このところ(この2週間ばかり)、睡眠のパターンが以前とは違う形で、健康だった頃とも違う形で続いている。そのパターンとはだいたいだが、夜9時頃眠りに入る。深夜0時頃には目覚めて起きる。キッパリ目覚めるので起きて布団から抜けて、パソコン作業をする。3~4時間もすると眠気が襲ってくるので布団に入って寝る。寝入って2~3時間経った早朝5時から6時頃には目覚め、起床する。朝食を済ませた後、10時から12時頃まで寝る。起きて昼食の後、客が来なければ4時から6時頃まで寝る。このパターンが続いている。睡眠の連続時間は夜も昼も2~3時間程度しかないが、いずれもグッスリ眠っているし、全部足せば平均して10時間は眠っている。睡眠は十分と言える。
さて、深夜のパソコン作業とは何か?というと、日誌のようなものを書く、日誌は概ね病状、自分で感じている体の不具合、痛む個所、痛みの度合いなどを記入している。
自分で感じている体の不具合はいくつもあって、それらは逐一、医者や看護師たちにも訴えていて、彼らから「それは何々です、薬を処方しましょう」とか「それは何々です。こういうことに気を付けていればそのうち消えます」などといった対応をしてくれる。
そんなこんなで判明した不具合は、あるいは自分で感じた体の不具合はヘルペス、口内炎、喉の狭窄、大便秘、体力低下、歯痛、床擦れ、痔、むくみなど多種にわたる。
これらの内、すでに克服したものはヘルペス、口内炎、大便秘、歯痛、床擦れなど。歯痛は歯科医の治療を要し、大便秘は看護師に浣腸してもらい、ヘルペス、口内炎、床擦れ等は塗り薬で治った。痔も今塗り薬を使っている、やがて治るであろう。
体の不具合として今も残るのは「喉の違和感」、「舌の傷」、「一人暮らし不能の体力低下」などがあるが、それらよりずっと厄介なことが今、私を襲っている。
2週間ほど前(10月20日頃)から足がむくみ始め、脚全体に広がり、体重の掛かる足首は立ったり歩いたりすると激しく痛む。これがために体力回復のウォーキングができない。体力が回復しないので退院できないとなって、私を大いに悩ませている。
どういう風に悩ませているか、他の不具合がどういう風に私を悩ませたか、それらの不具合は舌癌と関わりがあるのか、放射線と関わりがあるのか、などにも私は関心があるのだが、それを書くとエライ長文になりそうなので、それは別項に譲るとして、
私の理想は、いつかそれらの不具合を1つ1つ克服し、それらの不具合を全て体から消去する。その時の私の体は、これまでになく柔軟な強さを手に入れ、ついでに舌癌の前の悩みであった腰痛も治っているのではないかと想像する。「雨降って地固まる」だ。
なんてことを考えていたら、首里城のことに想像が及んだ。
首里城の火事は、結果的に「雨降って地固まる」になったのではないかと、私はひそかに安堵している。大きな災難なのに、「雨降って・・・」などと「不謹慎な」と思われるだろうが、今回の首里城火災で、その後のウチナーンチュの言動を(ラジオから)聞いている内に、火事の一報を受けた時の衝撃は消え、何だか嬉しくもなってきたのだ。
首里城関連のニュースはラジオから頻繁に流れる。それを聞くと、ウチナーンチュの沖縄を愛する気持ちが強く感じられる。沖縄大好きの私は嬉しくなる。ウチナーンチュの宝は首里城が本命ではなく、首里城を愛するその心だと私は思う。
記:2019.11.07 島乃ガジ丸
8月に入って病院通いをしているものだから今は一休止となっているが、7月初め頃から、薬草調べもしながら「戦世の終わる頃」とタイトルをつけて、その頃の体験者の話を聞いて集めていた。体調不良もあって集まったのは2人だけ。
昨日8月22日は学童疎開船対馬丸の悲劇があった日、ラジオからそれを聞いて、「あっ、俺が聞いた話をブログにしよう」と思い立つ。
先ずは、これは既に本人が地域の歴史を記した冊子に寄せた手記から。
