ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

争いの種に水は要らない

2012年11月30日 | 通信-政治・経済

 11月は畑仕事にシタリカハマティ(とても頑張ってという意のウチナーグチ)、21日にはシマラッキョウを植付け、種播きは一段落となった。10月は2畝(1畝約3坪)だったが、11月は6畝立てた。9月に大雑把に草刈りして、大雑把に畝立てした1畝を加えて畝は全部で9つ、9つの畝が並んだ畑はいかにも畑の姿となった。

 植付けた作物は、大雑把に植付けた9月のニンニク、畝の余った個所に植えたレタス、ブロッコリー、キャベツ、ニラなどを加え全部で13種となった。普通、種を播いた後や苗を植付けた後は水かけを必要とするが、13種のどれも水かけをしていない。
  13種全てが植付けた翌日は雨となった。天気予報がそう予報しており、それを私は狙っていた。その後も、13種の全て、乾燥に弱そうなホウレンソウも含め、まだ一度も水かけをしていない。ちょうど上手い具合に雨が降ってくれているのだ。
 水かけをやっていない理由はもう一つある。もう20年以上も前のこと、農業を覚えたいと思って教えを乞うた人が自然農法の実践者で、彼女から「明日雨が降るという日に種を播けばあとは水かけの必要は無い。植物の根は自ら水を求め、地中深く根を伸ばし、丈夫に育つ」と習い、「さもありなん」と納得しているからだ。
 ということで、今後も水かけはしないつもりである。ただし、日照りが続いて作物が枯れそうになったら水はやる。植物に水は必要だ。水かけすると自然農法とは言えなくなるが、耕して畝立てしていることで既に自然農法では無いのだから、それでいいのだ。
          

 植物に水は必要だが、争いの種に水は要らない。争いの種とは、ここでは尖閣諸島のことを言っているが、互いに知恵を出し合って、争いが「戦う争い」にならぬようにして欲しいと願う。争いの種が仲良く交流できる種に育つことが最上だが、それができなければ無視した方が良い。つまり、棚上げということ。戦うよりははるかに増し。
  ウチナーンチュの私が主張すれば、尖閣諸島は沖縄のものである。島がどこのものかの判断が「最初にその島を認識していた」のであれば、「明時代には既に認識していた」という中国の主張はその証拠もあり正しい。ところが、明の冊報使を送り迎えしたのはウチナーンチュの船乗り達だ。彼らは尖閣諸島を既に認識しており、福建沖縄往来の際、航海の目印としている。したがって、尖閣諸島は沖縄のものとなる。
 まあ、それはしかし、一先ず置いておく。ウチナーンチュは喧嘩したくない。喧嘩したら勝ち目は無いからでもあるが、できるだけ平和に楽しく生きていきたいからだ。仲良くとまでは言わない、喧嘩する位なら「無いもの」にしたいと思う。
          

 個人的な話に代わるが、実家を売却することにした。父の遺言に「三年忌が済んだら家土地を売却してよい」とある。もう三年忌から半年以上過ぎた。財産は、法定相続通りでも兄弟三人で三等分だが、父の遺言でもそうなっている。
 売却して得た金を三人で分けてサッパリしたいと私は思うが、姉にとっては沖縄に家があると便利、それが無くなるのは嫌、で、売却に反対している。私にとっては実家の管理は手間と時間がかかるので、それが面倒。で、実家は姉と私の争いの種になっている。争いの種はさっさと無くした方が良かろう、と説得したいのだが、納得するかなぁ。

 記:2012.11.30 島乃ガジ丸


息抜きの必要

2012年11月23日 | 通信-その他・雑感

 二週間前、いつものように畑仕事をしていたら腰が痛くなった。その日は朝からずっと草刈りをやっていた。トゥンタッチー(鳥立ちという意のウチナーグチ)での鎌を使った手作業、トゥンタッチーは腰に負担の大きい姿勢だ。その日以前にもそうやって草刈りはやっていたが、ついに、腰が悲鳴をあげたようだ。で、3時で引き上げた。
  ここ最近も草刈りはやっているが、トゥンタッチーを長時間続けないよう、だいたい10分に1回は立ち上がって腰を伸ばすようにしている。土を耕し畝立てする作業も手作業なので肉体への負担はある。数日前から両膝と右肘に少々痛みを感じている。
 夏場は1時間に1回、涼しくなってからは2時間に1回の休憩を入れているが、休憩時間は概ね6~7分だった。タバコ1本吸う時間だ。タバコ1本を吸い終えるとすぐに作業を始めていた。が、ここ数日は吸い終えてもすぐには立ち上がれない。なお、5~6分はボーっとしている。どうやら、疲労が蓄積しているようである。
          

