友人のSに強く勧められて、先週金曜日の午前中、映画を観に行った。その日が最終日で、しかも昼12時が最終上映だったので、午前中の映画となった。あれこれ雑用があって、忙しくて、映画を観に行く時間も作れなかったのだが、確かな感性を持っているSが「ぜひ」と勧めるので、雑用を放って出かけたのであった。
映画は久しぶりである。去年の11月に『沖縄カウボーイ』を観て以来、約四ヶ月ぶりのこと。桜坂劇場の会員となっているが、会員の特典である招待券なども無駄にしているので、会員費を払っている分の元も取れていないのである。
さて、Sが勧めた映画は、『中国の植物学者の娘たち』。その題名を私は初めて聞く。桜坂劇場から送られてくるチラシを見た。監督はダイ・シージエというが、その名前も、私は全く知らなかった。であるが、Sの「良かった」という言葉を信じる。
幕が開くと原題らしきものが出た。中国語で『植物園』とあった。『植物園』というと室井佑月の『熱帯植物園』を思い出す。性描写が無遠慮で、鬱陶しくて、食傷してしまって、三分の一も読まないうちに投げ出してしまった。(室井佑月は好きである)。それを思い出し、Sから同性愛の話だと聞いていたので、どうなることかと思った。が、
『中国の植物学者の娘たち』はとても美しい映画であった。美しい景色が随所にあり、美しい二人の女性が出ている。映画の美しさはしかし、そういうことだけで無く、恋愛の表現にもあった。「好き」であることの表現がとても美しいのであった。
美しい恋愛であった。美しい愛撫であった。あんなに美しいキスというものを、私は何十年かぶりに見た。二人の美女の、互いに愛を伝えるその言葉もまた美しかった。
「そうか、好きという感情は美しいものであったか。」と私は、随分前に忘れてしまっていた感覚を思い出した。ただし、映画で表現されていた恋愛の美は、私の経験してきたものをはるかに超えていた。「そうか、好きとはこれほど美しいものであったか。」ということになり、感激して、うるうるしそうになったのであった。
植物学者の娘たちの娘は、一人は実子であり、もう一人は息子の嫁である。二人の娘たちはだから、近親相姦では無い。近親相姦では無いが、同性愛である。同性愛は、中国では許されてなく、忌まわしいものとして扱われ、極刑となるらしい。結局、二人は同性愛が知られて死刑となる。しかし、最後の、ここまでくると私は映画の世界にのめり込んでいて、それが演技であるということもすっかり頭から消えている。最後の、法廷での彼女達の表情も、切なく、そして、とても美しいものであった。
私に『中国の植物学者の娘たち』を勧めた翌日、Sから再び電話があって、「その監督の前回の作品である『小さな中国のお針子』を、DVDを借りてきて観た。これも最高だった。観た方が良い。」とのこと。「映画を、DVDを借りて家で観る」という習慣が私には無いので、「最高だ」は信じるが、それについては今のところ保留としてある。
記:2008.3.28 島乃ガジ丸