五十五年余経った今(投稿は1999年)、記憶も乏しいが、思い出すままに記してみます。忘れもしない一九四四年八月二十二日恐怖の米軍の魚雷を受け、大きな音、火柱と共に対馬丸の沈没を目前にし、私たちの乗っている船も傾き、船上では今にも飛び込まんばかりの様相、泣き叫ぶ人たち身内を呼ぶ声、声、あの時の惨状は今でも鮮明に記憶している。そして、長崎入港・・・熊本県日奈久へ・・・。一日中お湯の出る温泉の街。南風原の学童が大勢で松之屋旅館と新湯旅館に分かれて宿を取る。
好奇心旺盛な学童たちは、思いは半ばヤマトに憧れもあって行ったが、しばらくすると食糧不足に悩み、旅館の方々が食料調達のため毎日買い出しに出かけて行った。そのおかげで飢えを凌いだ。先生方も大変ご苦労なさったようである。
はじめて見る雪、雪合戦もしたがひもじさと寒さは身にしみた。私と弟の荷物が届かず(別船に積まれて)地元の方のお情けで何とか寒さは凌げたが、誰もがくつ下もなく、素足でゾウリ履きで雪道を通学、手足は霜焼けで痛み、ホームシックで床に入るや啜り泣く声がした。そのような中で温泉が一番の救いであった。
他の人達も山奥のお寺さんに再疎開、そして終戦。私は弟と宮崎に疎開していた叔母を頼って行き、お世話になった。一年経った頃から沖縄への引き揚げがはじまった。
その弟に最近お会いしてインタビューした。以下はその内容。
私と姉は和浦丸、暁空丸のいずれかに乗船する。対馬丸の撃沈については知っているが、夜で暗かったこともあり、船が小さく波に隠れていたので、沈没の状況は見ていない。
鹿児島港へ入港の予定だったが、鹿児島には米軍の潜水艦がいるとのことで、上陸地は長崎へ変更となる。当初計画より7日遅れの上陸となった。
長崎で2泊し、汽車で熊本へ行く、宿泊地は熊本県日奈久の旅館。熊本県日奈久は温泉街で、旅館のほとんどは温泉宿となっている。 自分と姉は別々の旅館だった。
旅館から学校へ通っていた。地元の生徒とは時間差通学して、授業は別々だった、
とにかく、食い物が足りなかった。地元の子供たちが食べて捨てたミカンの皮も拾って食べた。上級生たちは干し柿などを盗んで食べていた。自分たちも畑からカボチャなど盗んで食べていた。農家の人は優しい人が多く、そう厳しく怒られることはなかった。
終戦になって、姉と2人、宮崎に疎開していた叔母を頼って、そこでお世話になった。1946年、終戦から一年経った頃から沖縄への引き揚げがはじまった。我々も父母、弟たちのいる実家へ帰る。住居はアメリカ軍が簡易なものを建ててくれていた。食べ物もアメリカ軍からの配給があり、まもなく、農作業もできるようになった。
以上の話、姉は私の母で、弟は母の弟、つまり私の叔父にあたる人のお話でした。
記:2012.8.23 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
沖縄のサクラはヒカンザクラという種で、寒さを経て花が開くという性質を持つので、サクラの代表であるソメイヨシノとは逆に北から南、山地から平地へとサクラ前線は移動していく。ちなみに、沖縄の主な桜祭りの開催期日を北から記すと、
本部町八重岳、1月19日~2月3日
今帰仁村、1月26日~2月11日
那覇市、2月20日~2月24日
となっている。本部町、今帰仁村はおそらくもう満開と思われる。私の住んでいる宜野湾市(那覇より北へ20キロほど)の開花状況は、2月7日現在で概ね3分咲。
サクラと言えば気になっていたこと1つ。沖縄のヒカンザクラは冬に咲き濃い桃色をしている。冬に咲くので寒桜、花の色が桃色をしているので緋と付いて緋寒桜となる。若い頃に植物に詳しい先輩からそう教わって、その後文献でもそう確認している。であるが、ラジオからはヒカンザクラでは無く、カンヒザクラという名称を多く聞く。
実はヒカンザクラと教わった先輩も、既にその頃に「カンヒザクラとも言う」と仰っていた。「ヒカンザクラだとヒガンザクラ(彼岸桜)と混同するから」とのこと。ところがラジオの説明では「ヒカンザクラだと悲観に聞こえるから」とのこと。緋寒が悲観とは、私はまったく連想しなかった。緋寒桜、言葉としてきれいだと思うが、いかが?
