を目指す(美術家だけでなく学校の美術教師も含む)者だけでなく、私のように遊び気分で絵を描く者も多くいて、写生旅行では、その名の通り写生をする者の他、釣りなどに興じる者もいた。私はもちろん後者。
 写生旅行の行き先、私が覚えている限りで言うと、沖縄島最北端の奥と、離島の久米島が高校在学中にあり、渡嘉敷島、座間味島などは卒業後に参加している。OB、OGの参加は普通のことで、卒業後5、6年も経った先輩たちも来ていた。ちなみに、その先輩達に、泡盛は素晴らしい酒であり、その土地土地に地酒があるということを教わった。泡盛は下級な酒と見なされていた頃だ。郷土愛の強い先輩達なのであった。

 奥では小学校の教室が宿泊場所であったが、久米島など離島の場合はキャンプであった。座間味島でもキャンプをしている。キャンプをした記憶はあるが、どんなキャンプ地だったか、何をして過ごしたかは全く覚えていない。その頃、美術クラブ以外でも友人たちと渡嘉敷島や座間味島、阿嘉島などへ行っているので、特別な出来事でも無い限り、誰と行ったのか、どれがいつだったのかが記憶に残っていないのだ。
 このページは座間味島についての話だが、覚えていることがほとんど無いので、想い出話は何も無い。ただ、座間味島を含む慶良間諸島は、沖縄島の高校生、浪人生、大学生にとって人気のあるキャンプ地であったことには間違いない。今でもそうかは不明だが。

  さて、私の記憶が正しければその頃以来、約30年ぶりの座間味島へ先日出かけた。同行者は秋田出身埼玉在のKRと宮崎出身宮崎在のIY、オジサン3人旅だ。
 座間味行きの船は泊港から出る。泊港から阿嘉島へ寄り、そこで降りる人を降ろし、乗る人を乗せ、座間味島へ向かうのだが、我々は阿嘉島で降りた。友人二人は「仕事の疲れを癒しに」が旅の目的であったが、私は「ケラマジカに会う」が目的だったので、ケラマジカの生息する阿嘉島散策が必要なのであった。しかしながら、4時間の散策も目的を果たせぬまま、5時発の高速艇に乗ることとなる。座間味島へは10分程で到着。

  オジサン達はキャンプをする元気は無いので、宿泊は民宿。つい最近外装をリメイクしたみたいで、見た目はきれいな宿、建物自体はまあまあ古い。でもまあ、特に不満のある部屋では無い。無線LANができるだけでも私は大いに満足できた。主人が海人(ウミンチュ:漁師)もやっていて、新鮮な地魚の出る料理自慢の宿と謳っていたが、その夜出た夕食に新鮮な地魚はなかった。風邪でも引いて漁に出られなかったのかもしれない。
 宿の玄関前にベンチとテーブルがあって、夕食後、そこで酒を飲む。宿の玄関にビールの自販機があり、ビールはそこで購入。宿の2軒隣に小さなスーパーがあって、泡盛とつまみはそこで購入。氷と水は宿の人がサービスしてくれた。
     
     

  翌日、朝食を食って、宮崎行きの飛行機の都合で早い時間に帰らなければならないIYを港で見送って、座間味島散策へ。一人でボーっとしているのもつまらないのだろう、仕事と離婚で疲れた体と心を癒しに来たKRもこの日は私に同行した。幸いにも昨夜から涼しい風が吹き始め、この日も風は爽やか。晴れて太陽は出ていたが、道路沿いに木陰の続く場所も多く、さほど汗をかかない気持ちの良い散歩となった。
 座間味島にケラマジカは生息しないと聞いていたので、ケラマジカは期待しない。今まで出会ったことの無い虫や植物を期待しつつ、てくてく歩く。シカはいなかったが、野生のヤギには出会った。放し飼いにされている肉用牛にも出会った。沖縄島では撮ることのできなかったチョウの写真が撮れた。出会ったことの無い花の写真も撮れた。

  「あっ、ヘビがいる」と言って、KRが道端を指さす。長さ40センチ位の茶色いヘビがアスファルトの上を這っていた。近付くと側溝の中に逃げてしまったが、雑草の陰に隠れている姿を写真に撮った。アカマタは赤い、アオダイショウは緑、ガラスヒバァは黒っぽい、頭が三角かどうか確認はできなかったが、「ハブかもしれない」と思った。
 座間味島にハブは生息しないと聞いていたので、「座間味島にハブがいる、これは大発見かもしれないぜ」とKRに語りながらも、「ガラスヒバァの子供かもしれない、子供の頃は色が薄いのかもしれない」とも思っていた。麓に下りて、パーラーでビールを飲みながら、パーラーの主人にその話をする。「ガラスヒバァだよ」とのことであった。
     
     

