美術には少し興味があって、NHKの「新日曜美術館」を観ている。自分の部屋のテレビではNHKの映りが悪いので、金曜日の職場でビデオ録画したものを観ている。1本のビデオテープにはだいたい1ヶ月分が収録されていて、しかも、テープは常に2、3本は溜まっている。したがって、私は概ね2、3ヶ月前の番組を観ることになる。
「新日曜美術館」では、現在どこでどのような展示会をやっている、といった情報も番組の中でやっている。2、3ヶ月遅れで観ると、それらの情報はたいてい既に過去のものとなっていて、「なんだ、この間の旅行でちょっと足を伸ばせば、こんな展示会があったんだ。勿体無いことをした。残念。」ということがたびたびあった。で、その反省から、旅に出る前の1ヶ月前くらいからは、前の週に録画したものは1週間の遅れで観ることにしている。そして、今日も、去った日曜日の「新日曜美術館」をさっき観た。
松田正平という画家を私は知らなかったが、番組で紹介された犬を描いた彼の作品の一つを観て、とても興味を持ち、また、番組のサブタイトルであった「鬼は易しいが犬は難しい」には、さらに興味を惹かれた。
松田正平の座右の銘に「犬馬難鬼魅易」というのがあり、それは「犬馬は難し、鬼魅は易し」と読む。広辞苑によると、鬼魅は「おにやばけもの。妖怪変化」とある。「犬馬は難し、鬼魅は易し」はつまり、鬼魅といった現実には見えないモノを描くのは易しく、フツーにそこに存在する犬や馬を描くのは難しいのである、ということ。
私がハリウッド映画をあまり観なくなったのは10年ほど前からのこと。小津安二郎を知ってからのこと。小津安二郎という名は学生の頃から知ってはいたが、その作品の良さ(まだ十分理解しているとは言えないが)を知ったのが10年ほど前。彼の映画もまた、難しいと松田が言うフツーを表現している。フツーの人間を深く、的確に描いている。
先週土曜日、アンチハリウッドの映画館、桜坂劇場で上映されているアンチハリウッドのウッディー・アレン監督の作品「さよならハリウッド」を観た。ウッディー・アレン監督も小津安二郎同様で、アンチハリウッドの私好み。映画は十分楽しめた。
火曜日、私の愛するシンガーソングライター、及びピアノ弾きである鈴木亜紀のライブに出かけた。彼女の歌がフツーの人間を表現しているかどうかは、“恋は盲目”の私に正確な判断はできないが、少なくとも、自分の感性を素直に、真っ直ぐ表現していると私は感じている。1年ぶりのライブ、十分楽しむことができた。
ライブが終わって少しの時間、彼女と話をする機会があった。「いい歌ですね」とか「好きです」とか、その時感じたことを素直に言えば、一所懸命演奏した彼女も喜んでくれると思うのであるが、また、それが良い時間を過ごせたことに対するフツーの態度だと思うが、そういったことは一切口から出ず、偉そうに歌の評価などをする。まあ、イイ女の前で気取ったということなのだ。こんな場面でも、フツーはなかなかもって、難しい。
記:2005.9.30 ガジ丸
先週、テレビで、ロバート・ワイズ監督が死んだというニュースを聞いた。ロバート・ワイズ監督という名前には馴染みが無い。が、微かに記憶の底に覚えがあって、「誰だったっけ?何者だったっけ?」と思う次の瞬間には、画面に「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」が現れ、それらの音楽が流れた。