悲観と言えば思い浮かぶこと1つ。70数年前の沖縄戦で悲惨な目にあったウチナーンチュは、子や孫にその悲惨を語り、戦争を知らない子供たちは「戦争はやってはいけないこと」と強く心に刻まれた。そんな1人である私は、やがて爺さんと呼ばれる齢になるのだが、戦争の悲惨を次代に伝えることができるほどの知識をまだまだ得られていない。
私が聞いた悲惨は、大雑把に言うと「命を奪うのは飛んでくる鉄の暴風、だけでなく、味方であるはずの、自分たちを守ってくれるはずの日本軍に赤子を殺されたり、安全な壕を追い出されたり、スパイ扱いされて撃たれた」などということ。戦争という極限状況の中では、兵士の精神状態も異常であり、異常な行為も仕方なかったのかもしれないが、それはそれで「戦争は優しい人間も鬼に変えてしまう」といった大きな教訓になる。
悲惨は戦後も続く。土地を奪われる。それは一過性のものであったが、今もなお続いている悲惨もある。差別意識丸出しの日米地位協定だ。「沖縄で法を犯したアメリカ人を、何で日本の法律で裁くことができないんだ」といったこと。泣き寝入りしたウチナーンチュは多くいると聞いている。それは幸せに暮らしたい生活上の大きなリスクである。
国は新たな基地を沖縄に造ろうとしている。「普天間を返す代わり」と言い、まるで、普天間に基地があることは当然で、「普天間を返すならその代替地は沖縄が提供するというのも当然」であるように言うが、それは本当に当然なのか?国全体の問題だよ。
現在の世界情勢から考えてある程度の軍事基地は必要だと私は思っているので、「沖縄から米軍基地は無くならない」が私の悲観にはならない。「差別的日米地位協定を改善しようという意思が国に無い」、「近所のどこぞの国のような強権的手法で沖縄という1地方を国に従わせる」、そのような国と沖縄の関係に私は未来の沖縄を悲観する。
記:2019.2.8 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
辺野古新基地建設の賛否を問う県民投票、建設反対である知事側が「賛成か反対」の二択での投票を進めていたが、一昨日(1月25日)のラジオのニュースで、「どちらとも言えない」を加えた三択になったと聞いた。二択にして「NO」が多数だった場合、国に対する「辺野古新基地建設反対」という意思は強い力を持つかもしれないが、私は、いくらか譲歩してでも県民多数の投票参加を望んでいたので、今回の決定には賛成。
新基地建設によってどんな影響が沖縄の未来に起こるか、我が身に起こるか、それが良い影響なのか悪い影響なのかなどについて「分からない」、「良いのか悪いのかどちらとも言えない」という人は多くいると思われる。二択の場合、そういう人たちは棄権せざるをえない。私としては棄権が少ないことを望んでいる。少なくともウチナーンチュのほとんどが新基地建設には関心を持っていると期待したい。
関心を持っているのであれば、辺野古新基地建設が沖縄の未来に及ぼす影響を語る人がいれば耳を傾けるであろう。いくつもの意見を聞いて、言っていることを理解し、誰の言うことが正しいかを判断し、自身の意見を持つ。などということは面倒だし、難しいことかもしれないが、そういったことを県民の多くが経験すれば、こんな素晴らしいことはない。そういった人たちのためにどちらの政治家も大いに語って欲しい。ただ、
「新基地建設はきれいな海を埋立てる、ジュゴンの住む貴重な海が汚される」などという言い様は基地建設反対の理由としては本筋から離れていてインチキ臭い。基地建設反対派の方々には、新しく基地が造られることの意味をもっと真正面から語って欲しい。
自民党の政治家がよく言う「原点は世界一危険だといわれている普天間基地の撤去であり、そのためには辺野古新基地建設は止むを得ない」という言い様もインチキ。「普天間基地早期返還のために辺野古新基地建設」はちっとも止むを得なくない。辺野古以外、少なくとも県外に普天間の代替施設を造ればいいだけのこと。
辺野古新基地は海軍空軍が同居し、秘密裏(どんな兵器でも運ぶことができる)に原潜が出入りできる強力な軍事基地になるとのこと。私が米軍の立場であれば、アジア最大の米軍基地である嘉手納飛行場と近い場所にそんな強力な軍事基地は置かない。なんて、素人の私の考えなどは置いといて、「普天間基地撤去のための辺野古新基地建設」が何故止むを得ないのか正しく語って欲しい。何故辺野古なのかを正しく説明して欲しい。
