先日2019年3月24日、第3回Meカラオケ会(親戚の集まり)に参加した。カラオケボックスで午前11時から昼食を挟んで午後6時までの、月1回定期的に開かれるカラオケ会。私は腰への負担を考えて午後4時頃には皆より先に帰っている。
元々カラオケ嫌いの私だったので第1回(2019年1月)が約10年ぶりのカラオケボックス経験。その時は言われるがままにデュエットソング、青春時代の歌などをテキトーに歌ったが、第2回の時は事前に歌いたい唄を選んでいてそれらを歌った。その時「歌いたい唄」に選んだ中の1つに沖縄の唄『芭蕉布』があった。
中学3年の時のクラスメートにTという台湾人がいた。彼は中一の頃からその姿を見ていたので沖縄に来てから既に数年は経ていたと思う。日本語が流暢なだけでなく、ウチナーグチ(沖縄語)も「方言禁止世代」の我々と同程度には理解できていた。
Tは背が高くスポーツ万能で、頭も良かった。なのでクラスの級長も務めた。彼はまた遊びのリーダーでもあり、そのグループに私もいた。夏は海にプールによく出掛けた。彼はさらに、歌も上手であった。「大好きなんだ」と言い、彼が良く歌った唄がある。
海の青さに 空の青 南の風に 緑葉の
芭蕉は情に 手を招く 常夏の国 我した島 ウチナー
昭和40年に発表された沖縄の新しい唄『芭蕉布』である。私も好きでメロディーは覚えていて、歌詞も1番はちゃんと覚えていて、ギター奏でて歌える。
実はこの唄、2月のカラオケ会で歌う1年ほど前から私の頭に時折浮かんでいた。去年3月に私は今の住まいに引っ越したが、今の住まいは宜野湾市役所がすぐ近くにある。市役所のすぐ傍には「世界一危険な基地」として名高い普天間飛行場がある。ということもあって、市役所前では市民団体の集会が時々行われる。集会がある時はたいてい右翼団体の街宣車がやってきて集会の演説などを邪魔するように大声で悪態をつく。
右翼の悪態を聞いている時に私の頭の中に『芭蕉布』が浮かんだ。市民団体も演説を一時ストップして、『芭蕉布』をスピーカーから流してくれないだろうか、この美しい唄を聞いたなら、右翼団体も下品な悪態は恥ずかしいと感じるだろうと思ったのだ。
2月のカラオケ会で『芭蕉布』を歌いながらもう1つの考えが浮かんだ。この唄を反基地運動のテーマソングにして、辺野古でも流したらいいのにと。ゆったりと流れるメロディーに美しい歌詞、この唄の中に身を置くと、平和が一番大事という気分になる。辺りに優しい気が流れ、あちらとこちらで罵り合うことも無かろうと期待できる。
ちなみに、著作権の問題があるかもしれないのでここには載せないが、歌詞は3番まであって、メロディーだけでなく歌詞も美しい。ウチナーグチ(沖縄語)はほとんど出てこないので倭人でも理解できると思う。機会があれば聴いてみてください。
記:2019.4.1 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行
『心のうた 日本抒情歌』野ばら社編集部編集、株式会社野ばら社発行
農夫の応援歌
畑仕事をしながら時々歌が出てくる。歌は頭の中で流れることが多いが、たまには口からハミングとして出てきたり、覚えているものはちゃんと歌ったりしている。
畑仕事をしながら出てくる歌はいくつかあるが、その1つに「何でこの歌?」と自分でも不思議に思うのがある。確か、私が小学生の頃に流行った歌、園まりの『逢いたくて逢いたくて』。1番しか覚えていないので、1番ばかり繰り返している。ちなみに、
愛した人はあなただけ 分かっているのに 心の糸が結べない 二人は恋人
好きなのよ好きなのよ 口づけをして欲しかったのだけど
切なくて涙が出てきちゃう
私の記憶が正しければ以上が1番の歌詞。園まり、当時まだ20歳前後だと思うが、こんなに色っぽい人は他にいないと、少年の私は股間を熱くしていたと覚えている。
畑仕事をしながら出てくる歌で、「これは当然」と思う歌もある。それは『汗水節』、アシミジブシと発音する琉球民謡。これも1番しか覚えていないが、実は最近、その1番でさえ間違えて覚えていたことに気付いた。出だしの「あしみじゆながち」が、私の記憶では「汗湯水流し」で、「汗を湯水のごとく流し」という理解であった。正確には、
