台風19号、消費税アップなど世の中は大きな出来事があれこれあったのに、私はまったく私の世界の中で生きていた。9月10日に入院して以降、入院が続いて、我が身の不幸を嘆いてばかりいる。それはしかし、素人の無知蒙昧から来る自業自得だ。
8月8日~9日、琉大附属病院へ入院した。9日のお昼過ぎに退院して、その夜から夜間頻尿が始まった。「何じゃこりゃ、眠れねぇじゃないか!」というほどの頻尿。それまでも私は頻尿気味ではあった。1晩に1~2回は小便で起きていた。ところが、退院した日からの頻尿は1晩(概ね夜10時から朝6時までの8時間)に4~5回となった。
ここ40年、歯の掃除などで歯科に通ったのは何度もあるが、歯科以外の病院へは指に大怪我をした時と、膝に水が溜まった時の2度しか行っていない。なので、この40年、私は注射した回数はごく少ない、X線撮影の経験もごく少ない。
それが、2泊の入院でたっぷりの注射を受け、放射線もたっぷり浴びた。点滴なるものも生まれて初めて経験した。薬嫌いの私が薬もたっぷり飲まされた。これまでに経験の無い科学の力の襲来に、私の体のリズムが崩れたのかもしれない。
大腸癌を患い、その摘出手術をした後、肝臓に癌の転移が見られ、その摘出手術をしてから1年余経った友人のK、その後どこにも転移がなく、今は元気に動き回っている。そのKが先日、私の家に来て、あれこれ語って、私を励ましてくれた。
彼は最後の手術の後は病院へ行っていないとのこと。癌治療には摘出手術の他、抗癌剤投与もやったとのこと。抗癌剤は彼にほとんど影響を与えなかったとのこと。抗癌剤にはたくさんの種類があって、種類によってその人に合う合わないがあるようだとのこと。そんなこんながあって、彼の今の元気はどこからくるのかと不思議に思う。
「特別なことは特にやっていない。気を付けていることは、正しい食い物を正しく食べること、ストレスをなるべく軽減することをやっている。それらは何かというと、体の免疫力を上げるということに繋がる。免疫力が強ければ癌に勝てると思って」とのこと。
癌を患って以降、彼はたくさんの癌と健康に関わる本を読んだとのこと。たくさんの知識を得て、「免疫力が強ければ癌に勝てる」という結論に達したようだ。
元々、自然大好きの私は風邪引いても薬飲まない、腹壊しても薬飲まない、滅多なことでは病院へ行かないという生活をしてきたが、上記の友人Kのこともあって、なおさら、なるべくなら病院へは行かないようにしようという気持ちが強くなっていた。とこらが、それは私の勝手な思い込みであったようだ。Kは病院に世話になっている。
5年ほど前に咽頭癌の末期を患い、入院して手術した東京の友人Iさんは、今では完治して、職場に戻って、元気に生きている。私が舌癌末期ということを聞いて先日、彼からメールがあった。メールはさすが学者という内容だった。
「今のところ、西洋医学の三大療法を無視しては癌を治すことはできませんが、身体に内在している免疫力を高めるのは東洋の知恵に思えてなりません。西洋医学は良くも悪くも暴力的ですが、治す前提となる基礎的な身体の恒常性維持機能(ホメオスタシス)を西洋医学はなかなか認めません。」 冷静である。ものをちゃんと観て、考察し、それぞれの良い点悪い点を判断する。私にもこのような冷静さがあればと、今更ながら後悔。
記:2019.10.16 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
半年ほど前だったか、・・・日記を調べると去年の10月中頃だから約9ヶ月前のことであった。ラジオの情報番組で面白い話を聞いた。確か「異才発掘プロジェクト」について語っていたと記憶している。この先、世界がどう変わっていくかわからない。そんな社会で画一的教育を受けた普通の人ばかりでは対応できないかもしれない。そんな社会で必要となる者は異才の人である。といった内容。
「あー俺も異才だったかも」と不遜にも思った。だからまともな仕事に向かない、結婚に向かない、のではないかと思った。他人の感性に合わせることのできない異才なのではないか、と考えてもう1つの言葉が思い浮かんだ。発達障害、これもラジオからの情報。ラジオで聞いただけなので正確には覚えていないが、後日、ネットで調べた。