 疲労回復には睡眠と栄養が必要だ。睡眠はたっぷり取るようにしている。たいていは9時に寝て5時に目が覚めている。8時間は十分だと思う。栄養に関しては、じつは、約4週間前の10月28日、体重が54.4キロと高校卒業後の最低記録を更新した。
 私は身長170センチなので標準体重は60キロである。私の目標設定も58キロとしているが、去年の夏以来ずっとそれ以下、今年の春頃からは56キロ前後、連日10時間の畑労働となった10月にはついに最低記録となってしまった。
 もう長いこと粗食少食を続けている。少食について言えば、一日朝夕の二食で昼飯は摂っていなかった。それを、300坪の畑仕事をするようになってからも続けていた。使うエネルギーに比べ摂取するエネルギーが不足していたようである。
 で、11月からは昼飯を食べるようにした。昼飯といっても菓子パン1個とお菓子(饅頭とかクッキーとか)を少しだが、それでも糖分なのでエネルギー不足は補える。おかげで一週間過ぎた辺りで体重は57キロ前後まで戻った。

 睡眠は十分、栄養も足りている。それでも休憩時間にタバコ1本吸い終えてもしばらくは動けずボーっとしている。疲れは取れていないようだ。
  例えば、一所懸命働いている息子を見て、その母親が言うセリフ、「そう根詰めていると体壊すぞ」をテレビドラマか映画で何度か聞いた覚えがある。私の腰の痛み、肘、膝の痛みは根を詰めて働いている結果、「体壊すぞ」ということなのか?
 「根を詰める」は「精神・肉体の疲労に耐えつつ一つの物事を行う」(広辞苑)のことのようだ。私の場合は「疲労に耐えつつ」というほどでは無い。「歯を食いしばって」までは全然やっていない。ただ、「精神・肉体の疲労」については「そうか、肉体だけでなく、精神の疲労もあるのか」と思った。元々飽きっぽい性格の私が、草を刈って、土を耕して、畝を立てて、種を播くといった作業に飽きてしまっているのかもしれない。
 息抜きが必要だ。先週、友人I氏のお供でヤンバル1泊をしたが、明日明後日も1泊でヤンバル小旅行をする。I氏と埼玉の友人Kも加えてオヤジ3人旅、オヤジばかりのドライブ、加齢臭充満した車の運転も疲れはするが、それよりも心の疲れが取れることが大きい。村祭りとか豊年祭とかも働く者たちの息抜き行事だったのかもしれない。
          

 記:2012.11.23 島乃ガジ丸


異邦人

2012年11月16日 | 通信-その他・雑感

 記憶が確かなら私が大学生の頃に流行った歌『異邦人』、歌うのは、顔は全く記憶にないが名前は覚えている。久保田早紀(漢字はあやふや)。
 子供達が空に向かい 両手を広げ
 鳥や雲や 夢までも掴もうとしている
 その姿は昨日までの 何も知らないわたし
 あなたへ この指が届くと信じていた。
 以上が1番の歌詞、漢字でなく仮名の表記だった個所もあるかもしれないが、内容はたぶん間違いないと思う。2番も覚えているが、曲の紹介はここまで。
 久保田早紀の歌う異邦人は片思いの相手のようだが、私がこれから紹介する異邦人は若い人。「今時の若いもんは・・・」と私が若い頃、オヤジの世代達がよく言っていたセリフを私もブツブツ唱えるようになってしまった、というお話。

 誰も住む人のいない実家を去年からゲストハウス風にして、倭国から遊びに来た友人知人達に貸していたが、その年の夏の2泊2日(初日は夜遅く着いて寝るだけ)、大学生5人組(女2人、男3人)に貸した。乱交パーティーなどやっても私はちっとも構わないのだが、「夜中騒いで隣近所に迷惑がかからないように、使った部屋はきれいに掃除するように」との注意だけはした。ところがだ、「今時の若いもんは」となった。
  実家には寝室が4つあり、その内の一室を布団部屋とし、シーツ、タオルケット、枕などをまとめて置いてある。客はそこから好きな寝具を選んで使うというシステム。若者たちは選ぶのに引っかき回したのか、多くのシーツ、タオルケット、枕カバーがグチャグチャになっていた。そのため、使ったもの使ってないものがごちゃごちゃになっていて、どれを洗濯したらいいのか判らない状態だった。意味の判らないことに圧縮袋に仕舞ってあった布団が開けられていた。真夏だ、何で布団を出そうとしたんだ?
 その他、サンダルが紛失していた、一ヶ所の電灯が点けっ放しだった。酒が飲める歳であっても、参政権を持つ歳であっても「大学生はまだガキなんだ」と思った。
          