「ウエストサイド物語」も「サウンド・オブ・ミュージック」も確か、中学の頃にそのリバイバル上映を私は観ている。オジサンという歳になってからは年に5、6本程度しか観ない映画だが、中学の頃は、母が映画館関係の仕事をしていて、定期的に招待券が貰えたこともあって、よく観た。3年間で200本は観ていると思う。その中でも「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」の2作品はとても印象深い。
それまで、西部劇が好きで、クリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマなどが主人公となって、悪者をバッタバッタと倒すといった映画を多く観ていた。それらはテレビのヒーローものの延長線上にあり、強くなりたい、カッコよくなりたいと願う少年の当然の好みであったと思う。ただ、映画の魅力はもちろん、単純な勧善懲悪で、最後は正義が勝って、観ている者が爽快な気分を味わえるというものだけではない。
映画は総合芸術なんていうことを聞いたことがあるが、確かにその通り。ありとあらゆる感性を総動員して、観ている者へ別世界を味わってもらう。別世界を、まるで観客が実体験しているかのようなリアリティーでもって伝える。映画の良さはそこにあると思う。そして、私がそう思うようになったのは、おそらく「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」の2作品の影響が大きい。物語の奥深さに惹きこまれ、画面の迫力(70ミリだったと記憶している)と美しさに驚かされ、そして音楽に感動した。
「ウエストサイド物語」も「サウンド・オブ・ミュージック」も私は、そのサントラ版を買った。映画は強烈な印象を少年に与えたので、音を聴くと映像が蘇る。目を閉じると映画の場面へ自分が入っていける。それは快感。レコードは何度も何度も聴いた。
感受性の鈍くなったオジサンは、もうずいぶん長いこと「ウエストサイド物語」も「サウンド・オブ・ミュージック」も聴いていない。レコードプレーヤーはあるが、アンプに繋いでいないのでレコードを聴くことができない。でも、もうそれは聴かなくてもいいのである。オジサンはこのごろ、映画を軽く楽しむことができるようになったのだ。
家のテレビでDVDを観るのでは味わえない世界が、映画館の暗闇の中では簡単に、深く味わうことができる。気分をリラックスさせて、心を催眠術にかかりやすい状態にし、余計なことは考えない。先入観も要らない。そうすれば概ね、映画は楽しめる。
幸せな場面では、自分もそうなれるという夢と希望を感じる。逆に、たとえ、そこに悲惨な場面があったとしても、映画を味わうことができたなら、悲惨の意味も理解できる。理解できたなら、人々は次に何をするかを考えるだろう。そのように考えることがまた夢と希望に繋がる。つまり、どっちにしろ、映画館は夢と希望の館なのである。
大作よりも最近は小作品が私の好みとなっている。明日、ウッディー・アレン監督の作品を桜坂劇場でやる。アンチハリウッドはさらに私好み。観にいく予定。
記:2005.9.23 ガジ丸
先週テレビで放送していた柔道の世界選手権を何気に“見て”いた。「この選手は礼儀正しいですね。態度がいいですね。」などというアナウンスが聞こえて、テレビに注意を向ける。無差別級だったかの試合。日本のムネタさんという選手が出ていた。
「お辞儀の仕方が素晴らしい」とかの評価であったが、私には、戦う相手にも敬意を払うという心意気に見えた。それはたぶん、武士の魂である。「おー、サムライじゃねぇか。こんなところに生き残っていたか。」と思ったのであった。何とも清々しい態度よ!