発達障害とは、生まれつきの脳機能の発達のアンバランスさと、その方が過ごす環境や人間関係とのミスマッチから、社会生活に困難が生じる障害のことをいいます。
とのこと。
半年ほど前だったか、・・・日記を調べると去年の12月末頃だからこれは確かに半年ほど前のこと。あるラジオ番組で「すげぇ!」と感心する人がゲストに出ていた。ゲストは伊是名夏子さんという人。ラジオで紹介された限り、私が覚えている限りで言えば、
年齢はたぶん30代後半、2児(上は6才)の母、身長100センチ、体重20キロの女性。生まれつきの骨の病気でその体格とのこと。それで、子供を産み育て、なおかつ働いてもいる。ハンデに負けない「何糞!」根性をお持ちの人のようである。
で、それ以前に私が「何か面白そう」と記憶していた「異才」と「発達障害」が頭の中に蘇ってきた。伊是名夏子さんは肉体的発達障害で、類まれなる異才ではないかと。
「異才発掘プロジェクト」は日本財団という団体がそういった子供達を選んで教育援助しているらしい。現状の教育現場に馴染めず不登校傾向にある小・中学生が対象で、興味関心や特性に応じたプログラムを提供しますとのこと。
伊是名夏子さんは「異才発掘プロジェクト」に頼らずとも、自らの力でその類まれなる異才を発掘し、その才を伸ばし、見事に輝かせたということであろう。体重20キロしかない女性が、子供を産みちゃんと育てている。子供を育てることにおいてできなかった難しいことも多くあっただろうに、子供を育てるに遥かに大きな才能があったのだろう。
「あー俺も異才だったかも」と不遜にも思って、「俺が社会に順応できないのはそのせいだぜ、順応できないので会社をクビになり貧乏になってしまったんだぜ。」と思って一旦は良い気分になる。「生まれたのが早すぎたんだな、世が世であればって奴だな。」とさらに調子に乗る。「50年後、地球に危機が来た時には俺が救えるかもしれない。」などとお調子モンは留まるところが無い。で、さすがの私もここでブレーキ。
私がまだ若ければ、「貧乏でもいいさ、他人に迷惑を掛けなければいいさ、生きていればいいさ、いつかその異才が必要とされる時が来たら花開けばいいさ」と考え、そのいつかを待てばいいのだ。がしかし、ここで正気に戻る、「オイオイ、鏡を見よ、俺は若くないぞ、人生の幕をどう閉じるかを考えるような年齢に既になっているぞ」と気付く。それでもなお、「時代に合わなかっただけ、花開かずに散る異才もある」ということにした。
記:2019.7.5 島乃ガジ丸
梅雨の晴れ間の5月30日、薬草研究家のH爺様と朝から6時間ほどのドライブ及びあちこち散策をご一緒した。当初の目的はある薬草の調査のためだったが、その場所は沖縄島南部にあったので、「ついでに南部戦跡を回りましょうか?」となり、戦跡である摩文仁の丘や姫百合の塔を訪問した。平和運動家でもあるHさんであるが、70代で運転免許返上して、家から遠い南部戦跡はもう何年も行ってないとのことだった。
摩文仁の平和祈念公園に着いて、「膝が少し悪いんだよ」というHさんのことを考慮して、「駐車場」と標識のある駐車場ではなく、なるべく平和祈念堂や平和の礎の近くに車を停めようとその辺りを探す。「いかにも駐車場」の形は呈していないが、何台もの車が停められてある一角に車を停め、「正規の駐車場では無いのでは?」と思ったので、近くにある売店のオバサンに「ここ停めてもいい所ですか?」と念のために訊く。
「大丈夫よ、何時間でも停めたらいいさぁ。」とオバサンは笑って答える。いかにも沖縄のオバサン、テーゲー(大概:適当という意)でいいさぁといった笑顔。
「膝が少し悪いんだよ」というHさんだが、ゆっくりではあるがよく歩く。日頃から良く歩いているからそのための筋肉がしっかりしているのかもしれない。摩文仁の平和祈念公園は広い。その中をトコトコ歩く。平和の礎の刻銘を確かめながら歩く。
平和の礎には沖縄戦での戦没者の名前が刻まれている。戦没者はウチナーンチュだけではなく、ヤマトゥー(倭人)もアメリカーも、朝鮮人もその他の国の人も、民間人も軍人も等しく刻まれている。ウチナーが悪いのではない、アメリカーが悪いのではない、軍人が悪いのではない、戦争という行為が悪いのであるという気分に満ちている。