三択になって全ての市町村が参加し、ほぼ全ての県民が投票できるようになった。が、今のままでは「どちらとも言えない」票が多く出ると思われる。「どちらとも言えない」票が多くならないためには、私も含めだが、新基地建設によってどんな影響が沖縄の未来に起こるかを知らなければならない。もし、深い知識を持った方がそれを説明してくれるのであれば、街頭演説でもしてくれるのであれば、それはぜひ拝聴したいと思う。
演説する方には、できれば心を込めて語って欲しい。ウチナーンチュだものというと語弊があるかもしれないが、おそらく、社会全体の明日のこと、沖縄の明日のことなどウチナーンチュの暢気者はあまり考えない。だが、暢気者はたぶん、考えることは苦手でも感じることは得意だと思う。だから、心に訴える瀬長亀次郎のような人が好き。カメジローさんのような政治家がいたならぜひ語って欲しい。賛否の勝負はこれからです。
記:2019.1.28 島乃ガジ丸
2月4日、全国的にも注目されていた名護市長選の投開票があった。その夜、私はいつものように9時過ぎには寝ていて、その時間までに選挙結果は出なかった。私が結果を知ったのは翌朝6時過ぎのラジオのニュースで。私としては残念な結果であった。
その結果を聞いて思い出した言葉がある。いつだったか、もう10年以上も前だったと思うが、ある選挙結果(自民党系の候補が勝利した)を聞いて従姉Mが「ムヌクイーシドゥだね」呟いた。「何それ?」と訊くと、「物を与えてくれる人が主人という諺みたいなのが昔からあるのよ」という答え。今回の名護市長選もそういうことかもしれない。
「物を与えてくれる人が主人」というと、「寄らば大樹の陰」とか「長い物には巻かれよ」という諺を連想する。両方とも概ね「力のある者ものに従った方が得」といった意味であるが、「物を与えてくれる人が主人」もそれと同じようなことであろう。
「・・・であろう」で済まそうと思ったが、念のため、ムヌクイーシドゥを改めて調べてみた。それは『沖縄大百科事典』に詳しく載っていた。それによると、
1469年、第一尚氏王統から第二尚氏王統への政権交代の時の安里大親の言で、その全文は「虎ぬ子や虎 悪王ぬ子や悪王 物くいいしどぅ我御主 内間御鎖どぅ我御主」となっている。この言の主旨は「物くいいしどぅ我御主」で、その沖縄語発音は「ムヌクイーシドゥ ワーウシュー」で、その意は「物をくれる人が我が主人」となる。
内間御鎖とは第二尚氏の始祖、内間金丸のことで、国王となって尚円と名乗る。ちなみに、安里大親の大親も、内間御鎖の御鎖も役職名とのこと。
『沖縄大百科事典』の解説では、「自分に食べ物を与えてくれる者を主人として仰ぐことは、権力追従主義、事大主義に通じるとされ、沖縄的心情批判の例として取り上げられたことわざであるが、・・・物をくれる人とは、むしろ民生の安定に心を配る主権者の意であり、・・・一種の民主革命の肯定と解釈される」となっている。
従姉Mが「ムヌクイーシドゥだね」呟いたのは、この解説でいう前半部分の「権力追従主義、事大主義」という批判的な意味であったと思う。私もその時そういう意味で捉えていて、今回『沖縄大百科事典』で調べるまではそう思っていた。
しかし、「物くいいしどぅ我御主」が『沖縄大百科事典』の解説の後半部分「民生の安定に心を配る主権者」という意であれば、それはそれなりに納得できる。
兎にも角にも、政治は、戦争のない平和な社会であることが前提となるが、民衆が生活できるようにすることが大事だと思う。その為にお金が必要なのであれば、お金を得る算段のできる者が主人(首長)であってもいいと思う。自民党の全面支援を受けて当選した名護新市長は、おそらく国からお金を得ることができるであろう。名護市はそれでいくらか潤うであろう。新市長はそれで首長合格になると思われる。
それでもしかし、今回の名護市長選の結果を私は残念に思っている。確かにお金は大事だ、生活するために必要な物。だから私も「働いて稼ぐ」を今年の目標としている。
それでもなお、「何で沖縄なの?」が疑問。そこに差別を感じてしまう。前の戦争の時と同じように「沖縄は犠牲になっても構わない」という差別。なので、国に一矢報いたいという気持ちが私は強い。なので、名護市長選の結果はとても残念に思った。
記:2018.2.16 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行