汗水ゆ流ち 働ちゅる人ぬ 心嬉しさや 他ぬ知ゆみ
ユイヤ サーサー 他ぬ知ゆみ スラーヨー スラ 働らかな
となる。『汗水節』は『正調琉球民謡工工四』の第一巻に収められている。出だしの「汗水ゆ流ち」は「汗水を流し」という意。「ゆ」は沖縄語で、格助詞の「を」にあたる。
私の不十分なウチナーグチ(沖縄語)知識でその意味を述べると、
汗水を流して 働いている人の 心嬉しさは (そうでない)他人の知るものではない
となる。ちなみに、「ユイヤ サーサー」と「スラーヨー スラ」は囃子言葉。歌詞は6番まであり、大雑把にいうと「働いて、お金を貯めよう、働いて60歳になっても元気でいよう、子供には学問をさせよう、社会のために尽くそう」といった内容。
『汗水節』は『沖縄大百科事典』に解説があり、作詞は仲本稔、作曲は宮良長包で、1929年に発表されたもの。宮良長包は有名な沖縄の作曲家で、私でも知っている。彼の作品に『えんどうの花』があり、これはウチナーンチュの多くが知っている。
1929年と言うと、もう戦争の足音が聞こえてきた頃だろう。そんな社会で作られた歌、世のため一所懸命働こうといった内容はそんな社会の雰囲気を映しているのかもかもしれない。しかし私は、少なくとも1番の歌詞についてはそんな雰囲気をちっとも感じないまま歌っている。難儀な作業を、少しでもその難儀を軽減させようと歌っている。実際に心嬉しさはある。作業を終えて家に帰ってからを想像すると心嬉しい。
畑仕事を終えるとクタクタに疲れているが、夕方家に帰って、畑の作物を料理している間は「美味しいだろうな」と想像し幸せを感じている。シャワーを浴びてサッパリして、テーブルに料理を並べて、ジョッキにビールを注いでいる間も幸せ。そして、自分で作った料理を食べて美味いと感じ、ビールをゴクゴク飲んで幸せの最高潮となる。
ビールのために農作業という難儀な仕事をしているとも言えるが、確かに、草刈や耕す作業などに面白さは無いのだが、種を播くと、芽が出るかどうかの楽しみがあり、芽が出ると、育つかどうかの楽しみがあり、花が咲き、実が着く楽しみがある。収穫したものをいかに料理するかの楽しみがあり、食べる楽しみがある。畑仕事は、お金にはちっともならないが、天が人間に与えた「幸せに生きるための仕事」と、私は思うのであった。
記:2017.11.18 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行
沖縄のオバサン
沖縄のローカルラジオ番組である「民謡でちゅううがなびら」が好きで、高校生の頃から聴いている。今は平日の午後4時からの開始だが、数年前までは平日の午後3時からの開始だった。平日の午後3時なので高校生の頃だと春休みとか夏休みとかに聴いていたのだと思われる。浪人生(宅郎だった)になると聴ける機会は多くあった。
私は、沖縄民謡が好きというよりも興味があった。沖縄に根付く音楽、今でも新しい民謡がどんどん生まれている音楽、土着の気分に合う何かがあるはずだ。民謡番組の「民謡でちゅううがなびら」は民謡が多く流れる。ところが私は、「民謡が大好き」というわけではないので、民謡が流れている時間、熱心に耳を傾けていたのではない。私が熱心に耳を傾けていたのは民謡が流れていない時間、出演者たちのユンタクの時間だった。
高校、浪人の頃は出演者が誰だったか覚えていないが、大学を卒業して沖縄に帰ってからは、配送の運転手をしていたこともあってラジオを聴ける環境にあり、「民謡でちゅううがなびら」もよく聴いていて、出演者も上原直彦、八木政男、北島角子であったと覚えている。ただ、八木政男、北島角子は子供の頃から知っている。2人とも俳優。
子供の頃、テレビで沖縄芝居を放送する番組があった。確か、「水曜郷土劇場」とかいう番組名だった。はっきり覚えてはいないが、八木政男も北島角子も時々その番組に出演していたのではないかと思う。最近観たDVD(図書館から借りたもの)では『丘の一本松』に2人共出演していた。そのDVDは舞台演劇を撮影したもので制作年月日は不詳だが、おそらく、画面の北島は60歳超えていて、見事なオバー(お婆さん)役を演じている。私が小学生の頃なら、北島は30代半ばだ。その頃の印象はよく覚えていないが、北島角子は私にとってずっとオバサンだった。見事な沖縄のオバサンであった。