さて、たっぷり歩き回って12時を過ぎていた。車に戻る。車を停めた傍の、あのいかにも沖縄のオバサン(70代半ばくらい)の店に入る。中は売店でもあったが、食堂も兼ねていた。で、そこで昼食となる。Hさんは沖縄ソバ、普段は昼飯を食わない私は天麩羅にする、イモ天麩羅2個、野菜かき揚げ2個を頼む。1個50円なので小さかろうと予想していたのだが出てきてビックリ、イモも野菜も私の予想の倍以上あった。
私の予想通りだったのは店主のオバサン、いかにもウチナーンチュのオバサンはフランクで明るく、よくしゃべった。楽しい賑やかな昼食時間となった。Hさんも元気だがこのオバサンも元気。食べ終わった食器をカウンターに返しながら
「ごちそうさま、天ぷら大きいですね」と、中のオバサンへ声を掛ける。
「揚げ物はこれが今日の最後だから、大サービスしたさぁ。」とのこと。
「大きいだけじゃなく、とても美味しかったですよ。」と私、これはお世辞じゃない。ホントに美味しい天麩羅だった。揚げ方が上手なのだと思った。
「1人でやっているんですか?」とさらに訊く。
「姪が手伝ってくれてるけど、1人のことが多いよ。」
「後継ぎがいるのなら、この天麩羅の味も受け継がれますね。」
「天麩羅はねぇ、難しいからね、教えてないさぁ、死ぬまで私がやるさぁ。」
オバサマは生涯現役の心づもりのようである。見上げた精神、そのやる気が元気の源だと思われた。そうか、Hさんも生涯現役の気持ちだから元気なんだ、と気付いた。
記:2019.6.21 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
2年ほど前から患っている腰痛は、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら今もなお続いている。パソコン作業で座りっぱなしという姿勢を1時間も続けていると痛みは増すが、そうなる前にパソコンの前を離れ、座布団の上に正座10分などということをやって腰を休めている。天気の良い日は1~2時間の散歩もやっている。
そんなこんなで何とか私の腰は、日常生活に支障はない。ただ、重いものが持てない。体重が40キロに満たない可愛いアラサーA嬢、彼女をお姫様だっこすることもできなくなった。「抱いて」と彼女が(言わないだろうけど)もし言ったとしてもできない。走ることもできない。手に持っているバッグをひったくられても追いかけられない。
いずれも無理すればやってできないことはないのだが、これまでの腰痛経験から学んだことがある。「少々良くなったからといって油断するな」ということ。何度も油断して少々無理して、重いもの持ったりして、元の木阿弥になっている。
腰痛は相変わらずだが、肩甲骨ストレッチを始めて(3月頃)から、またはパソコン作業を1日8~9時間から1日4~5時間に減らし、さらにはそれに加えて薬草茶を飲み、薬草湿布をするようになってから肩凝りがすごく良くなった。目の痛みも頭痛もほとんど感じなくなった。長く続いた強い首の痛みもだいぶ減った。ところが、
口内炎がなかなか治らない、飲み食いに特に不都合はないので放っているが、時々痛みが走るので鬱陶しい。さらに、4月に入るとあれこれ体に不具合が出てきた。パソコンのし過ぎによる頭痛はパソコン作業を1日4時間に減らして以降は無い。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いによる頭痛はたまに(年に1回くらい)あるが、酒も飲まないのに頭痛、しかもまあまあ強い頭痛を先日経験した。恋もしていないのに胸が苦しいというのも1度あった。車の運転中に眩暈というのも1度あった。これは家に着いて、車を駐車場に停めようとしているところだったからまだ良かった、走っている時に眩暈だったら怖いことと後から思って、「大丈夫か俺?もう車の運転はできないかも」と不安になった。
パソコン作業及び二日酔い以外の頭痛は何年かぶり、あるいは何十年かぶり。胸が苦しいというのは過去(20年程)にも数回経験があるが、過去数回のいずれも1~2分のことで、その後何事も無かった。眩暈は過去に記憶が無いのできっと初体験。
畑仕事で体動かし、自給自足芋生活を夢見ていた頃はやる気もあって精神的にも安定していた。体を動かし、やる気もあったので心身とも健康でいられたのだと思う。であったが、あと数年もすれば高齢者入門となる私、日常的に体を動かすことがなくなり、汗をかかなくなり、生きる目標も失ってしまったことから、体にガタが来ているようだ。