  ちょうどその頃、私は首里石嶺から宜野湾市我如古へ引っ越しの最中だった。新しいアパートは琉球大学の近くにあり、入居者は大学生が多い。そこの階段にはタバコの吸い殻がいくつもあった。「あー、若者は今でもポイ捨てするんだ」と思った。思えば、私も大学生の頃はガキだったかもしれない。他人の迷惑を考え無かったかもしれない。
 車で出かける際、琉大入口の信号前をよく通る。そこは三差路になっていて私は直進するが、琉大へは右折する。直進する車より右折する車の方が多い。右折する車のほとんどは大学生だ。これまで何百回とそこの交差点を通っているが、直進車のために車を右に寄せて対向車が過ぎるのを待っている車に会ったのは2度しか無い。
 アパートの住人と階段ですれ違ったり、駐車場で出合ったりする。その時でも大学生たちは挨拶しない。目を合わせようともしない。「異邦人だ」と思った。
          

 私の言う「異邦人」は片思いの相手では無く「理解しがたい人」という意味だが、その意味で言えば、永田町の人々は全く「異邦人」だ。今日、衆議院解散って?

 記:2012.11.16 島乃ガジ丸


300坪だけの起承転結

2012年11月09日 | 通信-環境・自然

 台風に虐められながらも10月30日にニンジン、ホウレンソウの種を播き、理想とする自給自足生活がやっと始まった。畝(1畝約3坪)は今のところ4畝で、11月1日にはタマネギ、ウズラマメも播いた。今週中にはもう2畝耕してジャガイモ、シマラッキョウなども植付ける予定。いずれも当初の予定より一ヶ月余遅れ。台風のせい。

 話を進める前に農業用語の解説を少し、広辞苑から。
 堆肥(たいひ)
 「藁・ごみ・落葉・排泄物などを積み重ね、自然に発酵・腐熟させて作った肥料。」
 基肥(もとごえ)元肥とも書く。
 「播種・移植など耕作時、またはそれ以前に施す肥料。ねごえ。」
  普通、植付のために畑を耕す際は元肥として堆肥を土に混入する。「完熟牛糞堆肥」などが農協やホームセンターに売られていて、私もたいてい「完熟牛糞堆肥」を購入し、これまで宜野湾の畑ではそうしてきた。しかし、今回はそうしなかった。
 300坪の畑は「なっぴばる」と名付けている。ウチナーグチで「ないるうっぴどぅないる」の略、「成る分だけ成る=できる分しかできない」という意。私の理想としては300坪に「外から何も持ちこまない」で「成る分」にしたいと思っている。

 「外から何も持ちこまない」はちょっと大げさな言い方だが、ここでは言う「何も」の「何」は畑に必要な種と畑に必要とされている肥料の事を指している。
 種は、最初は市販のものを購入するが、育った作物が種を着けたらそれを採取し、翌年からはその種を播く。市販の種の多くは採取した種を播いても同じものはできないと聞いているが、それでも沖縄で古くから栽培されている、いわゆる在来種であれば大丈夫であろうと考えている。落花生など豆類は市販のものでも可能だと思う。
  堆肥は畑にあるもの(雑草など)を用いて作る予定。できるかどうかはまだ不明。夏に刈ったススキを山積みにして、2週間ほど経ってからそのススキを退けると、土の上に白い菌が生えていた。これは堆肥作りにとって良い菌だと思われる。また、台風で倒れたバナナ数本の幹を1m内外に切り、それを山積みにしておいたところ、二ヶ月余経ってバナナを退けたら、下になっていたバナナはほとんど原形を留めず、黒い土のようになっていた。これはそのまま堆肥として使えるのではないかと思われる。