 座間味島のデータ、座間味村役場のHPから抜粋。

 面積 5.94km2
 人口 646人(平成19年)
 交通 村営フェリーざまみ(446屯定員 380人) 那覇⇔座間味 90分
    村営クイーンざまみ(168屯定員 200人) 那覇⇔座間味 50分
    村内航路たかつき(19.9屯) 座間味⇔阿嘉⇔慶留間 20分
    村内航路かしま(4.8屯) 座間味⇔阿嘉⇔慶留間 15分
 観光 ダイビング、ホエールウォッチングなど
 主要生産物 らっきょう・パパイヤ・じゃがいも、肉用牛、肉用山羊
 主要水産物 モズク
 第二次世界大戦(沖縄戦)米軍上陸第一歩の地
   昭和20年3月26日、米軍最初の上陸地。集団自決者を含む多くの犠牲者が出た。
 その他、詳しいことは座間味村役場HPで。

 集団自決については、ウチナーンチュの私は学校で教わっている。日本軍の強制があったとかなかったとか言っているが、暗黙の強制も含め、私はあったと思う。学校で教わったのは、日本軍が悪いということでは無く、戦争がそうさせるということであった。
  海の中の出来事よりも山の中の出来事に興味のある私はダイビングの経験が無く、これからやってみようという気も無い。それでも、慶良間諸島がダイビング場所としてとても人気があるということは知っている、友人の才色兼備Kさんはダイビングが大好きで、したがって、慶良間も大好きとのことだ。ホエールウォッチングも人気らしいが、私はあまり興味が無い。海の中の生物もクジラも、食い物としては大変興味がある。
 その他、目に着いたものは一匹の犬の像、犬の恋物語などに全く興味の無い私は観ていないが、映画『マリリンに会いたい』の主人公マリリンの像。マリリンが見ている海の向こう岸、阿嘉島にはマリリンと向き合うようにして、恋人シロの像が建っている。

  麓のパーラーで、店のオバサンと、店の客で、ダイビング関係の仕事をしているらしい倭人のお兄さんとしばしユンタクする機会を得た。
 「行きも帰りも高速艇は満席で、しょうがなくフェリーなんですよ。」と私。
 「9月の終わりにしては多い方かもしれないねぇ。」
 「10月上旬までダイビング客の予約は多いよ。」
 「10月下旬になるとぱったりいなくなるねぇ」
 「その頃には、店も閉めるところが多いよ。」

 ふむ、なるほど、座間味を静かに散策したいなら10月下旬が良いってことだな。と私は良い情報を得て、港へ向かった。3時30分、フェリーは座間味港を出た。
     
     

 記:2010.10.9 ガジ丸 →沖縄の生活目次


慶良間2阿嘉島・慶留間島

2010年10月08日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 先々週の渡嘉敷島の話は2003年6月に訪れた際の事を書いているが、その時の同行者は鹿児島在の友人NH、オジサン二人慶良間の旅であった。先々週金曜日(24日)土曜日の一泊二日の旅は、NHと同じく大学時代の友人、埼玉在のKRと宮崎在のIYとのオジサン三人旅となった。たまには美女と二人で、と思うのだが、夢の話だ。

 さて、オジサン三人慶良間の旅の始まりは泊港から。KRもIYも私も前夜は私の実家に泊っていた。実家は那覇市泊にある。泊港へは徒歩5分の距離、船は10時の出港、なので、前夜深酒していても、ゆっくり間に合う。何しろ、オジサン三人はオジーと呼ばれる日も近い。私は寝坊の方だが、それでも7時には目が覚める。他の二人は老人性早起き症らしく、私よりずっと早く起きる。朝はのんびり過ごし、9時に泊港へ。
  乗船手続きなどして、9時40分、フェリー座間味に乗る。高速艇は満席とのことであったが、フェリーはさほど混んでいない。デッキのベンチにゆったりと座り、船が港を出ると、さっそく、家から持ってきたビールを飲む。三人で二缶ずつ。
 前夜の飲み会は、宮崎出身沖縄在の、同じく大学時代の友人KYも一緒だった。船酔いするらしいKRとIYを「慶良間の船は揺れるぜ」と彼が脅す。私はあまり船酔いをしない。船に乗るとビールを飲む癖があり、ビールのお陰で船酔いしないのかもしれないと思う。で、二人にもビールを勧めたわけ。そのビールのお陰かどうか、あるいは、KYが脅すほど船が揺れなかったせいか、二人は何事も無く、阿嘉島までの船旅を終えた。