ムネタさんは正々堂々の精神でもって、風格のある戦いぶりに終始する。せこく得点を稼いで、とにかく勝ちゃあいいという外国人選手の戦いぶりとはまるで違う。感動した私は、その後2試合ほど、時間をおいてだったが、彼の試合を“観て”しまった。
残念ながらムネタさん、残念ながら私が観ることのできなかった決勝戦では負けてしまったようだが、金メダルよりも貴方の誇りある戦いぶりは、なお輝いていた。これからもサムライ魂を持ち続けて戦って欲しい。貴方の金メダルは他の金メダルよりずっと価値のあるものになるだろう。などと、戦わないオジサンではあるが、私は思ったのであった。
ハリケーンの襲来で大被害を蒙ったニューオーリンズ、体の弱い老人たちが病院に閉じ込められて、死の恐怖を感じながら死んでいったなどということを聞いて、たいへん痛ましく思う。いつでもどこでも、弱者が最も多く被害を受けるようだ。同情する。
悲惨な状況については同情する他無かったのであるが、しかし、自然災害の被災地で、軍隊が鉄砲を構えないと治安が維持できない有様には驚いてしまった。車もある、テレビも冷蔵庫も洗濯機もある、生活の成熟度としては世界の先頭を行くアメリカ合衆国、ではあるが、社会の成熟度としては疑問。あるいは社会を形成する人間としての成熟度には疑問を感じた。災害時、皆が命の危険を感じて、助けを求めているような時に略奪なんて、キリスト教というのはいったいどんな道徳を教えているのかと疑問に思う。
それに対し、火事場泥棒のようなこと、日本でも無いことは無いと思うが、それはごくまれであろう。確固とした宗教があるわけでは無いが、社会の成熟度、社会を形成する人間一人一人の成熟度としては、日本は世界に誇るべきものを持っていると感じる。
「日本をあきらめない」なんてキャッチフレーズを掲げていた政党があったが、「日本をあきらめかけている」日本人は、その政党の人間の他にはそう多くはいまい。そりゃあ少子高齢化で年金がどーのこーの、国の借金がどーのこーのといろいろ問題もあろうが、社会の成熟度も理想の形まではまだまだ遠かろうが、この日本、「あきらめる」国なんてことからは、それよりもっとずっと遠かろう。いい国なのである。ムネタさんもいるし。
今回の選挙では惨敗したけれど、政官癒着の構造を断ち切るには政権交代のある政治が求められる。その為にも、野党はこの惨敗を機に、改めて自分たちを見直して欲しい。濃い墨総理が捨て去ろうとしている政治の古い体質、しがらみで改革の進まない古い体質が自分たちの中に残っていないかを、己に問うて欲しい。そして、大地にしっかりと根を張って、日本のあるべき形を明確にして、国民に正面から語りかけて、理解される政党に生まれ変わって欲しいものだ。国民の多くはまだまだ、あなたを諦めていない。
記:2005.9.13 ガジ丸
台風14号の影響もあってか、今週の沖縄もこの時期にしては涼しかった。この時期にしては涼しいのがもう3週間以上、8月の中頃から続いている。冷夏の年もたまにはあるが、今年はその中でも1、2位を争う冷夏だったのではないか。と、これを確かめるべく、沖縄気象台のHPを覗き、今年の8月の気温がどうだったかを見る。
沖縄気象台による那覇の8月の気温、その評価は「暑い」とあった。平年値と比べて暑いということだ。確かに8月の前半は暑かったからそうかもしれないと思う。ところが、沖縄気象台は同評価を月の上旬、中旬、下旬に分けてもやっていて、それには何と、上旬と中旬が平年並みで、下旬が「暑い」とあったのだ。いやいやいやいや、そんなこたぁねぇぞ。8月の後半が涼しいと感じたのは私だけではないぞ。訊いた人間のほとんどがそう感じているぞ。感じていないのは沖縄気象台の職員だけではないのか。
そう思って、資料をさらに詳しく見る。この5年間の8月の気温を比較してみる。毎日の最高気温と最低気温を月前半と月後半に分けてその平均値を出す。最高気温についてはどの年も、前後半ともに31度を超えている。最も高いのはの2001年の33.3度であるが、日中は暑いものと諦めがつくので、31度が33度でも変わりなく暑く感じる。問題は最低気温、これが低いのと高いのとでは夜の気分に大きな差が出るのだ。
2001年からの8月前半の最低気温は順に26.7、26.4、27.6、26.8、27.6となっていて、今年は2003年と並んで最も高い。2003年の夏は今でも記憶にあるくらい確かに暑かった。今年はそれと並んでいる。ところが、だ。8月後半の最低気温となると、同じく2001年から順に27.2、27.0、27.3、27.4と軒並み27度を超えている。しかし、今年の8月後半は何と25.9度、なるほど、これなら涼しく感じるわけなのだ。沖縄気象台の職員は夜、冷房の部屋で寝ていたに違いない。この涼しさに気付かなかったようだ。