会社をリストラされて農夫になった2012年夏からは「民謡でちゅううがなびら」をほぼ毎日聴いている。放送時間が午後3時から午後4時へとなったのはその後だと記憶している。そして、去年のたぶん今頃から、「民謡でちゅううがなびら」に北島角子の声が出なくなった。「歳が歳だけに体のことを考えての引退かな」と思った。そして、
1月ほど前の今年(2017年)4月10日、午後4時、私はその日、介護施設のバイトで、デイサービスにいるご老人達を宿泊施設へ送り届けるため車で待機中、車で待機中はいつもラジオを点けている。午後4時になると「民謡でちゅううがなびら」に周波数を合わせる。一緒に乗るご老人方の多くも民謡が大好きだ。「民謡でちゅううがなびら」はいつものテーマソングで始まったが、その後の出演者の声はいつものようではなかった。メインの上原氏から「北島角子さんが亡くなった」旨の報告があった。
北島角子が私にとって身近な人だったなら「煩ぇオバサンだ」と、自由大好き私はきっと思うだろうが、それと共に、その凛とした姿勢と言葉に「面白ぇオバサン」だとも思ったに違いない。もしかしたら仲良しになったかもしれない。私にとってはいかにも沖縄の元気なオバサンというイメージのまま4月9日他界。享年85歳とのこと。合掌。
記:2017.5.5 ガジ丸 →沖縄の生活目次
琉歌(りゅうか)とは、和歌に対応するもので、沖縄の伝統的文芸の一つ。和歌の文字数が5、7、5、7、7であるのに対し、琉歌のそれは8、8、8、6となっており、和歌の文字数のことを三十一(みそひともじ)と言うのに対し、琉歌のそれは三八六(さんぱちろく)と言ったりする。琉歌そのものも独立した文芸の一つであるが、琉球古典音楽において曲に乗せて謡われたり、琉歌が歌詞となっている民謡も多くある。
実は、私は琉歌のことをあまり知らない。知らないのにここで紹介する。恐れを知らないチャレンジャーなのである。恥を恐れず知らないことを紹介するのは、知らないことを知るということが主たる目的となっている。先日、図書館で少々勉強してきた。
私の言い訳はともかく、琉歌の有名な歌人としては、これは今回勉強するずっと前、子供の頃から知っていることだが、恩納(ウンナ)なべ(鍋のこと。沖縄語ではナビ、またはナビィと発音する)や吉屋(ユシヤ)つる(鶴のこと。沖縄語ではチル、またはチルゥと発音する)などがいる。恩納は18世紀、吉屋は17世紀の女流歌人。
恩納ナビの作品の1つも、おぼろげだが覚えている。間違っていると申し訳ないので参考文献の一つ『沖縄大百科事典』の力を借りる。
恩納岳(ウンナダキ)彼方(アガタ) 里(サトゥ)が生まり島
森(ムイ)ん押(ウ)し退(ヌ)きてぃ 此方(クガタ)為さな
里とは恋人(男)を指す。それだけ説明すればウチナーグチ(沖縄語)を知らなくともあとは想像できると思う。恋人への愛を情熱的に詠ったもの。
古典音楽では、和文化の影響を受けて7、5調のものも多くあるが、結婚式でよく踊られる「かじゃで風」は琉歌となっている。古典に関してはほとんど記憶していないが、民謡なら覚えているものも多い。例えば「白浜節」や「汗水節」。
我や白浜ぬ 枯松がやゆら 春風や吹ちん 花や咲かん
汗水ゆ流ち 働ちゅる人ぬ 心嬉しさや 他ぬ知ゆみ
わらべ唄も三八六となっている。例えば「てぃんさぐぬ花」や「赤田首里殿内」。
てぃんさぐぬ花や 爪先に染みてぃ 親ぬ由し事や 肝に染みり
赤田首里殿内 黄金灯篭下ぎてぃ 之が灯がりば 弥勒御迎ぇ
図書館に行くと、琉歌に関する本は多くあった。学問として深く研究したような分厚い本もあった。それらを参考にすれば、もっと詳しく述べられると思うが、私の衰えた脳味噌には荷が重過ぎて断念。ということで、以上の大雑把な説明で終えたい。
ついでに、最近覚えた琉歌が一つある。ラジオから聞こえてきたものだが、「これだ、これなら言い訳になる」と何度も復唱して記憶した。何の言い訳かと言うと、「真面目だねぇ」、「そんな真面目に生きて何が楽しいの?」と女性から問われた時の言い訳。