  港の待合室に荷物預り所があって、そこへ行く。ところが誰もいない。隣のパーラーのお姉ちゃんに訊くと、「船が港にいる間はいない」とのこと。我々の乗ってきたフェリーは、人や荷物を降ろし、新たな人や荷物を乗せた後、座間味島へ向かう。待合室の荷物預り所の係員は、船の荷物の積み降ろしの仕事も兼ねているのであろう。
 しばらく待って、係員がやってきたので、荷物を預け、阿嘉島散策へと向かう。今回はじつは、阿嘉島よりも慶留間島に私は興味があった。友人の息子K1の恋人が慶留間島の出身で、一年ほど前だったか彼女を紹介された時、出身が慶留間だと聞かされた。初めて聞くその名前に、ゲルマンとかゲルマニウムとかの言葉を浮かべつつ、「ゲルマ?ってどこ?慶良間の一つ?」と訊く。そう、ゲルマからはケラマという言葉も連想できる。
 慶留間島をインターネットで調べた際、ケラマジカが多く生息している島であることを知った。で、今回の旅のテーマを「2010年ケラマジカに会いに行こう旅」とし、そのようなスケジュールを組んだ・・・つもりであった・・・のだが。

 阿嘉島をざっと散策して、阿嘉大橋を渡って慶留間島も一回りというのが私の計画。の中にある食堂で昼飯を食って、先ずは阿嘉島散策へ、いざ出発。
 を出るとそこからはもう山道、右も左も前も後も緑ばっかりだ。散歩が趣味の私はそれだけで楽しい。ところが、散歩を趣味としていないKRとIYはあまり楽しくなかったらしく、15分程山道を登って最初の展望台に着いたら、そこで二人はリタイヤした。思えば彼らは、仕事で疲れた体を休めに来たのだ。彼らは散歩を趣味としていない。趣味でも無いのに疲れることをやる必要は無いのである。のんびりしたらいいのだ。で、私は二人を残して、一人で散策を続ける。じつは、一人の方が都合がいいのだ。虫の写真を撮る時、気配を消して近付くことができる。また、阿嘉島にもケラマジカが生息している。もしかしたら森の中で出会えるかもしれない。一人の方が警戒されずに済む。
     
     
     

  山道をひたすら歩いた。途中、ヲ、ヲー、ヲーヲという牛のモーに近い音で、抑揚のある鳴き声が聞こえた。鳥でも虫でも無い獣の鳴き声だ。「ここにはケラマジカ以外獣はいないはず」と、鳴き声のする方向にそっと近付いて、座って、カメラを構え、声のする方を眺める。声は、3分置きくらいに同じメロディーで聞こえてくる。じっと耳を澄ませていると、別の方角からも同じ声が聞こえた。最初の場所に10分ほど、別の場所にも10分ほどいて、じっと待ってみたが、どちらにも獣の姿を見ることはできなかった。
 ケラマジカは慶留間で探すことにしようと諦めて、散策を続ける。三人で登った場所以外の2個所の展望台に登った。展望台から眺める景色は、切り立った岸壁と緑、海と空が広がっていた。慶良間諸島は小さな島々だが、雄大な景色であった。

  散策をなおも続ける。小さな島だからと高を括って地図を持たなかった、または、地図を予め確認しなかったのが失敗だった。私は、私の歩いている道が島をぐるっと回って、そのまま歩いていけばそのうち港へ着くだろうと思いこんでいた。違った。
 道は島を横断していた。道の終点は港とは真逆の浜辺であった。17時には座間味島への船が出る。時刻は15時45分、来た道を戻って港へ1時間チョイで行かねばならぬ。山越えの道、半分は上り坂だ、そこを都会のサラリーマンのような早さで急いだ。
 ビールジョッキ3杯分くらいの汗をかいて、17時15分前に何とか港へ到着。KRとIYは港の待合室で酒を飲んでいた。ダイビングをする若い客が多い中、昼間っから泡盛を飲んでいるオッサン二人の席は、何だかとても違和感があった。

  というわけで、結局、慶留間島へは一歩も踏み入れることができなかった。阿嘉島へは若い頃、少なくとも1度は行っているが、慶留間島は無い。まだ行ったことの無い島であるという点でも、今回ぜひ行きたかった。また、ケラマジカも阿嘉島よりは慶留間島の方に多くいて、出会える可能性も高いと聞いていたので、それも加えて残念であった。

 座間味行きの船、17時発は高速艇。阿嘉島と座間味島は目と鼻の先、10分ほどで着く。この日の宿は座間味島。宿に着いて、さっそくビール。2万歩以上歩いて疲れた私の体にビールがしっくりと染み渡っていった。座間味島の話は次回。

 さて、阿嘉島・慶留間島のデータ。座間味村のHPから抜粋。

 阿嘉島 
 那覇の泊港から船が2種、高速艇とフェリーが出ている。
 フェリーは90分、高速艇は50分で阿嘉港に着く。
 面積は 3.07平方キロメートル
 人口は2007年現在 311人
 その他詳細は座間味村HPに記載があるので、そこを参考に。

 慶留間島 
 阿嘉島と阿嘉大橋で繋がっている。
 面積は 1.69平方キロメートル(外地島含む)
 人口は2007年現在 75人
 外地島とも橋で繋がっており、外地島にはケラマ空港がある。
     

 記:2010.9.29 ガジ丸 →沖縄の生活目次