沖縄の8月後半は最も暑い時期、その夜にぐっすり寝られるなんてめったに無いこと。例年であれば9月の今でも夜は寝苦しいのである。私は8月の16日から寝るときに、雨が降って窓が開けられない場合を除いては扇風機を使っていない。とにかく涼しいのだ。明け方なんぞはタオルケットを掛けていないと寒いくらいなのだ。
前々回も書いたが、地球環境の変化(悪化といってもいい)は人類の大問題。沖縄が涼しくなるのはどういうメカニズムか知らないが、ウチナーンチュにとっては過ごしやすくなってうれしいこと。でも、地球のどこかにはうれしくない変化がきっとある。現代のちょっとした気候の変化は、将来の大きな悪い変化の兆候かもしれない。
地球環境を最大の争点とする政党はないものか。中国の経済発展とそれに伴う膨大な石油消費に、どのような関わり方を我が国がするべきかを争点とする政党はないものか。アフリカの貧困に対するわが国の関わり方を争点とする政党はないものか。人類の未来を見据えた日本のあり方を、国の形として示してくれる政党は無いものか。
さっき、各党のマニフェストをちらっと見たが、文章があんまり長すぎて、読む方が勉強しないとその良し悪しを判断できないような細かいことが多過ぎて、じっくり読むことができなかった。濃い墨総理の判りやすさに人気が出るのも肯ける。その自民党、郵政が民営化したからといって、地球環境の悪化を防ぐことはできねぇぞ。どうする?
記:2005.9.9 ガジ丸
先週に引き続き今週日曜日の朝もまた、テレビの報道番組を観、各党の代表者たちによる討論を聴いた。他党の非難中傷をすることが自党の票獲得アップに繋がると思っているのか、あるいは実際にそういうことになるのかどうかか知らんが、またしてもみっともない討論会となっていて、私は15分でうんざりし、テレビを消してしまった。
アンタたちが話をすべき相手は隣に座っている人間では無く、正面にいる我々国民だろう。我々はアンタたちがこの国をどのような形にしたいのか、そのためにどのような手段を用いようとしているのかが知りたいのだ。アンタたちが何を言っているのかを理解したいのだ。だから、我々に向かって語りかけてくれ。と私は彼らに言いたい。
解散から反対派への対立候補擁立までの出来事を「自民党というコップの中の争い」とおっしゃっていたアンタ、アンタは今「政治という洗面器の中の争い」をしているのではないか?正面にいる我々の存在を忘れてはいないか?我々国民は洗面器の中の戦いに勝つための、単なる道具に過ぎないと思っているのではないか?
政権交代のある政治を私は強く望んでおり、そうすることでダラダラした政官癒着の構造を無くせるかもしれないと期待している。んが、今の野党が政権を取ったところで、そういうことができるかどうかは、最近の野党の言動を見る限りあまり期待はできない。
濃い墨総理が「郵政民営化が最大の争点」としているのは、それが彼の信念であり、またそれは、そうすることによって選挙を有利にするという戦術でもあろう。それに対し、「郵政民営化が最大の争点では無い。それより大事な問題はいくつもある。濃い墨がそういうのは、諸問題を覆い隠すためのまやかしだ。」などと、まるで子供が駄々をこねるようなことを小禍多代表はおっしゃる。「今回は数学で勝負だ!」と言っているのに、「数学は嫌だ!」などと喚いているようなもの。
郵政民営化も大事な問題の一つ。「郵政公社は2年後にこうなります。簡保と郵貯は3年後にこうなります。そうすれば結果として5年後にはこうなります。」などと具体的な案を示し、あんまり具体的ではない濃い墨の「郵政民営化」にぶつけちまえ。そうすれば「濃い墨の郵政民営化案か、小禍多の郵政改革案か」の話になり、国民はどちらがいいかを選べばいいだけのことになる。「郵政民営化に賛成か、反対か」は争点では無くなる。数学の試験は終わり、あとは結果待ち。さて、次は英語で勝負しようぜ、となる。
大事な問題がいくつもあることは、わざわざおっしゃってくれなくても国民は知っている。今、国民に必要な情報は、それら一つ一つの問題について政治がどう対処していくのかなのだ。話す相手は隣では無く、正面にいることをお忘れなきよう。
記:2005.8.29 ガジ丸