原因不明の頭痛は休肝日の夜の数時間続いだけで、翌朝には消えていた。胸が苦しいのも過去の数回と同じくほんの1分ほど続いただけで今回もすぐに消えた。原因不明の眩暈もすぐに消えた。しかし、「脳梗塞?心筋梗塞とか弁膜症?」と不安に思う。
それらのことは、もしかしたら老年期障害ということかもしれないと考えた。老年期障害という言葉があるかどうか知らないが、更年期障害のさらに年取ったバージョンで、長年生きてきた疲労がどっと出てきたか、あるいは、男の能力がほぼ消えて、ホルモンのバランスが崩れてオバサンみたいなオジサンになって・・・ということかもしれない。
記:2018.6.6 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
過日、風は涼しく日差しはポッカポカの、いかにも「沖縄の春」らしい日、83歳H爺様に会った。会う予定だったのではなく偶然。近くの公園のベンチに腰掛けておにぎりを食べているHさんを見かけ、声を掛け、しばしユンタク(おしゃべり)した。
その公園は私の住まいのすぐ傍、Hさんの住まいからは(腰が正常だった頃の)私の足でも15分ほどは要する道のり、Hさんは健康のためなるべく歩くようにしているとのこと。病院へ行くなど遠出の場合でも、バス停を2~3つ手前で降りて歩くらしい。
そんな、とても83歳には見えないHさん、平和運動家であり「これが私の生きる道」という信念の元、あれこれ活動している。その日は那覇で辺野古基地建設反対の県民集会があって、それに参加しての帰りで、いつものように最寄りバス停の3つ手前で降りて家へ向かうその途中、私の住まいの傍にある公園で一休みのようであった。
Hさんはまた、薬草研究家であり、私も去年から薬草に興味を持ち、彼から多くの書籍資料を借りて勉強している。去年、Hさんから「勉強するならそのついでに」と頼まれた薬草表作り、老人クラブの仲間たちの役に立てたいということであったが、それが薬草冊子となって「その1」(その2も予定している)を完成させ、既に差し上げている。
で、公園で会ったその日、薬草冊子も話題になる。Hさんは私が冊子に載せた100種の植物をどういうものであるかいちいち全て確認したらしい。それらがどこにいけば入手できるかも確認したらしい。1種探せないものがあったらしく、「あれとこれとは別種なの?」とかいった質問を受け、それに答えるなどが一通り済んで、その後、口には出さなかったが、「えっ、その齢でこれから先のこと!」と驚くことをHさんは言った。
「薬草を啓蒙する1つの組織を作って活動できないかなぁ」と。私が「えっ!」と驚いたような顔(自分で自分の顔は見えないが、たぶんそんな顔)をしたのを見て、
「会社とまでじゃないけど、冊子の貸し出しとか、薬草の相談とかを受け付けたり、主に老人クラブを回って薬草のお話をするような所、組織に名前もつけてね」と続ける。
私は、腰痛がなかなか治らず弱気になっているせいもあるが、もう既に身辺整理を考えており、断捨離をしており、我が家の墓のことなど後の人たちが困らないようあれこれ考えたりと、それらはつまり、大きなくくりで言えば終活ということなのだが、それを始めているところ。何か新しいことを自分の責任で始めようという元気は無い。
「元気だなぁHさんは。その心の元気が体の元気を生んでいるのかもなぁ」と、ニコニコ笑いながら語るHさんの顔を見ながら思った。「それに比べ俺は」と思いは続く。
「俺に夢はあるか?」、「何が楽しみで生きてるんだ?」などと自問する。「生きているだけでいいんじゃないの」と自答する。80歳過ぎてもなお、明日に向かって楽しく生きようとあれこれ思いを巡らすHさん、元気においては、私はH爺様に負けている。
などと考えて、明日の楽しみを考えること、それがHさんの元気の素ではないかと思い至った。明日が楽しいからいつもニコニコしていられるのではないか、あれこれ考えるから脳が元気、脳が元気だから心も元気、心が元気だから体も元気なのではないかと。
逆に言えば、脳に元気が無いから心にも元気が無く、体にも元気が無い。私の腰痛がなかなか良くならないのは、そういうことに原因があるのではないかと思った。
記:2019.4.12 島乃ガジ丸