浮世(ウチユ)ナダヤシク 渡(ワタ)イブサアリバ
誠(マクトゥ)ユイ他(フカ)ヌ 道ヤ踏ムナ
浮世は「世の中」、ナダヤシクは「穏やかに」、ワタイブサアリバのブサは「~たい」と希望を表す接尾語、アリバは「あれば」で「渡りたいのであれば」となる。ユイは「~より」で、全体を訳せば、
世間を穏やかに渡っていきたいのであれば
誠の道以外の道を踏んではならない
ということになる。これです、私の言い訳は。真面目に生きていれば楽なのだ。
記:2016.2.25 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
300坪の畑を借り(まだ仮だが)て以来、300坪全面に大いに茂った雑草を刈り取るのと、休憩場所となる畑小屋の製作とで毎日が忙しくなった。そのため無期限延期となっている作業がいくつもある。「加害者としての沖縄」調べもその一つ。
沖縄戦で多大な被害を蒙り、多くのウチナーンチュが不幸に会ったが、ウチナーンチュもまた戦地へ出征した中にはアジアの人々に酷いことした兵士もいたであろう。日本兵から差別されることのうっぷん晴らしに、より弱い立場にいる朝鮮から徴集された兵隊たちに差別的な言動を取る兵士もいたであろう。被害者としてだけでなく、加害者であったことも書いておかなければ、右寄り教科書に文句は言えないと思ってのこと。
ウチナーンチュの差別意識はしかし、戦時中における外国人に対してのものを調べるまでも無く、沖縄の中にあった。首里王府のある沖縄島はオキナワである。宮古諸島はミヤコであり、八重山諸島はヤエヤマだ。つまり、それぞれが独特の文化を持った気分的には独立した地域である。それは単なる区別なのだが、王府は差別した。
宜野湾市立図書館の郷土資料コーナーに気になる本を見つけ、借りた。本は漫画の単行本。題名は『島燃ゆ』。人頭税廃止のために闘った宮古の農民たちを描いている。作者は新里堅進(しんざとけんしん)氏。新里堅進の名は知っている、私の200冊を超えるコミック単行本の中に氏の作品『水筒』がある。画質のしっかり(漫画チックでは無いという意味で)した、真面目に対象を捉える漫画家という認識を私は持っている。
『島燃ゆ』の題材となっている人頭税、広辞苑の説明では「各個人に対して頭割りに同額を課する租税。納税者の担税能力の差を顧慮しない不公平な税とされる反面、経済的には中立的な税とされる」となるが、『沖縄大百科事典』に沖縄での人頭税(ニントウゼイと読む)が詳しく載っている。大雑把にまとめると「起源は定かでないが、薩摩侵入(1607年)から20年ほど後ではないか、廃止年は1903年。13歳から50歳までの男女に課せられ、個人の能力、土地の能力、天災などを考慮しない税制」となる。
怪我や病気で動けなくなっても、台風や干ばつで不作であってもお構い無しの過酷な税だ。「そのうえに在地役人のなかには・・・収奪をかさね」たこともあり、宮古では「赤子の圧殺、堕胎などの間引きをはじめ・・・」などとある。元々過酷な税制の上、在地役人(ウチナーンチュだ)に悪い奴らがいて、悲惨なことが起きたのである。
『島燃ゆ』は宮古島での人頭税廃止運動を描いている。那覇人の城間正安と新潟人の中村十作という若者二人がリーダー格となって、地元農民たちと団結し、様々な妨害、困難を乗り越えて、ついに人頭税廃止を勝ち得るまでの物語。
薩摩藩の琉球侵入以降、薩摩に搾取され、琉球王府も金に困り、しょうが無くかような過酷な税制を課したという言い訳もあるが、王府にとっては宮古・八重山は武力によって征服した属国であり、差別して構わないという気分もあったのであろう。
『島燃ゆ』には私の知りたかった「加害者としての沖縄」がかように描かれている。ではあるが、作品の主題は「不屈の闘志」と「正義」である。「不屈の闘志」によって「正義」が達成される。「そうだぜ、世の中はこうでなくてはいけない」と不屈の闘志を持たない私(正義感は少々持っている)は、気持ち良く本を閉じたのであった。
記:2012.8.6 ガジ丸 →沖縄の生活目次