 「外から何も持ちこまない」は「300坪の中で起承転結ができる」ことを目指してのこと。草刈り、畝立て、種播きから始まり、育ち具合に一喜一憂しながら収穫で終わる。そんな野菜物語が300坪の中だけで1編となる。いずれは畑小屋を住まいとし、自らの糞尿を肥料にするシステムを作り、雨水を飲み水にできるシステムも作り、風力と太陽光で電気を賄うつもり。300坪の中だけで1編となる農夫物語となる。
 農夫物語の終わり頃、死期の近づいた農夫は朝いつものように起きて、いつものように芋を食い、いつものように茶を飲む。だけど、いつもならその後畑仕事だが、農夫は畑を眺めるだけだ。そうやって数日後、「いよいよだな」と悟った農夫は畑に出て、芋の葉の茂る中で横になる。「世話になったな」と芋に感謝して、目を閉じる。
          
          

 記:2012.11.9 島乃ガジ丸


神が傍にいた頃

2012年11月02日 | 通信-音楽・映画

 10月23日が期限の2枚と10月末日が期限の1枚計3枚の映画招待券があった。いずれも私好みの映画を多く上映している桜坂劇場のもの。その内の1枚を知人のIさんにあげ、残る2枚の内の1枚は21日に使い、『ニッポンの嘘』を観た。そして、今週月曜日(29日)に最後の1枚を使って、『スケッチ・オブ・ミャーク』を観た。
 『スケッチ・オブ・ミャーク』は宮古諸島に口伝で残されている神への祈りを歌う古謡と、それが意味するものは何ぞや?を主題としたドキュメンタリー映画。

 私の母は信心深い人であった。我が家には仏壇があったので、その仏事については、盆正月他、どんな小さなことも忘れず母は心を込めて丁寧に行い、沖縄の伝統的民間宗教ともいえる各種の神事においても何一つ忘れること無く行っていた。
 そんな母親の血をまったく受け継いでいないかのように私は罰当りの不信心者である。不信心者はそれでも正月には実家へ行き、供え物をし、線香を点てる。清明祭には墓掃除をし、供え物をし、線香を点てる。旧暦の七夕にも墓掃除へ行く。旧盆にも実家へ行き、供え物をし、線香を点てる。父、母の命日にも実家へ行き、父の好きだったもの、母の好きだったものを供え、線香を点てる。それだけでは無い。毎月(旧暦の)1日、15日に行う神事もほぼ欠かさず実家へ行って、茶を供え、線香を点てている。
 「なんだ、信心深いじゃねーか」と思われるかもしれないが、信心からでは無い。むしろ「わざわざ実家まで行って」を面倒臭いと思っている。母が丁寧にやっていた事を、母亡きあとは父が欠かさずやっていた事を、家に仏壇がある限りはやっていこうと思っているだけだ。親孝行をあまりやっていなかったことの罪滅ぼしのつもり。

  不信心者の私の話は置いといて、『スケッチ・オブ・ミャーク』は神が傍にいる、あるいは、神が傍にいることを感じている人々を多く映している。彼(概ね彼女だが)らは日常的に神を感じ、神に祈る。そして、神への歌が生まれた。
 彼らの歌う神歌は厳かである。神への畏敬が感じられる。畏敬があるから真摯に祈る。なので、神歌だけでなく「真摯に祈る」彼らもまた、尊厳に満ちている。一昨年(2010年)アイヌの歌を生で聴く機会があったが、アイヌの歌と宮古の神歌は似ていると感じた。よく覚えていないが、アイヌの歌も神への祈りが多いのではないだろうか。

 何故「神へ祈る」のだろうと神へ祈ったことの無い不信心者の私が考えてみた。いや、逆に、何故私は「神へ祈ったことが無い」のかと先ず考えてみた。
 母の腹の中にいる頃から記憶のあまり無い4、5歳の頃までは不明だが、私はたぶん、今までの人生で「神に祈る」状況に陥ったことが無い。仕事上で、また、人間関係で窮地に陥ったことはあるが、「何とかなるさ」と思い、何とかなってきた。
 「神へ祈る」人々はおそらく、その歴史に「何とかなるさ」では済まない状況があったのであろう。宮古には人頭税などという過酷な税制があり、首里から派遣された役人から理不尽な仕打ちを受けたという歴史がある。人頭税がそもそも理不尽である。そんな理不尽からの救いを「神へ祈る」ことに求めたのかもしれない。「生きる」ことが難しかった状況では神が傍にいる必要があったのであろう。
          

 記:2012.10.26 島乃ガジ丸